梅原氏の「葬られた王朝・古代出雲の謎を解く」を読んでみました。
筆者は「古事記」「日本書紀」は神話の書であると同時に、政治的な文書でもあると考えています。
当時の世界の政治的な様相を分析した目で、今度は出雲大社の建物の分析に入ります。
*****
(引用ここから)
出雲大社はいつ、誰によって、何のために、いかなる思想によって造られたのか。
平成12年(2000)に、出雲大社境内において巨大な柱根が発見された。
その柱は直系1・35メートルもあるスギの巨木を束ねて一本とした柱で、三本束ねると直系3メートルに及んだ。
出雲大社の本殿には、このような巨大な柱が9本建てられていた。
この出雲大社がいつ造られたのかは、はっきりしない。
「古事記」・「日本書紀」では神代の昔に日本の支配権をニニギに譲って黄泉の国の王となったオオクニヌシの宮殿として立てられたのが出雲大社であるとされている。
しかしこのような巨大な建築物が、弥生時代と思われる神代の時代に建てられたとは考えにくい。
神社が建てられたのは仏教の寺院が造られた後と考えられるが、日本最初の仏教寺院は蘇我氏が建てた飛鳥寺であり、それが完成したのは推古天皇の御代である。
とすれば、神社が建てられたのは推古天皇以後であるということになる。
(引用ここまで)
*****
出雲大社はいかなる建物かについて、山崎謙氏の著書「まぼろしの出雲王国」には別の見解が書かれていました。
*****
(引用ここから)
出雲大社はどうしてかくも高いのか?
そもそも神社建築はその発生から言って大きくする必要がない。
なぜなら神社の原初的形態は自然崇拝をベースにしたものだからである。
「古事記」・「日本書紀」で国譲りの代償として、高天原の宮殿のような建物を大国主神が要求したという点からも、出雲大社は通常の神社建築とは別のルーツを持つことを示唆している。
出雲大社は海に近い。
朝鮮半島や北九州から船で海流に乗って日本列島に沿って進むと、船は島根半島のほぼ西端の日ノ岬にぶつかり、出雲に到着する。
海の入り口の建つ高い建物・・それが出雲大社の元の姿ではないだろうか?
そう考えると、浮かんでくるのが灯台のような何らかの港湾施設である。
縄文時代のイメージをくつがえした青森県の三内丸山遺跡でも海に近い場所で巨木柱が出土し、柱の太さからかなり高い建物が立っていたことが想像されている。
出雲の場合、弥生時代にすでに海の入り口にあたる現在地に、灯台のような何らかの高い港湾施設が建っていたのではないだろうか?
それを裏付けるのは鳥取県の稲吉角田遺跡から出土した線刻絵画土器である。
土器には船になって櫓をこぐ人達の姿や、やぐらのような高層建築と長い階段が描かれている。
おそらく当時絵に描かれたような建物が存在したのだろう。
“高い”こと、それは出雲大社本殿に脈々と受け継がれたDNAとでもいうべき伝統といえるのではないだろうか。
(引用ここまで)
*****
出雲の地に縄文の響きを感じるとすれば、出雲大社という建築物については山崎氏のように考える方がいいのではないか、という気もします。
しかし梅原氏は出雲大社という建築物は、縄文時代からはるかへだたったヤマト朝廷の創建者たちの思慮遠謀によって建てられたという主張に傾いています。
*****
(引用ここから)
「出雲国造家系譜」では「続日本記」の引用に続いて、
「アマテラスとスサノオの誓約(うけい)で生まれたアメノホヒの子孫と称する出雲臣が、それまで宇意平野の大庭に置いていた根拠地を、出雲平野のキズキへ移した」という記載がある。
「大庭の根拠地」とは、熊野大社あるいは神魂神社のことで、「キズキ」とは出雲大社のことである。
出雲大社の建造は、表面上は元正、元明天皇の成したもうた大事業であるが、その計画者およびその事業の実行者は藤原不比等であろう。
不比等は謎の人物である。
彼は自分の行った大事業をほとんどすべて用心深く隠した。
「大宝律令」および「養老律令」の制定、平城京への遷都、「日本書紀」の編纂も、すべて不比等を中心として行われた事業であった。
しかし目立つ立場の責任者はみな王子達にして、自分はほとんど表に立つようなことはしていない。
後世に残る巨大な神社建設である出雲大社の建造も、そして「古事記」の編纂も彼の仕事と見て
間違いないと私は思うが、彼はそれらすべてを隠したのである。
権力者が表面に立てば、いつ追い落とされるか分からない。
彼ははなはだ賢く、恐らく権威ある天皇の陰に隠れ、権力を振るい、日本が必要としている政治を大胆に行うとともに、自らの子孫、藤原氏の永久の繁栄を図ろうとしたのであろう。
それでは出雲大社は何のために、いかなる思想によって作られたのか?
出雲大社を作らせた神道は、いかなる神道であろうか?
それは「禊ぎ・祓い」の神道であったと言ってよかろう。
「古事記」もこのような「禊ぎ・祓い」の神道思想によって書かれているものと言える。
「古事記」においては天皇家の祖先神とされる最も尊い神アマテラス・ツクヨミ・スサノオは、共にイザナギが行った「禊ぎ」によって生まれている。
「禊ぎ」によって生まれた神など、世界のどこを探しても見つからないであろう。
アマテラスをはじめとする三人を「禊ぎ」によって誕生せしめていることは、「古事記」という史書に流れる思想を考える上で極めて重要であろう。
また「古事記」においては「祓い」の思想も重要である。
スサノオは自分の犯した様々な悪行の罪によって出雲へ退場させられるが、それを「古事記」は次のように記す。
「ここに八百万の神、共に議りてスサノオの命に千位の置戸を負せ、また髭と手足の爪とを切り、祓へしめて、神やらひやらひき」
まさにスサノオは「祓われた」のである。
「祓い」とは、流罪と同義であろう。
「千の置戸」というのは、罪をあがなう品物を載せる台であり、スサノオは自らの持つ財産をその台にすべて放出させられて、無一文になって追放された。
また髭や爪を切るという行為は、身体の一部を身削ぐ(みそぐ)、、まさに「禊ぎ」である。
このようにしてスサノオは高天原から出雲へ追放になるが、高天原で悪神であったスサノオが出雲では人々を苦しめるヤマタノオロチを退治するなど、善神に一変する。
いったいこの「禊ぎ・祓いの神道」はいつ、誰によって作られたのであろうか。
「禊ぎ・祓いの神道」を最もよく語るのは、「中臣祓」の祝詞と称される「延喜式」にある「六月のつごもりの大祓」の祝詞であろう。
そこで中臣がおごそかにこの祝詞を読むのである。
中臣は、天智天皇と共に蘇我政権を倒した鎌足の大功績によって初めて貴族の仲間入りをし、天智天皇の晩年に政治にも参加できるようにと新たに藤原の姓を賜った新興氏族である。
とすれば、この「中臣祝詞」と言われる「大祓の祝詞」は天智天皇以後、おそらくは「大宝律令」がなされた時に作られたと考えるのがもっとも自然である。
つまり藤原不比等は自らが作った「大宝律令」の精神を表わすイデオロギーとして、「中臣祝詞」を作らしめたのではなかろうか?
そしてそれによって政治は藤原、祭儀は中臣、という支配体制が固まったのではなかろうか?
藤原氏の権威が確立されてからは、そのような儀式は形式的なものになり、その後は廃止されてしまう。
このような「禊ぎ・祓い」の神道が、出雲大社が建造された時代の神道であるとすれば、出雲大社はそのような神道思想によって建造されたと考えねばならない。
スサノオは流罪にされ、オオクニヌシも前王朝の大王として死罪になったと考えられる。
ところで出雲大社は何のために建てられたのか?
「禊ぎ・祓い」の神道は、祓われた魂を鎮魂することを最も重要な神事とする。
前代の王朝、「出雲王朝」のスサノオ・オオクヌヌシは藤原不比等がもっとも手厚く祀った大怨霊神なのであり、
藤原不比等こそがヤマト王朝に敗れた出雲王朝の神々を出雲の地に封じ込めた張本人だと、私は思う。
出雲大社の建造は後世に誇るべき大事業であったと言える。
現在の約2倍の高さにあったこの長大極まる本殿は、何度か倒壊したが、その度ごとに再建され、鎌倉時代はまだそのままであったことが確認された。
江戸時代には本殿は約半分の高さになったが、それでも天皇の祖先神アマテラスの居ます伊勢神宮よりはるかに壮大な神社である。
中国では新しい王朝が誕生する度に前代王朝の歴史書が編まれた。
それには前代王朝の鎮魂という意味も含まれていたであろう。
日本最初の歴史書「古事記」と「日本書紀」も、中国の歴史書にならって日本の歴史を語り、前代の王朝の業績を讃美し、その上で現王朝が前代の王朝に代わらねばならぬ必然性を述べたものと思われる。
「古事記」においてオオクニヌシの国づくりの話が特に詳しく語られているのは、悲劇的な最後を遂げたオオクニヌシの怨霊鎮魂をひそかに行おうとしたからであろう。
出雲大社の建造は、この「古事記」に語られている前代の王朝の神々の鎮魂を具体的に示したものであると言えよう。
(引用ここまで・終わり)
*****
大変勉強になりました。
それでは神道の源流はどこにあるのか?、と問いたくなりますが、日本の歴史の大きな作りは見えてきたような気がしました。
著者の梅原猛氏はたいへん意欲旺盛にさまざまな文明の在り方を研究していらっしゃいます。
この本はかつて存在した出雲の大文化圏を、大和朝廷が葬り去り、無かったことにして神社にまつりあげて、新たに自分達の大和朝廷の視点から日本の歴史を改ざんして正史としたのである、ということを書いてありますが、他にも弥生文化に対する縄文文化、ヤマト文化に対するアイヌ文化、黄河文明に対する長江文明、とさまざまな視点から日本の原点をみつめておられます。
前の記事にもとりあげたように、原発による文明に対しては、脱原発の文明を支持しておられます。
日本の文化の源泉はどこにあるのか、という問いは、日本人のアイデンティティを探る試みであり、日本人である自分自身のアイデンティティを探る試みでもあります。
和魂洋才といいますが、日本人は器用で、多少の無理をしても相手の要求を受け入れて、事無きを得る性質がありますから、よほどの覚悟がないと、自分とはなにかが分からなくなってしまいやすいのではないかと思います。
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古事記 15件
出雲 15件
出雲大社 5件
神道 9件
などあります。(重複しています)
筆者は「古事記」「日本書紀」は神話の書であると同時に、政治的な文書でもあると考えています。
当時の世界の政治的な様相を分析した目で、今度は出雲大社の建物の分析に入ります。
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(引用ここから)
出雲大社はいつ、誰によって、何のために、いかなる思想によって造られたのか。
平成12年(2000)に、出雲大社境内において巨大な柱根が発見された。
その柱は直系1・35メートルもあるスギの巨木を束ねて一本とした柱で、三本束ねると直系3メートルに及んだ。
出雲大社の本殿には、このような巨大な柱が9本建てられていた。
この出雲大社がいつ造られたのかは、はっきりしない。
「古事記」・「日本書紀」では神代の昔に日本の支配権をニニギに譲って黄泉の国の王となったオオクニヌシの宮殿として立てられたのが出雲大社であるとされている。
しかしこのような巨大な建築物が、弥生時代と思われる神代の時代に建てられたとは考えにくい。
神社が建てられたのは仏教の寺院が造られた後と考えられるが、日本最初の仏教寺院は蘇我氏が建てた飛鳥寺であり、それが完成したのは推古天皇の御代である。
とすれば、神社が建てられたのは推古天皇以後であるということになる。
(引用ここまで)
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出雲大社はいかなる建物かについて、山崎謙氏の著書「まぼろしの出雲王国」には別の見解が書かれていました。
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(引用ここから)
出雲大社はどうしてかくも高いのか?
そもそも神社建築はその発生から言って大きくする必要がない。
なぜなら神社の原初的形態は自然崇拝をベースにしたものだからである。
「古事記」・「日本書紀」で国譲りの代償として、高天原の宮殿のような建物を大国主神が要求したという点からも、出雲大社は通常の神社建築とは別のルーツを持つことを示唆している。
出雲大社は海に近い。
朝鮮半島や北九州から船で海流に乗って日本列島に沿って進むと、船は島根半島のほぼ西端の日ノ岬にぶつかり、出雲に到着する。
海の入り口の建つ高い建物・・それが出雲大社の元の姿ではないだろうか?
そう考えると、浮かんでくるのが灯台のような何らかの港湾施設である。
縄文時代のイメージをくつがえした青森県の三内丸山遺跡でも海に近い場所で巨木柱が出土し、柱の太さからかなり高い建物が立っていたことが想像されている。
出雲の場合、弥生時代にすでに海の入り口にあたる現在地に、灯台のような何らかの高い港湾施設が建っていたのではないだろうか?
それを裏付けるのは鳥取県の稲吉角田遺跡から出土した線刻絵画土器である。
土器には船になって櫓をこぐ人達の姿や、やぐらのような高層建築と長い階段が描かれている。
おそらく当時絵に描かれたような建物が存在したのだろう。
“高い”こと、それは出雲大社本殿に脈々と受け継がれたDNAとでもいうべき伝統といえるのではないだろうか。
(引用ここまで)
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出雲の地に縄文の響きを感じるとすれば、出雲大社という建築物については山崎氏のように考える方がいいのではないか、という気もします。
しかし梅原氏は出雲大社という建築物は、縄文時代からはるかへだたったヤマト朝廷の創建者たちの思慮遠謀によって建てられたという主張に傾いています。
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(引用ここから)
「出雲国造家系譜」では「続日本記」の引用に続いて、
「アマテラスとスサノオの誓約(うけい)で生まれたアメノホヒの子孫と称する出雲臣が、それまで宇意平野の大庭に置いていた根拠地を、出雲平野のキズキへ移した」という記載がある。
「大庭の根拠地」とは、熊野大社あるいは神魂神社のことで、「キズキ」とは出雲大社のことである。
出雲大社の建造は、表面上は元正、元明天皇の成したもうた大事業であるが、その計画者およびその事業の実行者は藤原不比等であろう。
不比等は謎の人物である。
彼は自分の行った大事業をほとんどすべて用心深く隠した。
「大宝律令」および「養老律令」の制定、平城京への遷都、「日本書紀」の編纂も、すべて不比等を中心として行われた事業であった。
しかし目立つ立場の責任者はみな王子達にして、自分はほとんど表に立つようなことはしていない。
後世に残る巨大な神社建設である出雲大社の建造も、そして「古事記」の編纂も彼の仕事と見て
間違いないと私は思うが、彼はそれらすべてを隠したのである。
権力者が表面に立てば、いつ追い落とされるか分からない。
彼ははなはだ賢く、恐らく権威ある天皇の陰に隠れ、権力を振るい、日本が必要としている政治を大胆に行うとともに、自らの子孫、藤原氏の永久の繁栄を図ろうとしたのであろう。
それでは出雲大社は何のために、いかなる思想によって作られたのか?
出雲大社を作らせた神道は、いかなる神道であろうか?
それは「禊ぎ・祓い」の神道であったと言ってよかろう。
「古事記」もこのような「禊ぎ・祓い」の神道思想によって書かれているものと言える。
「古事記」においては天皇家の祖先神とされる最も尊い神アマテラス・ツクヨミ・スサノオは、共にイザナギが行った「禊ぎ」によって生まれている。
「禊ぎ」によって生まれた神など、世界のどこを探しても見つからないであろう。
アマテラスをはじめとする三人を「禊ぎ」によって誕生せしめていることは、「古事記」という史書に流れる思想を考える上で極めて重要であろう。
また「古事記」においては「祓い」の思想も重要である。
スサノオは自分の犯した様々な悪行の罪によって出雲へ退場させられるが、それを「古事記」は次のように記す。
「ここに八百万の神、共に議りてスサノオの命に千位の置戸を負せ、また髭と手足の爪とを切り、祓へしめて、神やらひやらひき」
まさにスサノオは「祓われた」のである。
「祓い」とは、流罪と同義であろう。
「千の置戸」というのは、罪をあがなう品物を載せる台であり、スサノオは自らの持つ財産をその台にすべて放出させられて、無一文になって追放された。
また髭や爪を切るという行為は、身体の一部を身削ぐ(みそぐ)、、まさに「禊ぎ」である。
このようにしてスサノオは高天原から出雲へ追放になるが、高天原で悪神であったスサノオが出雲では人々を苦しめるヤマタノオロチを退治するなど、善神に一変する。
いったいこの「禊ぎ・祓いの神道」はいつ、誰によって作られたのであろうか。
「禊ぎ・祓いの神道」を最もよく語るのは、「中臣祓」の祝詞と称される「延喜式」にある「六月のつごもりの大祓」の祝詞であろう。
そこで中臣がおごそかにこの祝詞を読むのである。
中臣は、天智天皇と共に蘇我政権を倒した鎌足の大功績によって初めて貴族の仲間入りをし、天智天皇の晩年に政治にも参加できるようにと新たに藤原の姓を賜った新興氏族である。
とすれば、この「中臣祝詞」と言われる「大祓の祝詞」は天智天皇以後、おそらくは「大宝律令」がなされた時に作られたと考えるのがもっとも自然である。
つまり藤原不比等は自らが作った「大宝律令」の精神を表わすイデオロギーとして、「中臣祝詞」を作らしめたのではなかろうか?
そしてそれによって政治は藤原、祭儀は中臣、という支配体制が固まったのではなかろうか?
藤原氏の権威が確立されてからは、そのような儀式は形式的なものになり、その後は廃止されてしまう。
このような「禊ぎ・祓い」の神道が、出雲大社が建造された時代の神道であるとすれば、出雲大社はそのような神道思想によって建造されたと考えねばならない。
スサノオは流罪にされ、オオクニヌシも前王朝の大王として死罪になったと考えられる。
ところで出雲大社は何のために建てられたのか?
「禊ぎ・祓い」の神道は、祓われた魂を鎮魂することを最も重要な神事とする。
前代の王朝、「出雲王朝」のスサノオ・オオクヌヌシは藤原不比等がもっとも手厚く祀った大怨霊神なのであり、
藤原不比等こそがヤマト王朝に敗れた出雲王朝の神々を出雲の地に封じ込めた張本人だと、私は思う。
出雲大社の建造は後世に誇るべき大事業であったと言える。
現在の約2倍の高さにあったこの長大極まる本殿は、何度か倒壊したが、その度ごとに再建され、鎌倉時代はまだそのままであったことが確認された。
江戸時代には本殿は約半分の高さになったが、それでも天皇の祖先神アマテラスの居ます伊勢神宮よりはるかに壮大な神社である。
中国では新しい王朝が誕生する度に前代王朝の歴史書が編まれた。
それには前代王朝の鎮魂という意味も含まれていたであろう。
日本最初の歴史書「古事記」と「日本書紀」も、中国の歴史書にならって日本の歴史を語り、前代の王朝の業績を讃美し、その上で現王朝が前代の王朝に代わらねばならぬ必然性を述べたものと思われる。
「古事記」においてオオクニヌシの国づくりの話が特に詳しく語られているのは、悲劇的な最後を遂げたオオクニヌシの怨霊鎮魂をひそかに行おうとしたからであろう。
出雲大社の建造は、この「古事記」に語られている前代の王朝の神々の鎮魂を具体的に示したものであると言えよう。
(引用ここまで・終わり)
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大変勉強になりました。
それでは神道の源流はどこにあるのか?、と問いたくなりますが、日本の歴史の大きな作りは見えてきたような気がしました。
著者の梅原猛氏はたいへん意欲旺盛にさまざまな文明の在り方を研究していらっしゃいます。
この本はかつて存在した出雲の大文化圏を、大和朝廷が葬り去り、無かったことにして神社にまつりあげて、新たに自分達の大和朝廷の視点から日本の歴史を改ざんして正史としたのである、ということを書いてありますが、他にも弥生文化に対する縄文文化、ヤマト文化に対するアイヌ文化、黄河文明に対する長江文明、とさまざまな視点から日本の原点をみつめておられます。
前の記事にもとりあげたように、原発による文明に対しては、脱原発の文明を支持しておられます。
日本の文化の源泉はどこにあるのか、という問いは、日本人のアイデンティティを探る試みであり、日本人である自分自身のアイデンティティを探る試みでもあります。
和魂洋才といいますが、日本人は器用で、多少の無理をしても相手の要求を受け入れて、事無きを得る性質がありますから、よほどの覚悟がないと、自分とはなにかが分からなくなってしまいやすいのではないかと思います。
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出雲大社 5件
神道 9件
などあります。(重複しています)