ボナさんの北海道の釣り三昧II(休養中)

投げ釣り主体に北海道の沿岸に出かけます。夏にはフナや鯉釣りも。

妙なジンクス

2016-07-11 15:37:30 | 釣り
私は、色んなジンクスめいたものを持っていて、気になったことは、妙に引っ掛かり、それが外れることが少ないので、またそのゲンを担ぐようになってしまいます。釣り場に梅干しは、ダメですね。ボーズに縁ができてしまいます。

科学的な職業についていながら、非科学的なことを気にするようになりました。新人の時に、看護婦長(当時は婦長さんと呼んでいました)から、私達が気にしないことでも、患者さんや家族が忌み嫌うことが世の中に沢山ありますから、先生もしっかり、憶えておいてください、とレクチュアを受けました。

それ以来かもしれません。病院では、科学的に説明のつかない現象に遭遇もしますので、夜中に釣り場で一人でじ~としている場合には、早く明けないかな~と願っております。実は、釣り場に、最近ご一緒する黄門さんが豪傑ですので助かっております。

たまたま仕事がない朝にMLBを見ていて、日本人が出ている時に、ピッチャ~が勝つことは滅多にありません。打たれそうになると、意識的にテレビを切って別のことをしております。今日も、テレビを点けると、11-1から11-7まで打ち込まれて、マー君は、5回の途中で交代させられ、勝ち星はつきませんでした、チームは勝ったのですが。

三度寝

2016-07-10 22:17:31 | 釣り
今朝4時過ぎに誰かの大きな寝言なのか、物音で目が覚めてしまい、二度寝はなかなか目が覚めずに、寝坊はするし、雨の中、選挙の帰りにコンビニで買った菓子パンのジャムがジーンズの上に落ちるはで、三度寝になるかもしれないご近所の理髪店に行きました。

いつもは、身体が逃げよう逃げようとする丁寧な耳かきもスルーせずにうとうととしてほじって貰っておりました。頭がすっきりして、依頼原稿にも手を付けられそうです。7月末の期限まで、もう7月も3分の1過ぎてしまいました。

釣りに行かないのは、身体に毒ですね、さっぱり調子がでません。どんよりした雨空のせいかもしれません。ボケ防止の為に引き受けたのですが、リタイヤ後、もう浦島太郎状態になっているのですから、エライことを引き受けた、と反省しております。写真下は、ご存知日勝大和の小川前、今年はどうなっているのでしょうか、不安です。昆布採りの船で混みあうでしょうね。



人の嫌がる昔話や自慢話も混ぜ交ぜで書き出してみます。格好つけてもしょうのないことです。自分の専門分野の最近の論文を吟味し、心して書いてみます。

コンブ漁の時に

2016-07-09 19:52:31 | 釣り
来週と再来週は、旭港からのエリモでの釣り会が続きます。バス会社の都合で、7月17日に決まったのですが、奇しくもその一週間後は、ほぼ同じ範囲で北海道釣魚連盟の全道大会が開催されます。

がん検診の結果がどうでようと、再発や転移が無かったなら、お祝いのように釣りが出来る。もし、悪い方なら、釣りが出来る時間も少なくなるから、釣りに行ったら~とカミさんに言われてしまいました。

全道大会のエントリーは、入れて下さいと、あとからいうのは、無理があるので、思い切って、参加します。とS支部長に返事しました。沢山の釣り仲間が全道各地からやってきますので、久し振りに皆に会えます。タカノハにも会いたいですね。10年前の同じ範囲で行われた秋の医釣会大会。2007年、10月7日、南東洋湾洞の岸からゴロネット仕掛けで釣り上げた51オーバーのタカノハです。私は、あとはハゴトコだけですから、2の5の審査方法で1077点で7位でした。左から2人目の栃真賀さんオオアブ含めて1450点が優勝。左端の西江先生がカジカ揃えて1253点で準優勝。右端の古川さんが1246点で3位でした。



もう、多くの大会が、エリモの西海岸と東で開催され、越冬ものをはじめ、大物は、ほとんど釣り上げられて、夏枯れになっているでしょう。昆布漁が始まって、その上、釣りづらくなります。匂いが付くと昆布が売れなくなりますので、イカゴロは、コンブ干場では、忌み嫌われます。注意して釣りましょう。

日程調整に励む

2016-07-08 21:16:47 | 釣り
今日は、カミさんと私の通院日。私のマスク姿に看護師さんが「予防の為ですか?」と聞き、採血しますので、座っていてください。と告げた。PT-INRの検査用の採血に慣れていない看護師によっては、何度か刺されたことがあった。留萌の瀬越浜の上から暑寒別岳を望む、私の好きな風景。



今日は、スムーズに採血されたので、いらだちがなかったせいか、診察時の血圧は、130台でした。白衣高血圧症を示しがちな私にとっては、滅多にない低値でした。私の方が、先に診察が終わったので、カミさんに院外処方箋を渡し、銀行に向かい、底をついていた財布を補充した。

丁度主治医の夏休みと私の仕事の日が重なるので、予定通りに8月の通院は叶う。場合によっては、薬が切れるところだった。内科の通院、釣り、夏休みと墓参などと日程の調整は、慎重にタイムスケジュールをメモしておかねばならない。

8月は、お盆を挟み、殺生したくないので、出来るだけパスして過ごしてきた。今年も精進する積りであったが、8月7日は、3年から5年の間隔で開かれる釣魚連盟の段位戦という段位別に成績が発表される大会。逃げるわけには行かないから、参加する予定。また、8月21日は、早朝より、バラト一円での全道淡水大会。所属する札幌中央支部が、当番幹事なので、義務的というより好きなので参加する。留萌に少し顔を出し、カミさんとの旅行は、9月にずらそうと思っている。


緑陰散歩

2016-07-07 13:59:05 | 釣り
慌ただしい1週間、寝不足が続きました。マイアミ大学に留学中のメリーさん一家は、もう夏休みでしょう。メリーさんのところの子供たち、もう3人になりました。カミさんと夏の普段着を母の日のプレゼントのお返しに送ろうとビール園傍のスーパーに行きました。

先日、送られてきた3人の写真を店員さんに見せて、見繕って貰いました。自宅で日本語教室を開いていた当時の学生のひとりでした。私の研究室で学位を取り、アメリカに渡って10数年です。その後、自宅の日本語教室は手狭になり、ボランテイア団体の日本語教室として道庁傍に移りました。



日本語教室の毎回10名以上が集まっていた部屋に、孫たち3人が住むようになりました。月日の経つのは早いものです。買いものの後、ビール園の木立の中(写真上)を、緑陰散歩して、昼食を済ませました。ラーメンサラダと言う名の冷やしラーメンです(写真下)。いつも、写真を写すタイミングが遅れます。行儀が悪く、箸をつけた後です。薄味で軽く私の昼食向きでした。味を確かめてから写真を撮るのを常としていますので、悪しからず。



私のブログをマイアミでも見て呉れていて、時々コメントしてくれます。彼女の大腸がんの研究も一つのテーマとか、縁ですね。先日の検診で、苫小牧の釣りフアンが、診察を終えると、いつも見てますよ、と笑顔で声をかけて呉れました。時々顔を出すスナップや集合写真を見て、憶えてくれていたのでした。

夏は、外に向かって

2016-07-06 20:18:46 | 釣り
三日連続で早朝に起きています。眠いけれども、充実しております。夏は、家の中に居ないで、戸外に出ましょう。相対的に同期生と肌の色を比べてみて分かったことですが、陽に焼けていません。不本意ですが、我ながら弱々しそうにみえます。6月に、3度も釣りで戸外にいたのですが、徹夜の釣りで、太陽の出ている時には、バスの中で寝ていたせいでしょう。

手稲から参加したMさんは、農家ではありませんが、娘さんの家に同居して、トマトだけでも40本植えている。そのほかに、豆も、ぶどうもと、陽に焼けた顔に白い歯がまぶしかった。私はカミさんの植えた10本のトマトの水遣りだけでうんざいりしているのに。Mさんは、朝食の隣に座った極力、太陽の光から身を守っている真っ白な肌の同期生と肌の色を比べている私をみて、笑っておりました。



毎日外に出ていると、健康になるよ、マスクばかりして、家の中にいると、いつまでも、病み上がりの顔だよ、と笑われていました。高校時代は、毎日、瀬越の浜(写真上)で朝ごはんのあとは、夕方まで、砂浜でごろごろしていました。



ひと夏で3度位、背中の皮がむけました。今は、熱い時には、昼寝をしていますが、一度に焼くのは、皮膚がんになったり、身体に良くはないので、ゆっくりと、すこしづつ、戸外にいて陽光を浴びて行こうと思っております。早起きして出かけた苫小牧、昼ごはんは、写真上の名物ホッキのカレー。凄いボリュームです。ホッキの好きなカミさんと二人で食べても食べきれないでしょうね。

慕情ー留萌線

2016-07-05 22:11:11 | 釣り
同期会が終わって2日間経つのですが、眠気が、時々出てきます。年甲斐もなく、はしゃぎ、11時近くなって、カラオケを唄って、北海盆歌が、例の締めとなって、フラ付きながら盆踊りを皆で輪になって踊ってました。

着替えの入ったボストンバッグが紛失したという、ひと騒動有りましたが、気を使って同郷出身者が、部屋に運んでました。心配していた皆がホッとして、ぐっすり眠れたのかと思ったら、各部屋で朝方まで興奮しておしゃべりが続いていたのでした。

朝食後の三次会が始まる前に、急な呼び出しで仕事に戻らなけりゃならなくなって、他の幹事に後を頼んで抜けました。プリントのスケジュールに沿って、皆が幹事役を引き受け、昼前まで続いたそうで、ホッとしました。借地との境界線に、3年前、娘とカミさんが大通りの花フェスタで買ってきたバラが咲きました、こんなにも見事に。今年の花フェスタは、雨にたたられましたが、気温は上がって夏になってきたのです。



来年は、同期会開催の前日に、体調を崩し、入院することになった名物幹事の元気な姿を皆に見せる為にも、楽しい会を催したいと思っております。増毛から留萌の沿線の風景や、釣りや海水浴、暑寒岳登山など、留萌への慕情をテーマに語り合おうと思っております。留萌の中学同期の芸術家、旭川の有志から預かった留萌の資料を皆に供覧する積りです。


同期会がクラス会になる

2016-07-04 23:53:11 | 釣り
高校卒業してから59年。350数名の中で、10年の間に数回同期会を開催したことによって情報が方々の同期生から伝わって消息の掴めている同期生は、半数。案内状を郵送して連絡のついたのは141名。5通が住所不明で。戻ってきました。2名の家族から死亡の知らせが届きました。ひとりは、昨年の夏、難病を患い、心臓も弱っているので、皆の顔を見たくて来てみた、と受付している我々や、早めに到着した同期生の写真を撮って送ってくれました。今年1月に亡くなられました。無念だったと思います、合掌。スケッチ下は、留萌高校旧校舎。



都合136名から126名の出席や欠席の返事に加えてひと言の近況が記さられて送られてきました。出たくても、いろんな事情があって参加できない気持ちが伝わってくる欠席のハガキ達でした。写真は留萌高校の旧校舎、教員宿舎からみた職員玄関です。若い男の先生たちの部屋に押しかけた思い出が浮かんできます。



留萌の防波堤で暗くなるまで竹竿にテグスに浮きの仕様で一緒に小サバ釣りをして、家族に心配かけ叱られた中学の時の同級生も身体が不自由なので、出られないから、と留萌の名物を当時の同級生にお土産に持たせて呉れました。彼の想いのこもったおみやげは、二次会の皿に盛られて、参加者に留萌を想い起こさせてくれました。

毎年同期会を5年ほど、続けているうちに、進学コース、実業コース、商業コースの教室の違いや、苫前、力昼、鬼鹿、小平、三泊などの羽幌沿線からの通学者、大和田、藤山、幌糠、峠下、からの留萌線。それと、この12月に廃線となる留萌から、増毛の間からの通学区域の違いを超えてさんとか、君とか、ぎこちない、呼び方が、あだ名や呼び捨てに代わっておりました。ボナとかポナ、とあだ名で呼んで呉れた友は、ひとりは、透析の後に早々と黄泉の世界に旅経っていました。ひとりは不明です。来年は高校卒業60周年を祝う同期会になります。全員元気でいることを願っています。

2年続く喜寿の祝い

2016-07-03 00:13:02 | 釣り
今日は、2年続く高校の同期会。留萌の浜で一緒に泳いだり、留萌の岩壁や防波堤で釣りをした仲間も多い。先に、触れたように、遅生まれの数人から、正規の型にはまって、来年祝って貰いたいと言われ、今年も喜寿のパート2として、同期会をやることにしたのです。写真下は、私の好きな釣り場の一つ、現在の留萌の瀬越浜です。昔は、この舗装の下は、砂浜に寝そべった、海水浴場でした。



この年になると、一寸先が闇のようです。来年には、どうなっているのか見当も付きません。夏休みの寸前で、お盆前、台風の来ない頃に、この同期会に集まって、1年の無事を確かめ合おうとなりました。おしゃべりは、尽きずに、翌日に持ち越し、翌年に持ち越すのです。

今年は、高校卒業後59年になります。来年は、卒業後60周年の集いになるでしょう。何か、集まりに冠が付かないと、家を出ることが難しいのもあるのでしょう。

60周年の後には、数え歳で傘寿の祝いがあります。全国、全道から毎年30名以上が集う同期会、それも、人数は、減らないで増えているんですから、不思議です。増毛~留萌間の留萌線が無くなる、話題は尽きません、皮肉なものです。せめて、皆で、偲ぼうと存じます。

戦後は終わっていない

2016-07-02 16:46:08 | 釣り
本日午後、大学の戦没同窓生の追悼式が戦後70年にして初めて開催された。同窓会の一員を務めているので参列させていただいた。医学部、医学専門部の同窓生で召集された中には、大学から各地区の病院に派遣されて世帯を持っていた方、なかには卒業を速めて軍医として前線におくられた方もいたという。判明した戦没同窓生は、医学部104名、医学専門部20名の124名。1学年80名であり、クラスの1年半に相当する同窓生が亡くなったことになる。



同窓会長の式辞の後、戦没者名簿を奉安、黙とうした。追悼の辞を医学部長が述べた後に、生き残ったものとして学友代表が挨拶した。二人の遺児から、父の遺志を継いで医学部に入ったが、悲惨な苦労をした母親の話をしているのを聞いているうちに、戦後は終わっていなかった、という感が強まってきた。遺族代表の話の後に、参列者が献花し、修礼の言葉で式を閉じた。釣りが出来る平和な日常を送っている私は、幸せ者だ、後輩たちが戦地に送られないよう、平和ボケをしないように気を引き締めねばと献花の列に並んでいた。

召集された時に寮に入っていた学生は、仲間と寮歌を歌いながら札幌駅に向かった。寮歌の内容が分かる様に歌うとこのご時世に感傷的な情緒的な歌を唄う集団行動と誤解され検束される危険も有り、ご詠歌のように、ゆっくり、うなりながら駅に向かったという。この唄い方が、今でも応援団で継承されている。

同窓会副会長のお礼の言葉の後に、参列者みんなで寮歌を斉唱した。激戦地の沖縄やオホーツクの島々で亡くなった方が多かった。同窓には、遺族を代表したKさんのように、父の遺志を継いで、入学した子女も多い。何組かの遺族を目前にして、1番から5番まで、歌っているうちに、戦没者の無念の気持ちが偲ばれて声がつまってきた。