マヤ文明の研究が進んでいるそうです。
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「マヤ文明・最古の建築物・・紀元前1000年 定説より200年早く」
2013年4月26日朝日新聞
中米グアテマラにある古代マヤ文明の遺跡で、日本人らの研究グループが神殿ピラミッドの原型となる最古の建築物を見つけた。
年代測定の結果、同文明の起源が、従来説より200年早まる可能性があるという。
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同記事について、マヤ文明研究者の青山和夫氏が、読売新聞に次の解説記事を寄せています。
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「グアテマラの遺跡で供物発掘・オルメカ文明との関係も再考」2013・06・19読売新聞
16世紀まで中米で栄えたマヤ文明には、統一王朝がなく、地方色豊かな諸王国が共存した。
神聖王であった諸王は、生ける太陽神でもあり、諸都市では、太陽が運航する東西の軸が重要だった。
王や貴族は、公共祭祀建築の神殿ピラミッドに囲まれた大きな公共広場で、公共祭祀を執り行って権力を強化した。
従来は、マヤ低地の農民が土器を使い、紀元前1000年ごろに主食のトウモロコシ農耕を基盤にした定住村落を営みはじめてから、マヤ文明が徐々に発展し、前800年以降に公共祭祀建築が建てられたと考えられていた、
私たちは中米グアテマラのセイバル遺跡において、大規模で層位的な発掘調査を行い、豊富な試料の放射線炭素年代による詳細な編年を確立した。
その結果、マヤ低地で最古の公共祭祀建築と公共広場は、従来の学説よりも少なくとも200年ほど早く、前1000年ごろに建設されたことがわかり、米国の科学雑誌「サイエンス」に発表した。
公共広場の東と西に面する公共祭祀建築の基壇は増改築され続け、前9世紀に、西側の基壇は神殿ピラミッドになった。
初期の建設活動は、従来考えられていたよりも盛んだった。
神殿ピラミッドは、神聖な山を象徴した。
多くの人を動員し、神殿を増改築した上で、さらに大きな神聖な山を築き、権力を今日かしたのである。
グアテマラ高地産のヒスイを含む、計12点の緑色の磨製石斧の供物が、前1000年ごろの公共祭祀の一環として、公共広場に埋納された。
これも、マヤ低地で最古である。
マヤ人にとって、緑は世界の中心の神聖な色であった。
ヒスイは、その神聖な色、稀少性、硬さゆえに支配層の間で威信財として、金よりも重宝された。
当時の中米で支配層が装着した、ヒスイの胸飾りの供物も出土した。
初期のセイバルにも、ヒスイの胸飾りを身に着ける権力者がいたことがわかる。
セイバルや周辺地域の権力者は、緑色の磨製石斧やヒスイの装飾品を埋納する儀式を共有していたのである。
グアテマラ高地からは、鋭利な打製石器の材料の黒曜石も搬入された。
広場では、支配層の間でもっとも重宝された海産貝のウミギクガイに人の頭部を彫刻した胸飾りの供物もみつかった。
基壇内から出土した成人男性の頭蓋骨には、後世の支配層の間で広く行われた、幼少時に板をあてがって頭を人為的に変形する頭蓋変形が認められる。
マヤ文明の特徴は、その興った当初からすでに形成されつつあった。
これまでマヤ文明の起源に関して、マヤ低地の西隣、メキシコ湾岸で栄えたオルメカ文明(前1200年から前400年)の一方的な影響によって興ったとする説が提唱されてきたが、再考する必要がある。
マヤの人々は、オルメカ文明の特徴の巨石人頭像を取り入れなかった。
オルメカ文明のラ・ベンタ遺跡では、公共祭祀建築はセイバルより遅く、前800年以降に建設された。
従来の見方とは逆に、マヤからオルメカへの影響も考えられる。
マヤの人々は、地域間ネットワークに参加して、グアテマラ高地産の翡翠や黒曜石、海産貝のような重要な物資だけでなく、観念体系や美術・建築様式などの知識を、取捨選択しながら交換して、マヤ文明を築き上げて行った。
中米は、独自に文明が誕生した世界でもまれな地域である。
マヤ文明の形成過程の解明は、中米だけでなく、人類史を考える上でも重要である。
今後はセイバル付近の湖において、マヤ地域で初めて発見した年縞(ねんこう)・・湖底に年にひとつ形成される「土の年輪」から、環境変動を高精度に復元し、マヤ文明の盛衰との相互関係を探究すると共に、セイバル周辺部を調査して全社会階層の研究をすすめる予定である。
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