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「相撲の歴史」新田一郎氏著(1)・・「力くらべ」をする者と、させる者

2018-01-27 | 日本の不思議(現代)



年末から、お相撲の世界では、次々と生々しい事件が露わになって、いやがおうでも人々の耳目を引いています。

わたしも、毎日、テレビやネットで進展を追っていました。

わたしは東京・両国の「国技館」に行ったことはなく、ただ漠然と、夕方になるとテレビから聞こえてくる、のどかなNHKの相撲の中継放送を見るともなく見ていると、子どものころの思い出がよみがえってくるようです。

その記憶を辿ろうとしても、記憶はいつも同じで、「国技」と言われる催しが、変わりなく一年に何度も行われていて、髷を結って、四股を踏んだり、塩を撒いたりする、巨大な力士たち、行司の声、鳴り物の音、観客の声援、古めかしい四股名、独特の書き文字、、なんとなく懐かしいような気持ちになるばかりでした。

わたしの若い頃には、若貴ブームがあり、一気に世間に身近になったような印象はあります。

その貴=貴乃花が、今回はだんだんと焦点となってきて、まだ事件はこれからも解明が続けられるのではないかと思われます。

外国人力士たち、相撲協会の体質、貴乃花はなにを言いたいのだろう?

相撲っていつから国技になったのだろう、なぜ今相撲の世界が批判されているのだろう、と、改めて自分がなにも知らないことに気づきました。

新田一郎氏の「相撲の歴史」という本を読んでみました。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

                *****

              (引用ここから)

日本のあちこちの地域に行われていたであろう「相撲」の原型としての挌闘は、どのような過程を経て、現在見られる「相撲」のような形態に成形されていったのだろうか?

その過程は自然発生的なものであったのか、それとも何者かの意思がそこに働いていたのだろうか?


日本神話に題材をとって昭和30年代に制作された「日本誕生」という映画の一場面に、アマテラスが弟スサノオの乱暴狼藉に怒り、絶望して、天岩戸にこもり、世の中が暗闇におおわれた時、

アメノウズメの歌舞に誘われたアマテラスがかすかに開けた岩戸を、こじ開け、光を世に取り戻す役割を担った「タジカラヲ」を演じたのは、誰あろう、時の「大相撲」の人気力士・朝汐太郎(後の朝潮)であった。

「タジカラヲ(手力男)」という名称に示されているように、彼の役所は、「力持ちの神」であり、筋骨隆々の朝汐にはまことに似合いの役柄であった。


「相撲」の原義・原型が、「力比べ」にあるのであれば、「タジカラヲ(手力男)」こそは「相撲」の祖神にふさわしい存在であるようにも思われる。

ところが実際には、「記・紀神話」において、「タジカラヲ」はまことに影の薄い存在であって、活躍の場面といえば、この天岩戸の一件くらいのものであり、この神話の中にも、「相撲」との関連を見出すことはできない。


それでは、「記・紀神話」の中に表れる「相撲」ないし「力比べ」の話としてよく知られているものの一つに、いわゆる「国譲り神話」がある。

高天原の主宰神であるアマテラスは、自らの孫であるニニギノミコトに、「葦原の中つ国」を支配させようとし、

そこを現に支配している勢力である「大国主」に帰服を勧告しようと、タケミカヅチを使節として派遣した。


大国主は、従う意向を示したのだが、その子タケミナカタは納得せず、決着をつけるために、使い神・タケミカヅチに「力比べ」を挑んだのである。

出雲の国のいなさの浜(現・島根県出雲市)において立ち会った二神は、互いの手を取り合って「力比べ」をする。

しかし、タケミカヅチはいとも容易くタケミナカタの手をつかみ、投げ飛ばし、敗れたタケミナカタは遁走する。

タケミカヅチは、タケミナカタを信濃の国・諏訪の地(現・長野県諏訪市)に追い立てた。

タケミナカタはついに降伏し、服従と隠遁を約して、諏訪に祀られた。


この結果、「葦原中つ国」はアマテラスの天孫・ニニギノミコトの支配下に入ることとなったのである。

これが「古事記」が描くところの「国譲り神話」の大筋である。


もちろんこれは、今に言うところの「相撲」ではない。

「「力比べ」に勝利をおさめた側が、国の支配権を手中にする」という、いわば、国の命運をかけた決闘であり、手を取り合っての「力比べ」というその内容も、現代の「相撲」とはかなり異なっている。


しかし、この闘争の敗者・タケミナカタが祀られた諏訪社は、古くは畿内勢力の及ぶ領域の東端であり、東方の〝化外の地″に接した外縁部であった。

そのことから、「タケミナカタが追われて、諏訪に至った」という一節に、「征服者による抵抗勢力の、‶化外の地"への追放」という隠喩を読み取ろうとする見方がある。

勝者・タケミカヅチは、畿内勢力の東国進出経営の象徴的な位置づけを与えられた鹿島神宮に、「武神」として祀られているように、「外来の征服者である天孫勢力」の拡大過程を象徴する地位を与えられている。

この、「外来者による土着勢力の征服」の過程が、二神の「力比べ」という神話的表現を与えられたことの意味について、注意しておく必要がある。

この神話が形成された時代の「力比べ」(=広義の「相撲」)の形態を、なんらかの形で反映したものである可能性が考えられる。


また、この神話の、「外来の強者が土地の強者を圧伏する」という構造自体について、「遠方の「マレビト」が土地の悪しき精霊を鎮める」という民間信仰のモチーフを、「相撲」・「力比べ」を媒介に、いわば換骨奪胎し、「外来者による政府=天皇支配の由緒を語る説話」として再構成したもの、と解釈することが可能である。


もう一つ、「日本書紀」に描かれている「相撲」起源説である「スクネ(野見宿禰)」と「クエハヤ(当麻蹴速)」の「力比べ」の逸話を参照しよう。

この逸話はおよそ次のような内容からなる。


第11代垂仁天皇7年のこと、大和国当麻村に「クエハヤ」と名乗る比類なき強力な男がいた。

「クエハヤ」は、自らの力を誇り、不遜無頼の行いが多く、四方に敵とすべき強者無し、と言上げして憚(はばか)らなかった。

7月7日、このことが天皇の耳に入り、天皇は

「「クエハヤ」は天下無類の力士であると聞く。これに比すべき者はあるか?」と群臣に問うた。

すると、ある臣が進み出て、

「出雲に「スクネ」という勇士がおります。これを召して、「クエハヤ」と対戦させてはいかがでしょうか?」と言った。

そこで天皇は直ちに「スクネ」を召し、「クエハヤ」と対戦させることとした。


召しに応じて対峙した二人は、それぞれ足を上げて蹴りあったが、「スクネ」は「クエハヤ」の脇骨を蹴り、次いで腰を踏み砕いて殺してしまった。

天皇は、「クエハヤ」の領地をことごとく「スクネ」に与えた。

その後、その地は「腰折田」の名で呼ばれるようになったという。


「スクネ」は、天皇に仕えて土師臣(はじのおみ)の祖となり、天皇王族の死に際しての殉死の風を改めて、埴輪をもって代えることを建議するなど、多くの功績を残した。

学問の神として知られる道真を出した藤原氏は、その子孫であるとされている。


長谷川明氏は、説話の最後で、「スクネ」が「クエハヤ」の所領を獲得した、という点を重視して、

この説話の本質は、「ヤマト」土着の当麻氏と、「外来」の「土師氏」の間の、土地をめぐる抗争の記憶を反映した「入植説話」であるとしている。

そしてそれが「日本書記」の編纂過程で、「相撲」説の起源説話として利用されたのではないかとして、「国譲り神話」との構造的な類似性を指摘している。


ここで展開されている「力比べ」の形態は、互いに足で蹴りあうというもので、現代の「相撲」とはかなり異なり、「日本書紀」には「相撲」の文字は用いられず、「捔力」と表記されている。

しかし「類聚国史」はこれを「相撲」項の冒頭に置いて、「相撲」の起源説話として扱っている。


また二人の「力比べ」を示す「日本書紀」の原文の表現「令捔力」は、普通、「すまひとらしむ」と訓読されているように、これが古くから「相撲」の起源を語る逸話として扱われていたことは間違いない。

この部分は、本来は「力を比べしむ」、あるいは「力比べせしむ」と読んだのではないかとする説もあり、本来の読みとしてはこちらをとるべきかと思われる。

しかし、平安期にはすでに、「すまひとらしむ」と訓読され、これが「相撲」の起源として意識されていたことは重要である。


この大一番に勝利を治めた「スクネ」は、今でも「相撲」の祖、「相撲」の神様として遇され、東京都墨田区にある「野見宿禰神社」では、年に三回の「東京場所」ごとに、日本相撲協会の関係者らが出席して、例祭が営まれている。

             (引用ここまで)

              *****

そういえば、タケミカヅチとタケミナカタは争ったけれど、あれが「相撲」の始まりの形だった、と言われて、はじめて「相撲」のイメージがつかめたような気がしました。

著者は非常に慎重に筆を進めておられ、断定的なことは極力言わないようにしておられるのですが。


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