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七夕神事としての相撲・・「相撲の歴史」新田一郎氏著(3)

2018-02-03 | 日本の不思議(現代)


引き続き、新田一郎氏の「相撲の歴史」のご紹介をさせていただきます。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

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           (引用ここから)


「相撲」が社会の中で、より特定された共通の意味を獲得してゆく過程で、重要な役割を果たしたのが、「農耕儀礼」だった。

「相撲」に限らず、「綱引き」や「競馬」など、競技的性格を持った多くの技芸の神事的な意味付けについて、民俗学者はしばしば「年占」という道具立てを用いて説明している。

「年占」は、「としうら」と読む。

農事の節目にあたる時期に、先祖を祀ると共に、豊穣への祈願をこめて、その首尾・不首尾を「占う」行事であり、競技的性格を持った技芸の結果によって、豊凶を「占う」ことも重要な類型の一つであった。


「年占」の神事には、大別して2つの類型がある。

第1は、2つの集団の間で戦い、勝った側に「豊穣の予祝」が与えられるというものである。

第2は、豊凶を司る精霊との間での競技を疑製することによって、「豊穣の予祝」を求めるというものであった。


後者の場合、実際にはあらかじめ定められた結果を演じる場合が少なくない。

「豊穣」を司る精霊は、多くの場合、「田の神」・「水の精霊」として考えられており、

精霊を圧伏し、または一勝一負で勝敗を分け、または精霊に勝たせて花を持たせることによって、精霊の力を自分の側に呼び込み、「豊かな収穫への予祝」を得るというのが、彼らの「年占(としうら)」の神事の基本的な構造である。


もちろんそこには、様々なバリエーションがある。

田の中で「相撲」をとり、勝敗を争うのではなく、体に泥が多くつくほど「吉」であるとする「どろんこ相撲」や、

乳児を抱いて、乳児が早く泣いた側を「吉」とする「泣き相撲」などのように、「相撲」の名を冠してはいても、格闘競技としての「相撲」は関心対象でない場合もある。

これら現行の神事の歴史的な起源は明らかではなく、どれほど原形を残しているのか疑問はある。


しかし、こうした「占い」の場面に、子供が登場するケースがかなり多いことは、注意すべきである。

一般に、神意の「占い」に際して子供が重要な役割を果たすことは珍しいことではない。

幼い童は、人として完成された存在ではなく、「人ならぬ世界」から「人の世界」へと転位する途上にあり、それゆえ「人ならぬ世界」の精霊たちと近い距離にあると考えられ、神意を伺うに相応しい媒介と見なされていた。


「相撲節(すまいのせち)」でも、初期には、「相撲人」による「相撲」の前に、「占手(うらて)」と称する4尺以下の小童の「相撲」が行われていた。

小童の「相撲」と「占い」との密接な関係、さらには国家的規模での「相撲行事」である「相撲節(すまいのせち)」と「年占(としうら)」、

とりわけ「相撲節」の起源に密接なかかわりがあると思われる。


「相撲」の神事的意味付けの基本的なモチーフを、「神意の占問い」に求めることは、形態的・技術的に様々なバリエーションがある挌闘を、「相撲」と同定するための、一つの有力な指標であろう。


人知・人力の容易には及ばぬ自然との調和の中で、農耕を営み、収穫をあげようとする農耕民の、自然に対する視線と姿勢が、こうしたモチーフに表現されている。

自然を司る不可知の力の所在を、「田の神」・「水の精霊」として表象し、格闘という表現形式を通じて、神・精霊とコミュニケートし、神意を占い、「豊穣の予祝」を求める。

具体的な形態は様々であれ、そうした意味付けを負った格闘競技が、日本において「相撲」の原型の一つとなったのであろう。


「河童」が、水に対して不浄の行為を働いた者や、水辺を通りかかった人に、「相撲」の勝負を挑み、負けた相手を水中に引き込むという類の民話伝承は、全国各地にある。

「河童」には、地方により多様な呼称があるが、要は、「山童(やまわらわ)」と対になって観念される「水の精霊」であり、「水の神」の零落したイメージと解釈されている。

「河童」と人との「相撲」の民話伝承は、「水の神」・「田の神」の神事の、民話的バリエーションであり、現代に残る「相撲神事」にも、そうした原型を偲ばせるものがある。


「日本書紀」に記された「スクネ」と「クエハヤ」の「力比べ」を、「相撲節(すまいのせち)」の起源神話として位置付ける場合、重要な意味を持たされているのが、「垂仁天皇7年7月7日」という7並びの日付である。

この日付の記録から、「相撲節」は当初は7月7日を定例の節日としており、この日付が、各地の「相撲」を統合するものとして機能したと考えてよい。

「7月7日」といえば、言うまでもなく「七夕」である。

「七夕」といえば、現代では、牽牛と織女の両星が逢う中国起源の伝説を中核とした「星まつり」としての印象が強いが、

それとは別に、「7月7日」は、日本では古くから精霊を迎える「盆」の一部として、「七日盆」と呼ばれる祭の習俗としてあり、

更にその前提には、本来独立した「水神の祭り」があったと言われている。

現在、普通に言う「七夕」は、これらの諸要素が融合して出来上がったものなのである。


「盆」と「正月」はしばしば一組をなして意識され、一年の後半部の始まりに位置する「盆」には、正月と対になる行事が多く見られる。

民俗学の分野では、一年を周期とする通常の暦と並行して、一年の「前半部」を終えた6月末で折り返す、もう一つの暦があり、

7月から始まる1年の「後半部」には、「前半部」と対になる年中行事が散りばめられていたと考えられている。

たとえば、正月を迎える直前の大晦日に、一年の厄を祓って新年を迎える「大祓え」が行われ、6月末にも、これに対応する形で、年の前半の厄を払う「6月祓」、または「夏越(なごし)の祓」が行われてい
たことはその顕著な例である。


つまり田畑の整備と種まきに始まる年の「前半」の農事を終え、収穫へと向かう「後半」の農事を開始するにあたって、

年の「前半」の厄を祓って、改めて土地の精霊を祀り、豊かな収穫を祈ることが、6・7月の年中行事の多くに通底しているのではないか。

その根底には、豊穣を祈る精霊の祭りがあり、それが現在の祖先祭祀の「盆」の前提となっているのであろう。


豊穣を祈る、土地の精霊の祭りと、水の祭祀との結びつき、ことに、「年占(としうら)」の形態をとったものについては、すでに触れた。

しかし、この解釈には、畑作農耕への視点が欠けているという批判もあり、畑作農耕儀礼に類したものも、「相撲」の原型にはあったかもしれない。

「隼人族」を始めとする非征服民族の習俗に注意を払うことも、「相撲」の源流を探る上では重要だろう。

「大三島・一人相撲中継」FNNsline


「水の神」(土地の精霊)をめぐる農耕儀礼と「相撲」の間の密接な関係を示す例として、

伊予大三島(おおみしま)(現・愛媛県今治市の大山ずみ神社)の神事、旧暦5月5日の「お田植え祭り」と9月9日の「抜き穂祭」に際して行われていた「一人相撲」には、その古い形態が残されている。

現在は技芸の継承者が絶えてしまって、行われていないというが、県の無形文化財に指定されていたこの神事は、精霊を相手に「相撲」をとる。

したがって、実際には一人で「相撲」の所作を演じるという、有名な神事として全国的に知られている。

精霊と人間との「相撲」は、三番勝負で、一勝一負から、精霊が勝つ。

精霊に勝たせて、敬意を表することによって、豊作を祈願するのが、この神事の中心的なモチーフであった。

また、奈良県桜井市にある「スサノオ神社」と、同市の「御綱神社」で合同で行われる2月11日(もとは旧暦・正月10日)の「お綱祭り」は、両社の祭神である「スサノオノミコト」と「イナダヒメノミコト」の、夫婦の契りをモチーフにした祭礼である。

男綱と女綱の交合の儀式をもって豊作を祈る祭礼は、全国に広く分布している。

また、ここではそれに付随して、「泥の相撲」が行われている。

田の中で2人の男が「相撲」をとるのだが、勝敗ではなく、泥が体にたくさん付くほど豊穣に恵まれるという「年占(としうら)」の一形態であり、年頭の「予祝の神事」である。

おそらく「スサノオノミコト」と「イナダヒメノミコト」という「記・紀神話」の神の名は後から付けられたものであり、元は土地の神の交合によって豊かな実りを象徴する、「予祝の祭り」が原型であったと思われる。


「神事の起源が垂仁天皇の頃にまでさかのぼる」と主張されている「相撲行事」に、「能登羽咋(はくい)神社」の「唐戸山相撲会」がある。

この神社は、垂仁天皇の皇子を祭神としている。

生前「相撲」を好んだ皇子の霊を慰めるために、北陸七州の「相撲人」を集め、命日である8月25日に、神社に近い「唐戸山」で、「相撲会」が催されていたという。

「相撲節」の起源説とされる「スクネ」と「クエハヤ」の力比べの年代が、垂仁天皇の代に設定されていることを考えると、それが伝承の背景なのかもしれない。


寺社への「相撲奉納」は、かなり古くから各地で行われていた可能性はあるが、朝廷を中心とする国家儀礼的な「相撲奉納」の早い例としては、

聖武天皇の神亀2年(725年)、諸国が干ばつにより凶作に見舞われた際、天皇が伊勢神宮をはじめ諸国21の神社に勅使を派遣し、神明の加護を祈らせた。

その甲斐あってか、翌・4年は豊作に恵まれ、天皇は各地の神社に奉礼のための幣帛を奉り、また神前で「相撲」を奉納させたという。

          (引用ここまで)

            *****

大三島(おおみしま)の「一人相撲」の映像は、圧巻だと思いました。

貴重なビデオなので、リンクを張らせていただきました。

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