始まりに向かって

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大地には死すべき人間と原初の牡牛がいた・・ゾロアスターと神秘主義(3)

2013-03-07 | マニ・ゾロアスター



マニ教を調べた時にも読んだ山本由美子氏の「マニ教とゾロアスター教」を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


               *****


               (引用ここから)


ゾロアスター教は、もっとも古い天啓宗教の一つである。

しかしセム語族の宗教であるユダヤ教とは異なる伝統に基づいている。

ゾロアスターがイラン民族の古来の伝統的な宗教を改革したのは、ほぼ3000年以上も前のことである。

彼の説く教義や世界観は、当時のイラン人には問題なく理解されたはずだが、今日では理解不能なところが少なくない。

ゾロアスターのメッセージは、イラン人だけに向けられたものではないにしろ、ゾロアスターが当時人間とみなしたのは、彼と同じ種類の人々であっただろう。

彼らは自らを「アイルヤ(アーリア人)」つまり「自由な人・貴族」と呼んだ。


イラン高原にイラン人(アーリア人)が居住してから3000年以上になる。

彼らの言語、文化、伝統をはぐくんだ祖先は、インド・イラン語族に属した人々で、さらに遡れば、ヨーロッパの大部分の人々とも言語系を同じくするインド・ヨーロッパ語族の人々と考えられる。

彼らは南ロシアから中央アジアにかけて広がる草原地帯を活動の舞台とする遊牧民であった。

乾燥した砂漠地帯が多いイラン高原でも、遊牧生活を送ることは可能であったが、イラン人の多くは、移住してきた時、定住生活を選んだ。

しかしその時でさえ、彼らの自然観は、遊牧生活のもとで形成されたものから、それほどかけ離れてはいなかった。


彼らの世界観はどのようなものであっただろうか?


彼らは、世界が球体の天の中にあると考えた。

天は固くて透き通ったものであり、水がその球体の下半分を占め、大地はその水に浮かんでいた。

大地の中心には、隆起し続ける高い山(ハラ山)があり、大地の周辺は、やはりハラ山と呼ばれる山に囲まれていた。

その中心の山の頂を太陽や月や星がめぐり、山頂からは水が川となって流れ落ち、南の海に注いでいた。

その海の真ん中には、「すべての植物の種をもつ大きな木」が生えていて、その根は「カル魚」という大魚によって守られていた。

この木は「癒しの木」とも言われ、その隣には「生命の木」(白ハオマという)があった。


大地には、「死すべき人間」と「原初の牡牛」がいた。

すべての生命の活動は、この「牡牛」を犠牲にすることで始まった。

「死すべきもの」という名をもっていた最初の人間が死ぬと、その「種」から多くの人間が誕生することになった。

生命の活動は通常、「火」で表わされた。


このような世界観は、インド・イラン語族の人々に共通するものであったが、その細部はそれぞれ異なっていた。

おそらく、インド・ヨーロッパ語族の人々の故地においても、多数のヴァリエーションがあったものと思われる。

彼らは人間の力の及ばない自然現象や理解できない超自然的な力を神格化して、畏敬の対象にした。

世界を構成する基本的なもの、つまり天や大地、水や火、太陽や月も神とされた。


最初に「犠牲」になることで世界に生命を与えた「牡牛」は、特に重要な神となり、その魂は生物や世界に善をもたらすものとして崇敬された。

牡牛を「犠牲」にした際の原初の祭儀は、人間の祭司によって、日々、年々繰り返された。

それによって、世界が存続するためのエネルギーが与えられると考えられた。

したがって祭司は、その祭儀を正しいやり方で、つまり効果のあるやり方で、司祭できるよう訓練され、その地位は極めて高かった。


              (引用ここまで)


               *****

本文の注に、次のように書いてありました。

                  ・・・


「ハラ山」は大地そのものとも考えられる。

つまり周辺の山々も同名だからである。

これは世界の中心の山として、インドではシュメル山と言われる。

仏教をつうじて日本では須弥山の名で知られる。

                  ・・・


“原初の世界には、死すべき人間と牡牛がいた”、というシチュエーションは、牧畜民の魂が創り出したものでしょうか?

牛を飼い、その牛を殺して食べるという行為に、人間は原罪のような辛さを感じたのでしょうか?

そして、どんなにたくさんの牛を食べたところで、人間はいずれは死すべき運命から逃れられないことが、二重の苦しみとして感じられたのでしょうか?


犠牲の牛という強烈なイメージは、キリスト教の「神の子羊」としてのイエスキリストを思いださせます。

犠牲の牛、犠牲の子羊、人間の犠牲になって死に、そして蘇るキリスト。。

同じテーマをめぐる、非常に近い思想のように感じられます。


                 *****


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などあります。(重複しています)

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