ぶうちん村、風わたる。

風の吹くまま、気の向くままなんて、なかなかできませんが、楽しみを見つけながら過ごしたいものです。

人権の名の下に人権が蹂躙されていいのかと思う。

2008年04月24日 00時26分40秒 | Weblog
 10代の頃からずうっと人権団体の活動に参加している私ですが、この1年、人権に対する認識がすっかり変わってしまったような気がします。

 いくつか事例を挙げます。

 山口県光市の母子殺人事件。
 死刑は野蛮な刑罰だからやめよう、やめさせようという事件の内容とは全く異なる思惑で被告を支えている人々。
 自分の家族があんな殺され方されてもいいのか、被害者の立場に立って考えるべきです。
 死刑がどうこうではなく、死刑が取り沙汰された途端に多数集まってきた弁護士って、今まで何をしていたの?
 
 同じ事件。
 判断力のない状態であれば、人を殺してもいいんでしょうか。
 人を殺す時に冷静でいられる人間ってどんだけいるんでしょうか。以前、「障害」児の将来を悲観した親が無理心中を図ったことがありました。親は我が子を殺す時、冷静だったのかなと思います。
 いわゆる(鹿児島弁で)「まっきった」状態です。 ・・・ 無罪???
 判断力があろうがなかろうが、人殺しの事実に変わりはありません。刑罰を受けさせるべきでしょう。

 今時の子ども。
 大事にされる、というよりも、誰かに、大事にしてもらうという意識の親が多いですよね。
 子どもにもおとな同様の人権があるって琴は分かっています。だからと言って、子どもとおとなは人権において対等ではありません。
 おとなは経験的に人権の大事さを獲得してきています。でも、子どもにはその経験はありません。
 先生をしているある友人から数年前に聞いたある事例、
 小学3年生の子どもが悪さをしたがために、親から「そんなことをしたら罰として食事は抜きますよ」と言われたことに対して「子どもを育てる義務があるんだろう。その義務を放棄しているじゃないか」・・・これに親がキレて食事を与えなかったら児童虐待・・・?

 変な人権意識、対等意識が蔓延しているように感じます。
 その結果、私が一番(いわゆるオンリーワンですか・・・)意識が先行し、周囲との協調とか協力とかいう意識が希薄になり、集団・組織といったものが崩壊している現状は憂慮します。

 私はどちらか言えば、ヒダリ系の人間ですが、この危機感だけはミギの人たちと共有できると思います。
 

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