引き続き、先日亡くなられた石牟礼道子さんを悼み、2011年に当ブログに掲載した講演会「親鸞・不知火からのことづて」のご紹介をさせていただきます。
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(引用ここから)
親鸞をめぐって開かれた講演会の記録である「親鸞・不知火からのことづて」のご紹介を続けます。
吉本隆明・石牟礼道子・桶谷秀昭氏が話しておられますが、ここでは石牟礼道子さんのお話を取り上げたいと思います。
驚くほどに心打つ言葉が現れます。
これが書き言葉ではなく、話し言葉で語られた言葉であるということに、今更ながら陶然としてしまいます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
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(引用ここから)
このあたり(熊本・不知火)では、「煩悩」を、当然あるものとして把握して言う言い方がございます。
たとえば
「わたしゃ、あの子に煩悩でならん。」
とか申します。
情愛の濃さを一方的に注いでいる状態、全身的に包んでいて、相手に負担をかけさせない慈愛のようなもの、それを注ぐ心の核になっていて、その人自身を生かしているものを「煩悩」というのです。
情愛をほとんど無意識なほどに深く一人の人間にかけて、相手が三つ四つの子どもに対して注ぐのも「煩悩じゃ」と。
人間だけでなく、木や花や犬や猫にも、「煩悩の深い人じゃ」と肯定的に言うのです。
これはどういう世界なのかと常々わたしは思います。
大衆ーー仏教では「衆生」と申しますがーーわたしは、生きてゆくのに時代の論調などを必要とせぬ人々のことをいっておりますがーー宗教というものは、ついには教理化することのできぬ「玄義」というものを、その奥に包んでいるのではないでしょうか。
そして「玄義」とは、そのような「衆生という存在」だとわたしは思います。
衆生というものは生々累劫、担っている悲愁を、みずから体系化することをいたしません。
教理教学を含んでいる経を、「荘厳な有り難い声明」とだけとらえているのは、そういう人々の直感というか把握力でございましょうし、
究極の虚無、たとえば「往生」(死)というものとだけ向き合っているのではないでしょうか。
しろうとで考えてみましても、だいたいお釈迦様という方は世の中を捨ててしまって、世の中を好かない、というところからまず仏教というものは始まったように思います。
極端に言えば、世の中にもういたくないから子孫を残さずに消えてしまおうと、そういう所を仏教は含んできたと思うのです。
(ご近所の働き者のおばさんと会話して)
「わたしゃもう、足の痛うして。行こうごとあるばってん、行かれんが。草によろしゅう言うてくれなあ。」
と伯母さんが言いなさる。
実際、人間だけじゃなくて、草によろしゅう言うたり、魚によろしゅう言うたり、草からや魚からやら、ことづてがあったり、皆さんもよくそういうこと、おっしゃってますよね。
お寺というのは「荘厳」を形にしてあるわけですが、よいお経をお坊さんがあげられるのを聞きまして、ああ、よかお経じゃった、と村の女の人たちがよく言われますが、浄められ、「荘厳」されますわけでしょう。
「草がことづてる」というのも、それにつながるような風の音でして。
自分のまわりの誰か、誰か自分でないものから、自分の中のいちばん深い寂しい気持ちを、ひそやかに「荘厳」してくれるような声が聴きたいと、人は悲しみの底で思っています。
そういう時、山の声、風の声などを、わたしどもは魂の奥で聞いているのではないでしょうか。
なぜならわたしどもは、今人間といいましても、草であったかもしれず魚であったかもしれないのですから。
(引用ここまで)
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>人間だけでなく、木や花や犬や猫にも、「煩悩の深い人じゃ」、と肯定的に言うのです。
>これはどういう世界なのかと、常々わたしは思います。
>大衆ーー仏教では「衆生」と申しますが、わたしは、生きてゆくのに時代の論調などを必要とせぬ人々のことを言っておりますがーー宗教というものは、ついには教理化することのできぬ「玄義」というものを、その奥に包んでいるのではないでしょうか。
>そして「玄義」とは、そのような「衆生という存在」だとわたしは思います。
なんと深い言葉でしょうか。
この講演会のもう一人の論者吉本隆明氏が追及しておられるドストエフスキーの苦悩の境地を、石牟礼道子さんは石牟礼さんの道筋で、一人で究明していらっしゃるのであると思います。
言葉というものの可能性を、とても感じる一文ではないかと思います。
そして、わたしたちは、今は人間の姿をしているけれど、ある時代には草として生き、ある時代には魚として生き、天地をめぐっているに違いありません。
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(引用ここまで)
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なお、写真は不知火とは関係ありません。
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