「へンくつ日記」

日常や社会全般の時事。
そして個人的思考のアレコレを
笑える話に…なるべく

○○につける薬は…?

2012年02月03日 17時08分35秒 | Weblog
 
今日は「節分」だ
子どもの頃「鬼は外、福は内」と豆を撒いたことを思い出す
この節分の由来は、旧暦での新年を迎えるにあたって、 旧年
の身についた穢(けが)れ・災厄を祓い除けて、清浄な心身
で新年を迎える…という風習からきているものだが、「鰯の
頭を戸口に飾る」と魔除けになるというのと同じく、その根
拠は全く持って曖昧な、完全なる迷信だ

節分に食べると縁起が良いとされ、主に関西方面で食べられ
ている「恵方巻き」も、豆まき同様、何の根拠も無い「戯事」
のようなものだ。小島よしお調で言えば「何の意味も無い」

だが、この冗談レベルの行事も長年続けられると、何やら特別
な“根拠”がありそうに思われ、欠かすと“災難”が降るよう
に信じられ、それが浸透する。「恵方巻を食べないと縁起が悪
いよ」「豆を撒かないと鬼が居座るよ」などがそうだ。こうし
た迷信がはびこるのは、別の意味での“災難”といえる
こうして因習は作られ、その因習が人々をがんじがらめにする
怖いのは、それに縛られた人たちの増殖による社会の汚染だ

豆まきや恵方巻程度の、幼稚で罪の無い風習なら、別に目くじ
らを立てることもないのだが、看過できないのが、これらの底
にある「根」だ。例えば、「除霊」がどうの、「運気が上がる」
グッズがどうの、というのも、この「根」から発している


いわゆる「霊魂」の存在は、仏教の創始者・釈迦も否定してい
る。災厄などというものは、変化・変化を繰り返す宇宙の事象
のなかでは避けられない当たり前のことだ。それに立ち向かう
対処する強い生き方こそが正しいのだ
人生において雨が降り濡れれば「あー、なんて災難だ」と嘆き
風が吹けば「助けてくんろー」と布団に潜り込む。そんな現実
逃避の生き方をしつつ、不幸の根源は自分にあるとは思わずに
霊魂や先祖の霊や水子を原因にする。まるで原始人だ

先日も、秋田でこんなことがあった。「除霊」と称して、25歳
の会社員を両親や妻ら親族が強引に押さえつけ、結果、圧迫死
で殺してしまったのだ。警察の調べで親族は「男性の言動が変
なので、霊が乗り移ったと思ったので…」と項垂れたという
言動が変ならば精神科に連れて行けばいい。結果的に殺してし
まった親族の方が「変」だったのだ

また、「運気が上がる」ブレスレットや数珠の購入を巡るトラブ
ルも日常茶飯事だ。人生において「運気」はないし、その“ない
もの”を上げるグッズもあるはずがない。返品しても「身内に不
幸」は降りかからないし、「死ぬ」こともない。だが、愚かにも
信じる人が多い

「何度も言うよ」(by チャゲアス)。霊魂も厄も何もかも「全部
ウソさ」(by サンプラザ中○)

そうは言っても「オラは背後霊を信じる」「霊的な力のある石はある」
「災厄の原因は先祖供養にある」と意固地に因習につがみつく人たち
がいる。それを前提にしているから、愚かにも騙される。○○につけ
る薬ではないけれど、それをつければ「ハッ」と我に返り、霊魂だとか
死後の世界とか、パワーナンチャラの因縁などの愚かしい因習が馬鹿
馬鹿しく思えるような“薬”はないものか…なぁ
でも、そういう発想が、因習を信じる基盤と同じなのかも…なぁ

日本の節分の習慣から脱線し、そんなことを思ったのだった
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節分に一句

2012年02月03日 13時41分42秒 | Weblog
 
節分を
聞きつけてくる
花粉かな



ハックション!

豆撒いても退散する訳も無く…
もー、最悪…
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