「へンくつ日記」

日常や社会全般の時事。
そして個人的思考のアレコレを
笑える話に…なるべく

何があっても泰然としてろ

2011年11月02日 15時25分58秒 | Weblog
 
経済危機、仕事、人間関係、病気などで
人生の大きな試練を迎えた時
そこが人生の正念場となるが
その時にこそ、その人間の真価が問われる

あたふたと狼狽して騒ぎ、諦め絶望し悲観にくれるか
それとも、微動だにもせず、泰然と乗り越えるか

試練や困難を未来への飛躍台と捉えるか
立ちふさがる壁と捉えるかで違ってくる

何があっても強い確信で、満々たる生命力をたぎらせ
挑戦の気概に燃え、へこたれず、元気で明るく
生命を輝やかせていることが大事だ
その生命の輝きこそ、人生の暗夜を照らす光だ
その頑強な心から発する光があれば何事かならん、だ
大丈夫、間違いない

心こそが大切なのだ

心が負けた時点で終わりだ
だから負けるな!
今の逆境は、自らが主役の舞台の
感動的で大事なクライマックスシーンだ
主人公はそれを乗り越える結末だ
このラストは決まったことだ
だから、台本通りに「闘え!」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

“自分”は何者?

2011年11月02日 02時15分00秒 | Weblog
 
大学で心理学を学んだ際、「人生をしなやかに生きるためには
“仮面をつけ演じる”ことが必要だ」と教わった。「ある時は
“善き父親の仮面”で子供に接し、ある時は“理解ある夫の
仮面”をつけ妻に接し、ある時は“やり手の社員の仮面”を
つけ仕事に臨む」といった具合だ
心理学界では有名なM教授の講義だった。“自分”の本性を隠し
“演じる”ことは「ニセの人生」であり「本当の自分の人生」で
はないと漠然と思っていた僕は、少なからず驚いた

その時の講義を、時折フッと思い出す
『はて、自分とは何ぞや?』

本能のおもむくまま何も考えず欲望に支配されて生き
ている時の“自分”も自分。誰か憧れの人物を手本と
して真似る、あるいは自分の描いた理想の人物になり
きっている時も“自分”だ。どの自分が“自分”だ?


社会の底辺に生きている人間が、時に口にする言葉がある
「本当の自分はこんなんじゃないんだ」と…
彼の思う「本当の自分」は、きっと人格に優れ世間から尊
敬される立派な人物なのだろう。だが現実の彼は、糊口を
凌ぐために犯罪に手を染め、その日その日の享楽に流され
ながら、満たされぬ思いに悶々として、苦悩に身をよじっ
て生きているのだ。さて、彼の言うように、“本来の彼”
は、高潔で尊敬を集める紳士だろうか

答えは「否」だ

何故なら、彼の「行動」が正反対のものだからだ。そう
人間はその「行動」で判断される。いくら「本来の自分
は」と叫んでも空しいのだ

人間は「行動」が全てなのだ。それを前提にすると、自分
の思う“本来の自分”は品行方正の善人ではなくとも、善
き行動をしていれば「善き人」ということになる
つまり、“善き人の仮面をつけ善き人を演じる”ことは
考え方として正しいのだ

しかし、疑問が残る。いくら行動が善くても、心は「悪い
欲望」に満たされ、それを押さえつけ生きるという、表面
だけ取り繕った生き方の人は「善き人」といえるのか、と
いう点だ。アメリカでは、この矛盾をついた映画が頻繁に
作られる
いつも笑顔。家庭では善き父親であり夫。会社では優秀で
部下からも慕われ、ユーモアを解するエリート社員。妻も
良妻賢母で、いつもミュージカルのように笑顔。愛する夫
と子供達に囲まれる典型的な幸せアメリカ人。だが、「皆
が不幸だ」といった映画が…

そう、行動が善でも、根っこの「心」が行動を納得してい
なければ“自分”は不幸なのだ。不幸な人生は辛いし続か
ない。いつか破綻する。だから、本能のまま行動し生きる
のが一番なのだ…という結論になると、本能のままに生き
る“自分”が、自分が落ち着く「本来の自分」なのか、と
いう哲学的迷路に迷い込む…

(人に見せるための仮面か。自分のための仮面かで
 状況は変わってくるな…)

はて、“今の自分”という仮面をとると、どんな自分がい
るのだろう。ラッキョのように幾重にも仮面が重なってい
て、永遠に「本来の自分」が見えない可能性もある
いや、いつか仮面が終わって、なにもない「のっぺらぼう」という
ことも考えられる。また「恐ろしい自分」で終わる事も…

一体、“自分”は何者だ?



あれ?
世の中 仮面だらけだ…
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする