某ソーシャルブックマークの関係で知った記事ですが・・・
安易か否かは自分がいちばん知っている
羽根田治の安全登山通信
うーーむ。
いささか違和感が・・・・・最後のところだけですけどね。
引用
その救助要請が安易か安易ではないかの判断は、たしかに第三者には難しい。だけど、実のところどうだったのか、きっと本人にはわかっているはずである。正当化する理由をいくら考え出そうと、自分にウソはつけない。もちろん、自分でも判断を下しかねるグレーゾーンのケースだってあるだろうが、みんなが内なる声に耳を塞ごうとしなければ、増え続ける遭難事故に少しは歯止めをかけられるのではないだろうか。
引用おわり
これは要するに、安易な救助要請をしてくる人のほとんどは、もっと頑張れることを自分でも意識しているのではないか?ということのようです。
これって意識の高い(?)登山者が悩みに悩んだ挙げ句、救助要請に手を出してしまった、って感じですけど、大半の「安易な」救助要請をしてくる人のレベルって、うんと低いと思います。内なる声がどうのこうの、というより、脊髄反射で救助要請しているのが真の姿なのではないでしょうか。
この記事の中間ぐらいに、
引用
第三者が「そりゃあ安易でしょ」と思ったとしても、当事者は生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれているように感じていたかもしれない。
引用おわり
ってありますけど、これはそうだなあと共感するんですけどね。
私は仕事柄、大勢の遭難者、あるいは遭難未遂の人に会ってますけど、その中にはもちろん「安易だなーー」と思うケースがぎょーさんあるわけです。でも、本人に会って話を聞いてみると、真剣そのものなんですよ。本人は「これはもう救助要請しかない」と思って連絡してくるわけであり、こちらとしては「大丈夫大丈夫、大丈夫だおおおお~」と、なだめたりスカしたりしながら自力下山の方向に持って行くわけです。
簡単に言ってしまうと、ほとんどの登山者はどういう時に救助要請するべきなのか、あるいは頑張って自力下山すべきなのか、考えたことが無いのです。ウチのブログを読んでいる人なら日夜考えに考え抜いているでしょうけど、そんな登山者はごく一握りです。
だからピンチになったとき、それが本当に救助要請を必要とするほどピンチなのか、それとも「安易な救助要請だ」と各方面から非難囂々になる程度のささやかなピンチなのか、本人は判断できていないのです。
そしてもうひとつ、突発的事態に陥ったとき、人間の能力は大幅に落ちるのです。簡単なことが判断できなくなるものですよ。
これについては零戦で有名な坂井三郎氏が、面白いことを言ってます。
「幅1m、長さ10mの板を地面に敷き、その上を自転車で走り抜ける。これは誰にでもできる。この板を1mの高さに設置するとどうなるか。やや不安を感じるだろうけど、ほとんどの人が走り抜けることができるはず。ではこの板を高さ10mの空中に設置したらどうなるか。ほとんどの人は怖くて自転車を走らせることすらできないだろう」
ニュースなどに出てくる遭難の報道を見て「安易だなあ」と考えるのは誰でもできるのです。が、実際に現場で遭難に近い状況となった時、どれだけの人が冷静に行動できるものなのか。私は悲観的です。
さらに言うと、携帯電話で気軽に連絡を取れてしまうことが安易な救助要請に拍車をかけているのでしょうね。よく「昔はそんな安易な救助要請をしなかった」と言う人がいますけど、ぶっちゃけ、昔は携帯電話が無かっただけなのです。連絡手段が無くて誰にも頼れなければ、誰だって自力で降りるしか無いと考えます。が、今は簡単に電話で相談できてしまうわけです。
安易な救助要請を減らすには、結局、登山者全体のレベルを上げるしかないというつまらない話になってしまうのですけどね。
安易か否かは自分がいちばん知っている
羽根田治の安全登山通信
うーーむ。
いささか違和感が・・・・・最後のところだけですけどね。
引用
その救助要請が安易か安易ではないかの判断は、たしかに第三者には難しい。だけど、実のところどうだったのか、きっと本人にはわかっているはずである。正当化する理由をいくら考え出そうと、自分にウソはつけない。もちろん、自分でも判断を下しかねるグレーゾーンのケースだってあるだろうが、みんなが内なる声に耳を塞ごうとしなければ、増え続ける遭難事故に少しは歯止めをかけられるのではないだろうか。
引用おわり
これは要するに、安易な救助要請をしてくる人のほとんどは、もっと頑張れることを自分でも意識しているのではないか?ということのようです。
これって意識の高い(?)登山者が悩みに悩んだ挙げ句、救助要請に手を出してしまった、って感じですけど、大半の「安易な」救助要請をしてくる人のレベルって、うんと低いと思います。内なる声がどうのこうの、というより、脊髄反射で救助要請しているのが真の姿なのではないでしょうか。
この記事の中間ぐらいに、
引用
第三者が「そりゃあ安易でしょ」と思ったとしても、当事者は生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれているように感じていたかもしれない。
引用おわり
ってありますけど、これはそうだなあと共感するんですけどね。
私は仕事柄、大勢の遭難者、あるいは遭難未遂の人に会ってますけど、その中にはもちろん「安易だなーー」と思うケースがぎょーさんあるわけです。でも、本人に会って話を聞いてみると、真剣そのものなんですよ。本人は「これはもう救助要請しかない」と思って連絡してくるわけであり、こちらとしては「大丈夫大丈夫、大丈夫だおおおお~」と、なだめたりスカしたりしながら自力下山の方向に持って行くわけです。
簡単に言ってしまうと、ほとんどの登山者はどういう時に救助要請するべきなのか、あるいは頑張って自力下山すべきなのか、考えたことが無いのです。ウチのブログを読んでいる人なら日夜考えに考え抜いているでしょうけど、そんな登山者はごく一握りです。
だからピンチになったとき、それが本当に救助要請を必要とするほどピンチなのか、それとも「安易な救助要請だ」と各方面から非難囂々になる程度のささやかなピンチなのか、本人は判断できていないのです。
そしてもうひとつ、突発的事態に陥ったとき、人間の能力は大幅に落ちるのです。簡単なことが判断できなくなるものですよ。
これについては零戦で有名な坂井三郎氏が、面白いことを言ってます。
「幅1m、長さ10mの板を地面に敷き、その上を自転車で走り抜ける。これは誰にでもできる。この板を1mの高さに設置するとどうなるか。やや不安を感じるだろうけど、ほとんどの人が走り抜けることができるはず。ではこの板を高さ10mの空中に設置したらどうなるか。ほとんどの人は怖くて自転車を走らせることすらできないだろう」
ニュースなどに出てくる遭難の報道を見て「安易だなあ」と考えるのは誰でもできるのです。が、実際に現場で遭難に近い状況となった時、どれだけの人が冷静に行動できるものなのか。私は悲観的です。
さらに言うと、携帯電話で気軽に連絡を取れてしまうことが安易な救助要請に拍車をかけているのでしょうね。よく「昔はそんな安易な救助要請をしなかった」と言う人がいますけど、ぶっちゃけ、昔は携帯電話が無かっただけなのです。連絡手段が無くて誰にも頼れなければ、誰だって自力で降りるしか無いと考えます。が、今は簡単に電話で相談できてしまうわけです。
安易な救助要請を減らすには、結局、登山者全体のレベルを上げるしかないというつまらない話になってしまうのですけどね。