梅原氏は「日本書紀」「古事記」は誰によって書かれたのか、何を意図して書かれたのか、何を現わし、なにを隠しているのか、という問題を考えています。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
*****
(引用ここから)
●タケミカヅチについて
タケミカヅチはイザナギがカグツチの首を切ったとき、刀の根元についた血から生まれた神である。
この神はもともと血なまぐさい神であり、まさに武力の神なのである。
タケミカヅチはどこかで藤原鎌足の一面を宿しているように思われる。
藤原氏の祖先神が、祭祀のみを司るアメノコヤネだけでは困る。
人を殺した刀の血から生まれた血なまぐさいタケミカヅチとフツヌシも藤原氏の祖先神でなければならないのである。
●アメノコヤネについて
アメノコヤメはまちがいなく藤原氏=中臣氏の祖先神である。
アメノコヤネが最も活躍したのは、スサノオの乱暴に腹を立てたアマテラスが天岩戸に隠れた時である。
アマテラスを天岩戸から引き出すことを実行したのは、アメノコヤネをリーダーとする神事を司る神々であった。
しかし藤原=中臣氏は、どんなに贔屓目に見てもせいぜい序明天皇の世に朝廷に仕えた御食子(みけこ)の時代に歴史に姿を現したに過ぎない。
しかしその後中大兄皇子と共に蘇我入鹿を殺し、天智天皇の御世をもたらした藤原鎌足が現れ、一挙に成り上がった氏族なのである。
そのような氏族が「アマテラスの岩戸隠れ」及び「天孫降臨」の時に活躍するはずが無い。
これは明らかに神話偽造、歴史偽造と言わざるを得ない。
(引用ここまで)
*****
次に著者は「古事記」は誰がつくったのかという問題を考えています。
*****
(引用ここから)
「古事記」編集に携わったのは、稗田阿礼と太安万侶のわずか2人である。
太安万侶は父が壬申の乱で功績を挙げて世に出た帰化系の出身であり、決して由緒ある身分の役人ではない。
そしてもしも稗田阿礼がアメノウズメの子孫で、サル女氏の出身であるとすれば、このわが国最初の歴史書編集の大事業に、皇子および王はおろか一人も政府高官が参加していないことになる。
そうとすれば、天武天皇のお命じになった歴史書編集の事業と、「古事記」編集はまったく異なった精神によって始められたものであることになる。
太安万侶が「日本書紀」撰集に参加したことは「弘仁私記」などにも述べられ、「古事記」と「日本書紀」との密接な関係を考えるとき、太安万侶が「日本書紀」撰集にも関わったことは十分考えられる。
おそらく「日本書紀」は「大宝律令」と同じように、名目上は舎人親王を責任者とするが、実質的には藤原不比等を編集責任者として、太安万侶を中心とした多くは帰化系の歴史に詳しい優れた漢人を集めて作られたものに違いない。
そこには「記紀」の神代史の時代において実際に重要な役割を果たしていた大伴氏や物部氏や忌部氏などに属する高級官僚は誰一人として入っていなかった。
物部氏である石上麻呂はおそらく持統天皇のお心を思ったのであろう、和銅3年の元明天皇の平城遷都の後も持統天皇の愛し給うた藤原京にとどまっており、
そして天武天皇の御代に歴史書編集の仕事に参加した忌部氏に属する有力な政治家、忌部子首(おびと)は出雲守に任命されて都を留守にし、彼の得意な歴史書編集の仕事が宮中でひそかに行われていたことは夢にも知り得なかった。
奈良の都の政治は、藤原不比等の独断場であったのである。
そして編集に携わる人間の違いと共に、さらに重視すべきことは、天武天皇が編纂させようとした歴史書と、「古事記」という歴史書の内奥の違いである。
「古事記」および「日本書紀」において編集者が最も力を入れたのは「神代」であったと思われる。
なにせ「神代」においては諸氏族の祖先の功績がいろいろ語られる。
この神代において功績のあった神の子孫は当然、元明天皇当時の律令社会においても高官に就くことが約束され、
そこでまったく功績がないか、あるいは逆に天津神の日本支配に対して敵となった神々の子孫は、律令社会においてとても出世はおぼつかない。
いわば超古代の神代期において、末長い子孫の栄枯盛衰が左右されたのである。
そしてそこでは、藤原氏が独善的に「アマテラス・ニニギ王朝」の功労者とされていたわけである。
これは「諸氏の持っていた帝紀および旧辞の誤りを正し、公平なものを造れ」という天武天皇のお命じになった「詔」とは正反対の精神によって作られた歴史書と言えよう。
このような政治体制においては「古事記」のような、「藤原=中臣氏の祖先神などが、天皇家の祖先神であるアマテラスやニニギの日本の支配に貢献したほぼ唯一の神々である」、とされる歴史書が作成されても何ら不思議は無いのである。
「古事記」は「日本書紀」とは違って、神話の話に力点がある。
しかもその神話に出てくる神々は当時活躍していた氏族の祖先神であり、その祖先神の評価によって氏族の未来は左右されるのである。
神代において天津神の敵となった祖先神や何の功績もない祖先神を持つ氏族は、律令社会において繁栄の見込みが無いのである。
「古事記」は神話の名において諸氏の「勤務評定」をしたようなものである。
そしてその「勤務評定」において100点を取ったのは、藤原氏のみである。
このような「勤務評定」を行い、かつ藤原氏に100点をつけるのは、権力者、藤原不比等以外にはありえず、稗田阿礼と藤原不比等像は全く重なり、稗田阿礼すなわち藤原不比等と断定して差し支えないと、私は思う。
(引用ここまで)
*****
万葉集の歌を読むにつけても、古代の人の心のひだの深さ、感受性の陰影とそれを表現する言葉の用い方は今の人とほとんど変わりないように思われます。
当時の人々がなにを考えなにを喜びとしていたのかは、1200年の時の隔たりを感じさせません。
日本の歴史が記された始めの時に、すでに日本人の心理構造は隠しようもなく露わになっていたのだと思われます。
そうであるとすると、「古事記」「日本書紀」の神々の姿に、当時の人間の姿を重ね合わせることも奇妙なことではないのかもしれません。
このような歴史の解釈はいろいろな人が行っていますので、他の人の解釈も合わせて検討してみたいと思っています。
関連記事
「ブログ内検索」で
日本書紀 15件
古事記 15件
アマテラス 10件
などあります。(重複しています)
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
*****
(引用ここから)
●タケミカヅチについて
タケミカヅチはイザナギがカグツチの首を切ったとき、刀の根元についた血から生まれた神である。
この神はもともと血なまぐさい神であり、まさに武力の神なのである。
タケミカヅチはどこかで藤原鎌足の一面を宿しているように思われる。
藤原氏の祖先神が、祭祀のみを司るアメノコヤネだけでは困る。
人を殺した刀の血から生まれた血なまぐさいタケミカヅチとフツヌシも藤原氏の祖先神でなければならないのである。
●アメノコヤネについて
アメノコヤメはまちがいなく藤原氏=中臣氏の祖先神である。
アメノコヤネが最も活躍したのは、スサノオの乱暴に腹を立てたアマテラスが天岩戸に隠れた時である。
アマテラスを天岩戸から引き出すことを実行したのは、アメノコヤネをリーダーとする神事を司る神々であった。
しかし藤原=中臣氏は、どんなに贔屓目に見てもせいぜい序明天皇の世に朝廷に仕えた御食子(みけこ)の時代に歴史に姿を現したに過ぎない。
しかしその後中大兄皇子と共に蘇我入鹿を殺し、天智天皇の御世をもたらした藤原鎌足が現れ、一挙に成り上がった氏族なのである。
そのような氏族が「アマテラスの岩戸隠れ」及び「天孫降臨」の時に活躍するはずが無い。
これは明らかに神話偽造、歴史偽造と言わざるを得ない。
(引用ここまで)
*****
次に著者は「古事記」は誰がつくったのかという問題を考えています。
*****
(引用ここから)
「古事記」編集に携わったのは、稗田阿礼と太安万侶のわずか2人である。
太安万侶は父が壬申の乱で功績を挙げて世に出た帰化系の出身であり、決して由緒ある身分の役人ではない。
そしてもしも稗田阿礼がアメノウズメの子孫で、サル女氏の出身であるとすれば、このわが国最初の歴史書編集の大事業に、皇子および王はおろか一人も政府高官が参加していないことになる。
そうとすれば、天武天皇のお命じになった歴史書編集の事業と、「古事記」編集はまったく異なった精神によって始められたものであることになる。
太安万侶が「日本書紀」撰集に参加したことは「弘仁私記」などにも述べられ、「古事記」と「日本書紀」との密接な関係を考えるとき、太安万侶が「日本書紀」撰集にも関わったことは十分考えられる。
おそらく「日本書紀」は「大宝律令」と同じように、名目上は舎人親王を責任者とするが、実質的には藤原不比等を編集責任者として、太安万侶を中心とした多くは帰化系の歴史に詳しい優れた漢人を集めて作られたものに違いない。
そこには「記紀」の神代史の時代において実際に重要な役割を果たしていた大伴氏や物部氏や忌部氏などに属する高級官僚は誰一人として入っていなかった。
物部氏である石上麻呂はおそらく持統天皇のお心を思ったのであろう、和銅3年の元明天皇の平城遷都の後も持統天皇の愛し給うた藤原京にとどまっており、
そして天武天皇の御代に歴史書編集の仕事に参加した忌部氏に属する有力な政治家、忌部子首(おびと)は出雲守に任命されて都を留守にし、彼の得意な歴史書編集の仕事が宮中でひそかに行われていたことは夢にも知り得なかった。
奈良の都の政治は、藤原不比等の独断場であったのである。
そして編集に携わる人間の違いと共に、さらに重視すべきことは、天武天皇が編纂させようとした歴史書と、「古事記」という歴史書の内奥の違いである。
「古事記」および「日本書紀」において編集者が最も力を入れたのは「神代」であったと思われる。
なにせ「神代」においては諸氏族の祖先の功績がいろいろ語られる。
この神代において功績のあった神の子孫は当然、元明天皇当時の律令社会においても高官に就くことが約束され、
そこでまったく功績がないか、あるいは逆に天津神の日本支配に対して敵となった神々の子孫は、律令社会においてとても出世はおぼつかない。
いわば超古代の神代期において、末長い子孫の栄枯盛衰が左右されたのである。
そしてそこでは、藤原氏が独善的に「アマテラス・ニニギ王朝」の功労者とされていたわけである。
これは「諸氏の持っていた帝紀および旧辞の誤りを正し、公平なものを造れ」という天武天皇のお命じになった「詔」とは正反対の精神によって作られた歴史書と言えよう。
このような政治体制においては「古事記」のような、「藤原=中臣氏の祖先神などが、天皇家の祖先神であるアマテラスやニニギの日本の支配に貢献したほぼ唯一の神々である」、とされる歴史書が作成されても何ら不思議は無いのである。
「古事記」は「日本書紀」とは違って、神話の話に力点がある。
しかもその神話に出てくる神々は当時活躍していた氏族の祖先神であり、その祖先神の評価によって氏族の未来は左右されるのである。
神代において天津神の敵となった祖先神や何の功績もない祖先神を持つ氏族は、律令社会において繁栄の見込みが無いのである。
「古事記」は神話の名において諸氏の「勤務評定」をしたようなものである。
そしてその「勤務評定」において100点を取ったのは、藤原氏のみである。
このような「勤務評定」を行い、かつ藤原氏に100点をつけるのは、権力者、藤原不比等以外にはありえず、稗田阿礼と藤原不比等像は全く重なり、稗田阿礼すなわち藤原不比等と断定して差し支えないと、私は思う。
(引用ここまで)
*****
万葉集の歌を読むにつけても、古代の人の心のひだの深さ、感受性の陰影とそれを表現する言葉の用い方は今の人とほとんど変わりないように思われます。
当時の人々がなにを考えなにを喜びとしていたのかは、1200年の時の隔たりを感じさせません。
日本の歴史が記された始めの時に、すでに日本人の心理構造は隠しようもなく露わになっていたのだと思われます。
そうであるとすると、「古事記」「日本書紀」の神々の姿に、当時の人間の姿を重ね合わせることも奇妙なことではないのかもしれません。
このような歴史の解釈はいろいろな人が行っていますので、他の人の解釈も合わせて検討してみたいと思っています。
関連記事
「ブログ内検索」で
日本書紀 15件
古事記 15件
アマテラス 10件
などあります。(重複しています)