北米インディアン、イロコイ族のポーラ・アンダーウッドさんの語る「一万年の旅路」を読んでみました。
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(引用ここから)
そこで一族は傷を負った者のような叫びを上げると、互いに言い合った。
「山は安心出来ない。海も安心できない。我らの「中つ地」も安心できない。
安全なのは「大いなる渇き」の方角だけだ」と。
そうして彼らは踵をかえし、走れる者は走った。
歩ける者は歩いた。
一つの民として踵を返し、「大いなる渇き」の方角に向かって歩き出したのだ。
誰かが口を開いてこう尋ねた。
「ここに「長びと」はいるだろうか?」
すると三人の男が立ち上がり、押し寄せる海から遠く離れた山の中で狩りをしていたと答えた。
そこで我らは彼らに知恵を求めた。
しかし彼らは言う。
「我々に聞くなら、狩りのことか、深い海に住む生き物のこと、あるいは世界を歩くことに限る。
そういうことなら答えもしよう。
だがわが氏族は海の民で、「大いなる渇きの地」には背を向けていたから、この場所について知っているのは三つだけ。
もし、ここからまっすぐ“西に北に西”へ行けば山並みにぶつかり、こことそことの間にはほとんど水がない。
もし“北の東の北”へ行けば、「海辺の渡り」に至り、そこを通って大海の北を進むと、「かなたに広がる大いなる島」へ達する。
大海の水位が低い時はこの道をたくさんの獣の群が通るが、水位が高い時は、「二本足」だけが通る。
一方“南の西の南”へ行くと、また別な山並みがあって、その間の谷間を抜けてむこう側へ渡れるかもしれない。
むこう側にはわれらの祖先が言い伝える「海の民」がいるが、我らには彼らと再会するつもりはない。
というわけで、われわれの見る限り、目指すなら北だろう。」
そこであくる朝、最初の光と共に全員が起き出し、“西の少し北”の方角に歩いた。
水があれば誰かが見つけられるよう、平らな土地に広がって。
こうして「歩く一族」は、ほとんど誰も失うことなく「大いなる渇きの地」を超えた。
しかしこの旅では大きな学びがあった。
これほどの渇きを見たことがある者がほとんどいなかったため、水や食料をどれだけ使っても大丈夫なのか、誰ひとり知らなかったからである。
そして一族は、これまで代々、帰ってきた物見たちから学んだすべてをもってしても、まだ十分ではなかったことを思い知った。
なぜなら我らの古い生き方、思いと学びを集中する由緒ある方法が一瞬のうちに掻き消えて、一族はこの新しい世界に裸で立ちつくしていたからだ。
そこで我らの間に大きな決意が生まれ、次のような言葉を常々互いに掛け合う習わしができて、いつしかそれが旅の歌となった。
「目が覚めているあらゆる瞬間から学ぼう。
眠っている間さえ学ぼう。
学びながら、兄弟が歩くところを見守ろう。
彼が石ころだらけの険しい道を選んでも。」
(引用ここまで)
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世界をまたにかける、と言いますが、ほんとうに文字通り、この遠い昔に生きた人々は世界を知り尽くし、歩き尽くしているようです。
そして大地や海と、たわむれるように親密な関係があったのだと思います。
今の人々が忘れてしまった知恵を持つ人々だったのだと思います。
「人間」を語る時に用いられる「我ら」という言葉、「一族」という言葉、「兄弟」という言葉に胸が熱くなります。
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