ぶうちん村、風わたる。

風の吹くまま、気の向くままなんて、なかなかできませんが、楽しみを見つけながら過ごしたいものです。

先生はいじめられた人の味方と言い切っていいのか ④

2006年11月13日 22時07分24秒 | Weblog
 県教委が実態調査を実施した結果、約1100件の該当事例があったという報道があった。昨年度の157件からすれば異常なほどの数値の跳ね上がり方だ。
 その報道の中で、いじめの定義として「本人がいじめと思えばいじめである」としていた。実に曖昧模糊とした表現であることは否めない。裏を返せば「いじめと思わなければいじめではない」ということだ。
 調査する先生たちが子どもたちにどう語って、またはどういう価値判断で、事例を掘り起こしたのか分からないが、この数値にあまり意味はないというのが私の率直な評価だ。
 というのも、「いじめと思わなければ、いじめではない」からだ。いじめと気づいていない、いじめと言いづらい、それらしい行為は受けていてもいじめだとは思わないといった子どもまたは先生たちの判断があるからだ。
 さて、昨夜指摘した「究極の学校生活」だが、一言で言えば、接触を伴う全ての教育活動等について保護者の許可状をとるということだ。
 異性と手をつなぐフォークダンスは男女ともに心ときめく瞬間でもあるが、嫌いな異性との接触は気持ち悪いという子は当然だが、握り具合ではセクハラだと問題視されるだろうから、握り具合を数段階に分けるという指導を先生たちはしなければならなくなるし、そのためにあらかじめ、お互いに握り具合をどうするのか話し合う活動が「総合的な学習の時間」として扱われる。その達成度しだいでは先生たちの指導が十分か不十分かで裁判沙汰だ(それとも評価制度との関係で賃金を左右する?)。
 小規模校ではかけっこの順位など、こけるとかよほど不測の事態がないかぎり決まっている。にもかかわらず運動会であえて順位が分かっているかけっこをさせ、子どもが傷ついたと言えば、精神的なダメージを受けたとして、これまた裁判沙汰。
 プロレスごっこは誰がしても技をかけられれば痛いし、技は簡単にはずすわけにはいかないのがプロレスごっこだ。痛いから技をはずしてほしいという要求をしたのに、すぐにはずさなければ、暴力行為が本人の意志を無視して継続されたとして、裁判前に現行犯で即逮捕。
 そうなる前に、保護者に許可状をとろうというものだ。フォークダンスの時には手をぎゅっと握ることがあってもいい、順位があらかじめ分かっていても不特定多数の前でそれを披露してもいい、プロレスごっこでは何をしてもいいといった想定される事態については個別に?許可状をとっておけばいい。
 もしかすると、30年後くらいには、「なかまと手をつなぎ」といった歌詞は全て死語と化し、子どもたちは半径1m以内に許可された者以外の接触ができないようなセンサーをからだにまとって学校生活を送ることになるかもしれない。
 ・・・・・ 筒井康隆のショートショートのような世界だが、あながち非現実的なものとは言い切れまい。なにせ、20年ほど前に私が聞いていたアメリカの裁判社会の現実が今や笑えない状況に日本もなっているからだ。

PS 予告状の主はどうなった? まだ・・・のようだが。生きているのか、死んだのか。興味はつきない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 先生はいじめられた人の味方... | トップ | 椿山課長はなかなかのもので... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事