Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

志すは21世紀的ドンキホーテ?
はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

Congratulations!WBC's No.1 ・・・

2006-03-21 16:12:15 | つれずれ紀行
 そのはじまりは、明治5年だったとの事。たしか、米国から紹介されたスポーツ野球は、スポーツ文化として我国に定着。そしてこの度、野球世界一の栄誉に輝いた。

 我輩、感無量、、、。

 本当によくやった。よくがんばった。

 本日をもって、日本の「野球スポーツ」は、世界に誇れる「日本の伝統的スポーツ」となった。

 世界一を誇れる我国の野球スポーツ。
 
 言い換えれば「世界一のスポーツ文化」を日本が獲得した。と。解釈して差し支えない。

そして、
スポーツは、文化である。
世界一のスポーツ文化を持つ。その意義は、レベルの高い「教養と品格を持つ」ことに等しく、以って、世界の国々に認めさせたことになる。

そう、アクディヴな「スポーツ外交」を、米国のメディアを通して、一瞬にして世界に発信できたのか・・・

国民で共有できる世界一の「野球文化」は、我々日本人の弛まない「努力」であり、「気高い誇り」と「奥深い教養」にも通ずるか、、。
世界一となった「野球スポーツ文化」は、我国政府も、政治家も、メディアも、我々庶民も、国民全体で共有できる立派な財産なのである。

あらためて、
ますます自信を持って、
世界の国々と、
渡り合い、
競い合い、
自信と誇りをもって(外交)交渉し、
より友好に、より有効に、
世界の国々と「スポーツ文化」を通して、
より一層の親交を深め、対等に付き合っていける自信を、
あらためて実感できた本日の午後。
今日の「春分の日」、日本の21世紀の春を迎るに相応しい、良き日であった。

王監督、イチロー選手をはじめとする「WBC日本代表選手」たちよ!「類い稀なる名誉と栄光」を、我々国民に与えて下さった、、。

感謝!

ほんとうに、ありがとう!

いざ、日本よ、あらためて自信を持ち、堂々と「21世紀の世界」を進み往こうではないか!・・・

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<画像>:(イチロー選手。優勝の感動と喜びを、語る、聞く、話す。インタヴューのひとこま・・・)

祝!野球日本・世界一!

2006-03-21 15:35:30 | つれずれ紀行
 やった!

ついに「王・ジャパン」・・・

WBC優勝の栄誉を勝ち取ったのだ!

喜ぼう!

祝おう!

誇ろうではないか!

(感無量!無条件!思考回路?ますますもって不明瞭、ドサクサの喜びなる「不肖・エセ男爵Blog」も、応援のクリックおお願いします!)
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<画像>:優勝決定瞬間の「某TV局、放映画像」より・・

日本近代史探訪(1)「海軍力と外交」:小説「軍艦長門の生涯」について・・

2006-03-20 16:47:25 | 教養・文化・歴史

 欠かすに欠かせない日々の食事。こんにち、日本人の食の7割以上が外国からの食品輸入に頼って凌いでいる事、国民の大半は、先刻ご承知の事。即ち、一日たりとも対外貿易を停止できない日本の国情がある。
石油と食料品の輸入なくして我国庶民の生活はできず、したがって対外貿易なくして、日本の国と日本人の存続はありえない。貿易当事国間の取引決済や物資の遣り取りは、たとえIT時代といえどもIT通信機能の高速化のみで、決済は完結しない。実質的な対外貿易取引完結とは、A地点からB地点への商品の輸送を必要とし、安全且つ迅速に「商品物流」の完結を必要とする。多くの商品物流は、その多くをいまだ海上輸送を頼っており、海上輸送の安全且つ危機管理された的確な「シーレーン」の確保は、貿易取引当事国間において、必要不可欠な貿易インフラである。といっても、言い過ぎではない。しかし、その安全を脅かす「不逞の輩」がいる。海賊である。あるいは国家を挙げての海賊行為である。
規模の大小にかかわらず、海賊行為を取り締まるのは個人又は私企業では不可能に近く、ここに自国企業の「通商」を守る、企業の所属する国家の武力が必要となる。国の武力を掌るのは「軍隊」、海上では「海軍」という事になる。したがって海上での軍事力無しに、安全且つ継続可能な貿易取引は不可能となる。
歴史的見解から、自国の海外取引の安全を保証する為、その当事国の海軍が生まれたと考えて差し支えない。
 
 もって我国の歴史を振り返るに、明治維新後の国際的国家経営のプロセスに於いて、耕地面積狭く島国国家に(比較対照的に、すでに)多くの人口を抱え、地下資源無きまま、我が国の経済を発展させ現在に至らしめたのは、ひとえに対外貿易取引の結果である。日清日露の戦争も、全て「日本国籍の私企業」の対外貿易権益を守り、ひいては国全体の国益を守る為に、やむなく起こした不幸な出来事である。第一次世界大戦、第二次世界大戦を経て、今日尚存在する我国。知恵を出し、身体を張って汗水流した。
対外的戦争は何であったか。
無論、基本的には日本の「国家の権益」を守る行為に他ならなかった。
侵略であったかどうか?間違っていたかどうか?
戦争は「けんか」!
喧嘩に「正しいも、正しくないも」、正義か?悪か?
可笑しい・・ いかにも子供っぽい、、。
歴史の中での国家間の争い、異民族や他民族、異なる宗教を持つ集団同士の争いごとに、正義も悪も、何もない!

(第二次世界大戦に於いて、結果、戦勝国が正義であり、敗戦国が悪になった。
しかし、しかし、けっして戦争は善ではなく、平和な状態が良いに決まっている。さりとて、平和を継続維持する?それ以前に、当事国の国民に不利益や不幸が襲い掛かって来るならば、国家を挙げて「国家と国民の災い」や「不利益」は、振り払わねばならなかった。で、あろう・・・)

もう一度歴史を振り返れば、
戦争!若き日本男児の「命(いのち)」、すなわち尊い「国民の血」で購った「歴史の事実」を経て、今日の日本が存在することを忘れてはならない。

  <・・休憩・・>



『第1部』

さて、21世紀。
今世紀始まったばかり、この先、日本国民の生活と文化と将来の希望を実現する為に欠かせないものがある。対外経済活動の絶え間ない継続である。これには異なる国と国の間でそれぞれの権益がぶつかり合いながら、日夜継続されるのが貿易である。貿易は商取引。商取引はフェアーに行ないつつ我国に有利な取引を継続しなければならない。不利な取引が継続すると、その企業は潰れる。
国際的な私企業の間では?どうなる・・・
ならば、これを国家に置き換えれば、その不利な取引を続けた国は、潰れる。すなわち、国家の滅亡である。この国家間の通商を有利に調整する行為を「外交交渉」という。外交交渉を有利に進めるためには、その裏に「武力」という「ちから」の存在が不可欠である。武力は、めったなことで行使してはいけない。武力とは、絶えず備えておくものである。しかし、力(ちから)無き、外交交渉は、実質的な効果を持たないと断言できる。

そんな将来を考えるとき、今の日本の外交交渉の不味き現実と、武力を持たない(行使できない)国家体制では、不安すぎる・・・
また、政治家も、政府も、マスコミも、国民も、挙って「外交と武力」の認識が無さ過ぎる。無視しすぎる。世界の情勢を(本気で)見ようとせず、現実から逃避する。いや、観る目と、情勢を判断する基礎知識が無さ過ぎる。
その原因を作ったものは何であろう?ふと考えれば、今の日本の立場が見えていない。という、日本人全体の風潮である。何故見えないか?比較対照物が無いから、危険も不安も感じなくなってしまったのである。
言い換えれば、「国家感」なく、日本国民のエゴも名誉も自尊心も、なくしてしまったことに気付いていないのでないか?
気付かせるには、いや、気が付くには、目を覚ますには、如何すればいい?
まず、日本人のための日本の歴史を知らねばならない。特に近代の歴史認識が足りない。そして、近代日本と外国とのかかわりを知ることにある。
知っている!我国の仕掛けた侵略戦争で、近隣諸国に迷惑をかけた罪状を、、。
違う!
自虐的歴史認識と、我国のとった戦争行為の否定的認識。それをもって、歴史を知っている。十分に学んでいるとはいえない。
良かれ悪しかれ、もう一度「戦争の歴史」を、高所から高見しなければならない。



『第2部』

よい本を紹介したい。

 阿川弘之先生をご存知か。
当時既に、日本を代表する小説家・志賀直哉を師と仰ぎつつ、いよいよ敗戦の色濃くなった旧東京帝国大学の学生時代、学徒動員のかかる不穏な情勢を予測し、ならば強制学徒動員の声がかかる以前(一年前か?)に、潔く自ら名乗りを上げ(選ぶならば、海軍!と考えられ)海軍予備学生となる。既に英語に堪能であった阿川青年は、旧日本海軍諜報部暗号解読担当部門の少尉として、中国上海に赴任。1945年の8月15日、赴任地上海にて第二次世界大戦の終戦を迎える。終戦の約半年後、無事本土に帰還できる。郷里広島にて逗留一年後、何れの就職を模索されて上京。上京の後、すでに師と仰がれていた志賀直哉に直接師事され、いよいよ本格的に作家の道を歩まれる。(記憶に辿っての記述ゆえ、弱冠の時間的誤差があることお許しいただきたい)
尚、既にご承知の方も多いかと思うが、あえて追加補足的紹介をすれば、我が敬愛する阿川氏は、TV司会などで著名な阿川佐和子さんの御父上。ご息女・阿川佐和子さんも、我輩の(数少ない)好きなタイプの女性有名人?の一人である。

さて、昨日の予告編通り、
テーマ「日本の近代史入り口」への雑感にあたって、「日本海軍の存在と近代日本国外交について」史観の私観的ゲートウエイに向かうにあたり、まずは先に紹介したい阿川弘之氏の「小説作品」、有り。

すなわち「軍艦長門の生涯」、阿川弘之の名著である。

以下、本著の感想を述べるに先駆け、阿川氏の同作品の序章を紹介したい。


さて本著、
「あまぞんどっとこむ」を検索すると次のようになる。表紙のブックカバーが出ないから、いかにも寂しい。したがって「写真画像」にて、我が蔵書の画像を表題とした。

軍艦長門の生涯 (上巻)

新潮社

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以下、「軍艦長門の生涯」(上巻)序章;引用・抜粋

子供のころ、広島の私のうちから川一つ向うに、高木義夫という友達の家があった。学校が終わったあと、始終往き来して遊んでいた。義夫のところへ行くと、兄の正治も入ってよく新版いろはカルタが始まった。義夫たちの父親も明治海軍の主計大監、「軍艦造りの博士平賀譲はうちの親類だ」と義夫に聞かされたことがある。カルタを取りながら、私は此の一家から海軍の事を色々教えられだろうと思うが、「ち」の「鎮守府、横須賀、呉、佐世保」というのが一つ、のちのちまで記憶に残っていた。
これが昭和五年「少年倶楽部」新春号附録の「新案物知りかるた」というものだったとあらためて知ったのは、さきごろ講談社から「少年倶楽部名作選」の口絵のかたちで復古版が出てからである。
「ロンドン世界の最大都市」
「陸軍の兵力十七師団」
「ぬれ手で電燈さはるは危険」
「陸奥と長門は日本の誇り」
と、昭和初期の内外世相を反映したような四十八枚が、「鎮守府」の一首をまじえて色刷りで並んでいるのを、十幾年ぶりに私は見た。
義夫とちがう家庭に育った小学三年の自分が、海軍の艦艇に当時どの程度感心があったか覚えないけれども、年表を手繰ってみると、私どもが物識りかるたで遊んだ昭和五年はロンドン軍縮会議の年で、「陸奥と長門」の長門が完成して十年目にあたる。妙な縁だが、軍艦長門は私の生地広島市に近い呉海軍工廠において、私と一月ちがいの大正九年十一月に誕生している。

(中略・・・・)

戦艦が各国海軍の戦力の象徴であった時代は疾(と)くに終わってしまったけれど、私は自分と何年同郷の長門の一生を、一つの物語として書き綴ってみたいと思う。
伝統芸術の分野は別として、戦前の日本で世界の水準に達していたものが三つあったといわれている。
帝国海軍。
三井の貿易。
水泳日本。
鶴田義行と小池礼三が二百メートル平泳ぎで一二位を占め、八百メートル・リレーで日本チームが優勝し、前畑秀子が女子二百メートル平泳ぎで銀メダルを取り、水上日本の存在を世界に示したロサンゼルス・オリンピック大会が、「物識りかるた」から二年後の昭和七年。今なら衛生中継。カラー・テレビの実況放送であるが、
「いよいよ最期の十メートル、鶴田、小池、ますます力泳、小池、鶴田に迫っております。その差わずかに一フィート。あと五メートル、あと四メートル、小池、鶴田、死に物狂いのピッチ」

(中略・・・・)

OO・・アナウンサーの名調子が、太平洋を渡って茶の間のラジオに聞こえてきた。
私は小学校の六年生になっていた。生家のすぐ近くに、四百メートル自由形三位の大横田勉の家があって、学校の往き還り、尊敬のまなざしで大横田家の表札を眺めたものであった。
日本選手が入賞すると、ロサンゼルスのプールサイドに日章旗が上がり、「君が代」の奏楽がおこる。ラジオでその光景を聞くのは嬉しかったが、私はどういうものか、日本の旗としては軍艦旗の方が日の丸より好きであったし、何か力強いような気がしていた。将来海軍士官になりたいという思いはなかったので、これはもしかすると、海軍という存在が、日本の国力の平均水準よりずっと高いところにいることを、子供ながらに承知していたのかもしれない。
昭和期に入ってからの日本陸軍はその大言壮語にもかかわらず、世界の軍事専門家の間で軽んじられていたようだが、海軍に対しては、どこの国も一目おかないわけには行かなかった。日本は当時、英米につぐ世界第三位の海軍国で、フランス、イタリー、ドイツ、ソ聯の海軍を、質量ともにはるかに引きはなしていた。

三井の貿易はあまり意識していなかったが、帝国海軍と水上日本<水泳日本を云う>とは、少年期に達して以後たしかに私達の誇りであった。そのころ日本の子供が、世界に向かって自慢できるものは海軍と水泳くらいしか無かったということにもなる。
海軍を誇りに思っている「少年倶楽部」の愛読者にとって、聯合艦隊の精鋭が全滅する日が来ようなどとは、もとより想像外の話であったが、世界的な視野でこれを見るなら、日本海軍が優れていたのはやはり比較級の問題に過ぎない。
「無敵の艨艟(もうどう)
勝利のつばさ」
 などと、軍国歌謡の作者といっしょになって、自分で、
  「ひょっとすると、真実世界無敵なのではあるまいか?」
 と思いはじめたが、帝国海軍は滅亡の道を歩み出す。

 海軍の研究家として著名な福井静夫は、対米開戦の少し前、巡洋艦鳥海の士官室で、海軍報道部平出(ひらいで)英雄大佐の「艨艟(もうどう)五百、海鷲(かいしゅう)四千」という言葉を耳にした。
 士官室の反応は、「不愉快」の一語につきたそうである。
 「いくら何でも、こりゃあ、吹きすぎだよ」
 と、苦々しげに言う者もあった。
 末期の長門艦長をつとめる渋谷清見少将は、昭和九年、末次信正大将の率いる聯合艦隊が、末次の郷里の山口県三田尻沖に入港した時、土地の新聞が「無敵艦隊」という大活字で紙面を飾ったのを見て、イヤな思いをした記憶があると書き残している。「それを当局は静止もせず、この頃から段々沈黙の伝統が崩れだし、開戦前にはもう後へはひけぬような世情を作ってしまったのではないだろうか」と。
 内部一般の空気には、そういうものがあった。しかし、海軍もまた時の流れを押さえきる事は成し得なかった。一旦、きのこ雲のようなとてつもない大部隊を擁したのは、それが崩れるまでほんの短い間であった。
 「艨艟五百」のうち、第二次世界大戦中に日本が保有していた戦艦は十二隻である。
 私が兵科予備学生として海軍に入った昭和十七年の秋、教官が座学の時間に、
 「日本の戦艦の名前を、知っているだけ挙げてみよ」
 と言ったことがあった。
 私どもの多くは、少年時代から、「陸奥 長門、扶桑 山城、伊勢 日向」と口調で覚えていた。義経千本桜の四天王「亀井、片岡、伊勢、駿河」と同じで、馬鹿に調子が良いからすぐ答えられる。
 それに巡洋戦艦として生まれた「金剛 比叡、榛名 桐島」。
 「よし、それでよし」
 「教官、未だあります」
 と、一人の学生が手を挙げた。
「大和 武蔵」
 教官はにやっとした。
 「そんなものは知らんでよろしい」
 開戦後就役した「知らんでよろしい」大和武蔵を加えて、基準は排水量で総計四十八万トンの戦艦軍は、長門を除いて、終戦時までにすべて、沈められるか自沈するか、アメリカの飛行機にやられて海底に大破着座してしまった。「思ひもよらず我一人」という古い陸軍の軍歌のように、十二隻中たった一隻、長門だけが不思議に命永らえて敗戦を迎えた。昭和二十年の八月十五日、長門はボイラーの火を消し、あわれな姿で母港横須賀の小海岸に係留中であったが、ともかく帝国軍籍に在る軍艦として生きていた。
 生(なま)じっか生き残ったばかりに、長門は敗戦の翌年、ビキニへつれて行かれ、アメリカの原爆実験の標的艦としてその生涯を閉じる。世界最大最強の戦艦として生まれ、長く聯合艦隊の旗艦をつとめた「日本の誇り」は、今も中部大西洋の環礁の中に眠っている。

<序章・完>(本著より、3p – 6p 上段まで、引用・・)

以上、
文字数にして、既に3000文字近くになる。本著「軍艦長門の生涯」(上巻)は一ページに上下に段組の活字組み合わせ、総計351ページ。これが上・中・下巻と、3冊の長編小説となる。かなりの長編である。しかし是非、一度は手にとって通読したい一冊である。
初刊は昭和50年12月。昭和51年4月5日第八刷にあたるものの一冊、それが表記の写真画像である。著者阿川弘之氏の日本近代史観は、軍艦長門を擬人化して旧日本海軍の組織と性格を、整然と時系列にし、且つ冷静に、明治後期から大正時代を通して尚、昭和初期から始まった激動の時代から終戦を迎えるまで、さらには軍艦長門が原爆実験の標的になり朽ち果てるまで、日本と世界の位置関係を鳥瞰図的に解読し、淡々且つ凛々とした日本人的感性と情緒も踏まえつつも国際派知識人としての基盤に立たれた上で、「近代日本海軍」の辿った栄光と滅亡の生涯を描ききっておられる名著である。

 本日記事、すでに長い。長すぎるのでここで一旦「休憩」とする。

そしてもう一度、今週末には最終編を書く。


  <・・続く・・>


付記:平成19年4月25日現在、あらためて本記事を検索した、、、。 直にでも続編を書く予定であったけれど、今尚遅々として進まず!?  やはり書かねば収まらないか。ようし、書き切りましょう。 ・・・この5月(平成19年)連休の宿題である。

日本近代史探訪:「旧日本海軍と日本外交との歴史的関係は?」(予告編)

2006-03-19 10:07:29 | 教養・文化・歴史
当記事「予告編」として投稿・・・

そして明日(3月20日月曜日)、阿川弘之先生の名著「軍艦長門の生涯」の感想文を投稿します。
この感想文記事、昨年の夏場に一度試みた経緯がありますが、故あって中断留保。そしてこのたび、あらためて3回シリーズくらいのヴォリュームで記事にしてみたい。と、本日から推敲を開始。
ならば、この度は、
単なる「読書感想文」から少し視野を広げ、日露戦争をかろうじて勝利に留めた「日本海海戦」以降の、日本海軍の辿った苦難の歴史をみてみたい。
近代歴史教科書には決して載らない「日本海軍」の外交戦略としての重要かつ危険な役割と関わり、、、。世界を駆け巡る海軍軍人の思考回路、日本武士道的ナブレスオブリジェ(nobless oblige)なる、日本海軍精神の世界と日常。等々、
第二次世界大戦前夜から、太平洋戦争突入し、敗戦に至るまで、解っている様で、ほとんど解らない。「空白」なる事実上(一部の専門家及び興味をもって紐解いた人々以外)、一般国民にとっては余りにも知られていない。まずは少しでもその知識的空洞を埋め、正しい「日本の歴史認識」に接近するための「切り口の一片」にしてみたいと考えます。

(to With@Blog Ranking,,)

記事内容はあくまでも「日本近代史の素養」を探求したく、
一般教養としての近代歴史の「入り口」の模索を目的としたい。ならば、近代史探求にはそれなりの道具が必要か。道具?ならば適切な切り口を探り、切り裂く道具として、近代日本の「歴史認識」探求の入り口として、旧日本帝国海軍の果たした「歴史的動向」を素材に世界との関わりを確認したいのです。

さて、
旧日本海軍の紹介を試みた一般的な題材素材をみれば、近くは、映画「戦艦大和」を取り扱った作品の公開予定。少し時代を遡れば、漫画&TV番組で取り上げられた「宇宙戦艦ヤマト」は空前のヒット作となった。しかし残念かな、日本海軍のイメージは、単なる夢想空間アニメのイメージしか残っていない。戦後生まれの日本人の、旧日本海軍の残像は、ずでに「夢想」にも至らい、貧しくも儚い「空想と幻」のみに止まる。はたまた勇壮なる日本海軍の生んだ名曲「軍艦マーチ」も、今や「パチンコ屋」のイメージミュージック?パチンコの音を掻き消し、遊興賭博精神を駆り立てる為のBGMになり下がっているではないか?
かくして、日本海軍存在の歴史のイメージとは?
すでに「三流時代劇」以下なのか、はたまた昔懐かしい「ちゃんばら映画」以下の存在か・・・・
これではいかん!
(特に?若き?)日本男子たるもの、旧日本海軍の歴史における、名誉と栄光と崩壊の顛末、くまなく知る必要あるか。と、あらためて思うのです。

ならば、
旧日本帝国海軍の「海戦史」に於ける戦艦大和とは?一体全体、戦艦大和は海軍海戦の実戦的歴史においての位置付けは何処ににあるか?
聞き及ぶ戦艦大和なるもの、旧日本帝国海軍の誇る巨大戦艦と云うデータ上の事実あるのみ。また、実際の旧日本海軍の活躍は如何ようなものであったか?
日露戦争に於ける日本海海戦以降の日本海軍の現実とは?
史実に刻まれた「日本近代の歴史」と海軍戦史の関わりの、ほんのごく僅かな部分、すなわち懐古と感傷に浸るのみ、「センチメンタルな一片」を描いているに過ぎないと考えます。あくまでも、日本近代の歴史の全体像をつかむ為には、歴史の時間的フローの把握と憂う感情を抜きにした「歴史の直視」は、欠かせません。
さらには我国周辺隣国に関する、あまりにも片寄った政治報道の現状に対し、嘆かわしい思いで一杯なのです。報道は、もっと自国の側に立った報道、鳥瞰図的な高見を加味した包括的な報道でなくてはなりません。切り口が薄っぺら過ぎるのです。歴史の時系列的フローの認識の欠如は、現状の認識把握はおろか、如何なる将来の展望も模索できない。
今、日本国民を挙げて、我国日本の近代史を知ることの重要性が有る、もっと紐解かねばならない時、すでに到来しているのです。
加えて、
過ぎ去った歴史上の出来事の中、軍事的な切り口を欠如させながらの歴史教育がなされ続けて半世紀以上も経過。これは我国教育界に於ける悪しき方角へのノンストップ暴走、、。これは偏に、近代史を無視し、軍事的歴史認識を無視するは、日本教育界に於ける歴史教育に関する異常なる現実と、考えます。
時間の流れが、あまりにも速くなった現在、我国に於ける教育世界の左巻暴走を放置しておくは危険すぎ、もはや手遅れになりかねません。これら、将来の我国をして、夢と希望の持てる日本国民と国家の「あるべき姿」を、ひたすら純粋に願う「一人の日本人」として憂うべきことであり、如何にも許しがたい教育界の実情です。
ならば、芥子粒(以下)ほどに小さな影響力しか持たない「不肖・エセ男爵」のブログ記事に於いてして(末端中の末端ながら)、正しき歴史認識の角度を広げる模索を始めてみたいと思います。

あらためて申し上げます。
本日は「予告編」予告記事です。
そして何故に今、旧日本帝国海軍の片鱗を紐解きたいか?
その訳たるや、大方の読者と「同意見」。正しき我国の歴史認識に立ち、等しく日本国の望むべき「将来のあるべきカタチ」を憂い想う、のみ、、。

明日、正午を目途に投稿いたしたく、請!ご期待!
 
 海軍に歴史を垣間見たい!!エセ男爵流「日本近代歴史」への接近方法?(久しぶりの、禁じ手使用?)肯定いただける方は是非、下記のGreen-Barをクリックして頂きたい!

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(添付写真説明):旧日本海軍「戦艦・榛名」(from Wikopedia Data:)日本海軍戦艦の持つ、独特の形状美。単なる我輩好みか?しかし、誰の目にも美しいはず。戦艦榛名は、日本海軍の典型、「美形戦艦」です。

長編連載小説『フォワイエ・ポウ』(連載12回) ついに、開店当日となった・・・

2006-03-17 00:47:27 | 連載長編小説『フォワイエ・ポウ』
    
      長編小説「フォワイエ・ポウ」3章

                   著:ジョージ青木

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連載小説「フォワイエ・ポウ」ご愛読の方にお願いです!
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3章

1(開店)

(1)-2


 開店当日がやってきた。
時間は、すでに午後3時過ぎになるか。
本田はゆっくりと、自称「赤いロールスロイス自転車」のペダルを踏んでいた。いつもに増して、赤いロールスロイスは今にも止まって倒れるくらい、街の中心地の人ごみの中をノロノロと進んでいた。
うつ病的な気分になって一週間、今日の本田の気分は、ことさらに重かった。
さほど多くない人ごみをかいくぐりながら、自転車は並木通りを平和大通り方面に南下していく。自転車で歩道を走っていること事態、歩行者にとっては迷惑な話である。そんな自転車の運転者は、歩行者の迷惑など全く気にしていなく、歩道を歩く人間の存在すら眼中に無く、ひたすら勝手気儘にノロノロと、ペダルに足を絡ませていた。気が付けば、店のビルの前に着いてしまっていた。
エレベーターのボタンを押すと、直ちにエレベーターの扉は開いた。約7~8キロの重量の自転車を片手で軽々と持ち上げ、前輪を上に向けてエレベーターに乗り込む。3Fまで昇ったエレベーターのドアーが開く。自転車を本来の位置に戻して店の入り口前まで移動した。

少し驚いた。
自転車を置くいつもの場所に、
なんと、花輪が、たった一つ・・・
店の入り口の右横に、立てかけてある。

『祝開店』
『フォワイエ・ポウ 様へ』
『贈 岡本酒店』・・・

(あ~ これ、開店祝いの花輪なのだ・・・)
唯一、本田の店の仕入先である酒屋から、花輪が届いている。
それを見た瞬間の本田は無感情であった。
その次の瞬間、なぜか、もの悲しくなっていた。
(葬式でも祝い事でも何でもそうだが、そもそも花輪ってのは、それが数多く贈られて来て賑やかに飾ればカタチになるが、、、この花輪、たったの一つだけではなあ~、どうしようもないぜ。みっともないよなあ~・・・)
あらためて花輪を観た。
みっともないから、今すぐにでも取り外して人目に触れない場所を探し、大急ぎで、しまいこみたい気持ちである。が、贈っていただいた先様に対しては、礼を欠く事になる。だから撤去するわけには行かない。
(今さらどうしようもないか… )
(しかたない)
(ウム、暫くは、このままにしておくか・・・)
花輪を支えている三脚の右前と自転車の前輪を、いつもの鍵チェーンで結びつけた後、いつも通り店のドアーの鍵を開き、店内に入った。

入り口のドアーは右開きになっている。
開いたドアーに隠れるように配置された場所に、店内の各種電源スイッチがある。
ドアーを開くなり、主電源スイッチを押した。店内の照明を最大限に明るくした。
照明をつけるなり、まず、店内右手のカウンターが視界に入る。さらに、カウンターのど真ん中においてある生花が視界に入ってきた。その横に、洋酒一ダース入りの箱が置いてある。

生花には、名札が付いている。
『フォワイエ・ポウ様へ 贈 岡本酒店』・・・
さらに、洋酒の箱を開いた。
洋酒が3本になぜかモーゼルワインが6本、さらにクリームチーズが3箱入っているではないか。
(ウム?どうしたのだ!)
(開店のための初注文は、昨夜配達してもらっているし、たぶん、これは岡本君の配達ミスなのか?)
しかし直にメモが見つかった。酒屋の封筒が副えられているのを見落としていた。
少しずつ、状況が解かりかけてきた。
間違いなく、本田が店に入る前、酒屋の岡本洋一が店に入り、これらの品々をカウンターに置いて帰ったのである。酒屋との最初の約束で、店の合鍵は必ず酒屋に一本預けておくという飲み屋と酒屋の習慣がある。空いたボトルの回収と、仕入れ注文に合わせた納品を開店の前に済ませる。だから鍵を一本預けて欲しい。と、洋一からの依頼があり、それで合い鍵を預けた事、本田はようやく思い出した。
おもむろに封筒を開け、岡本洋一の手書きのメモに目を通し始めた。


<以下、岡本メモの内容・・・>

本田様 
フォワイエ・ポウ ご開店 まことにおめでとうございます。
あらためて 岡本酒店をお引き立てくださいますよう どうぞ宜しくお願い申し上げます。
また本日は、私が勝手にご注文をお受けしてない洋酒をカウンターに置いて帰りましたこと、お許し下さい。ボックスの中のお酒について、少しご説明させて頂きます。
実は、私の母の兄、つまり私の叔父から数日前に預かっていたものを、本日開店日に合わせてお届けした次第で伯父の名は、本郷修一と申します。母方の伯父ですから姓が違いますので、申し副えます。
一週間前、久しぶりに伯父に会いました。
我々の商売柄、ついつい酒の話しになり、いろいろと訪ねられ、ついつい新規開店される本田マスターの話をしました。そうしたところ、なんと、逆に伯父の方が興味を持ち、マスターの事、いろいろ訪ねるもので、それに答えておりました。答えておりましたら、今度は伯父の方から、
『本田氏は、君よりももっと以前にお会いし、私のほうがもっと彼のことをよく知っている。そして、本田さんにはずいぶんお世話になった当時の記憶がある。間違いない。元々、私の良く知っている旅行会社にいた本田さんだ・・・』
『やはりそうか!なんとなくわかる・・・』
『そうか、会社を辞めてしまわれたのか!』
『実は10年くらい前に、夫婦でヨーロッパに行ったとき、添乗員で案内されたのが本田さんだったのだ。当時はまだ学生のようにフレッシュで、たいへん若かった。お若いにもかかわらず、礼儀正しく、丁寧で親切で、たいへんお世話になった・・・』
と、言うのです。
そして、この数本のお酒を預かり、マスターにお渡しするよう、伯父から頼まれたのです。
伯父との話の内容、詳しくは直接マスターにお話しします。
初日は、何かとお忙しいでしょう。近日中には必ず、できれば業者の方と一緒して、お店にお伺いするつもりです。
どうそ宜しくお願いします。

    昭和六十二年十一月 吉日
    岡本洋一

これがメモの内容であった。
決して上手な文字とはいい難いが、心のこもった丁寧なボールペンの筆跡である。店に入って走り書きしたものではない。このメモはたしかに事前に用意されたもの、時間をかけて何度も書換えた様子は、本田にとっては充分に伺える。


   <・・続く・・>
 
 (次回掲載予定日:3月22日水曜日)


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掲載済み「小説・フォワイエ・ポウ」を遡ってお読みになりたい方、以下各掲載日をお開き頂き、ご覧頂けます。

「第1章」
1)第1回掲載「第1章」(メタリックレッドのロールスロイス)(2月9日)
2)第2回掲載(2月10日)
3)第3回掲載「1章」(クリームチーズ・クラッカー)(2月15日)
4)第4回掲載(2月17日)
5)第5回掲載:「1章」完(2月22日)
「第2章」
6)第6回掲載「2章」(安易な決断-1)(2月24日)
7)第7回掲載「2章」(安易な決断-2)(3月1日)
8)第8回連載「2章」(安易な決断-3)(3月3日)
9)第9回掲載「2章」(安易な決断-4)(3月8日)
10)第10回掲載「2章」(安易な決断-5)最終章(3月10日)
「第3章」
11) 第11回掲載「3章」(1開店)(3月15日)


上深川紀行(回顧編)「孟宗竹の取り扱いについて 」

2006-03-16 02:07:02 | 趣味の話&本と雑学メモ

「・・?」

 完成度の低い画質、芸術感覚の悪い対象物と画角、さらには「目的不明瞭なる画像」の掲載、先ず以ってお許しいただきたい!

 実は、この画像、昨日午前中に撮影したもの。
いやその、たまたま太陽が顔をお出し遊ばしたので、日陰の場所に大切にしまっておいた貴重品、竹筒2本を、大急ぎで太陽光のあたる適当な場所に持ち出した。そして単純に「記録目的」で撮影した。

「一体全体、何をターゲットに、何をテーマに撮影したか?」

と、問われると、答えが無い。
とにかく、先日訪問した「友人宅」から貰ってきたものである。

 これ、孟宗竹の切り株か?

いや、違うのか?我輩、適切な「語彙」を持ち合わせていない。それほど竹に関する知識が無さ過ぎるのだ。
ならば、一節(二節)分の「竹の幹」?と、表現するのが正しいのか?
ま、画像をご覧頂ければ、ご理解いただけるであろう。ちなみに左下の二本の竹筒の間に置かれているのはマルボロ煙草の空箱。大きさ比較の目的にて、置いた・・
おっと、結果、画面を見れば、煙草の箱は、画面のほぼ中央に位置するではないか。野外で撮影する場合、デジカメの小さな「のぞき窓」の仔細は、近眼・乱視・乾き目、ほぼメクラ状態?
(めくら=使用禁止用語か?馬鹿な事よ、我輩、自分を称してメクらに近いといっているのが何故悪い!・・)
さて、その「めくら」状態?、その一歩手前の我輩の視力では、デジカメ画面内の小さな画像など有って無きが如し。被写体の計算などは、これ皆無。すべて手探り撮影の繰り返しである。(アイ・ファインダーのくっ付いている「普通のカメラ」が欲しい、買いたい、しかしここは、我慢!・・・)

 ご存知の通り、先週末から3日間、PCチェックの為に友人宅に赴いた。そのパソコン調整の合い間に「竹林見学」をした事、既に述べた。
加えて本年正月元旦、同じく友人UT氏から「正月用の立派な門松の写真」が送られて来たので掲載した。

 これ、この竹の切り株は、門松を作ったときに切り出したもの、その時の余り物である。が、言い換えれば、友人UT氏ににとっては廃材。我輩にとっては、生まれてこの方、初めて手に取る「貴重品=宝物」。そんな「珍品」を頂戴してきた次第であるからして、画像におさめた次第である。

 もう一つ、画像にしておいた理由がある。
この孟宗竹で「竹細工」を始めようか?いや、細工なんて「言葉」の使用は適確でなく、「竹の粗工」を始めようと試行錯誤中。どうやら「花瓶」にするか?いや、花瓶などありきたりであるからして、活花?差し花?の為?の、「お盆型なる花器」にできないか?
(いやはや情けなき冷や汗が出てくる。このジャンルの日本語語彙表現が解らない見当たらない・・・)

等々、
この画像一枚を、まず手にして「試行錯誤」開始したく撮影した。

「・・・?」

そう、、、
撮影時点では、全く気が付かなかったが「我家の愛犬」が、孟宗竹の「輪の中」を真剣な眼差しで覗いているではないか!我輩が庭に出るとき、一緒について部屋を出たのは知っていたが、この画像の中に納まっていること、全く気がつかなかった。なんだか、穴の中の野ウサギ等を追いかける習性本能を、思い起こしつつ、同じ孟宗竹を観察する目的が違うようにも思える。

ところで本日、木曜日。
小説「フォワイエ・ポウ」投稿日は、水曜と金曜日。
その間の木曜日は、そもそも記事投稿をお休みさせて頂く事にしている。でも、こうして「我が従者(ちびダックス)」が画像に収まったからには、ブログでご披露したくなってしまった・・・

さあ~、
四の五の御託を並べるのはここまで、、、。
ではまた明日、小説「フォワイエ・ポウ」の投稿に向け、準備に取り掛かることにしたい・・・

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長編小説「フォワイエ・ポウ」(掲載11回)「いよいよ3章へ・・・」

2006-03-15 12:47:10 | 連載長編小説『フォワイエ・ポウ』
    
      長編小説「フォワイエ・ポウ」3章

                   著:ジョージ青木

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1)第1回掲載「第1章」(メタリックレッドのロールスロイス)(2月9日)
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3)第3回掲載「1章」(クリームチーズ・クラッカー)(2月15日)
4)第4回掲載(2月17日)
5)第5回掲載:「1章」完(2月22日)
6)第6回掲載「2章」(安易な決断-1)(2月24日)
7)第7回掲載「2章」(安易な決断-2)(3月1日)
8)第8回連載「2章」(安易な決断-3)(3月3日)
9)第9回掲載「2章」(安易な決断-4)(3月8日)
10)第10回掲載「2章」(安易な決断-5)最終章(3月10日)


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3章

1(開店)

(1)

開店まで、いよいよ残り10日間ばかりとなっていた。
本田の頭の中に、何度も何度も押し寄せるてくる絶え間ない些細なためらいがあった。そのためらいは、開店予定日画近くなればなるほど大きくなる。大きくなったものは決して消え去ることなく、ためらいは苦悩に変化した。苦悩は、尚も続いていた。
「プロの広告代理店に依頼するか?それとも印刷屋に直接頼んでみるか?」
「必要枚数は? そうだな、約100枚もあれば十分なのだ」
「数万枚か数千枚であれば、話は別だ。しかしこの数量ならば、間違ってもプロに依頼する枚数でないことくらいは、分っている!」
「ウム、自分で作るか・・・」

迷いに迷ったあげく、飲み屋開店の案内状を作ったのは、ごくごく近い将来には、開店案内状に掲載される店のマスターになり、カウンターに立つ本田自身であった。
チラシの内容は、
『フォワイエ・ポウ・・・』
『新装開店です! 何月何日・・・』
『店の住所、開店と閉店の時間、祝祭日オープン、年中無休・・・』
などなど、単なる文字の羅列である。
なぜか、その文字の9割は英語。そのうちの数行は、まるっきり英文の文章もあった。
なにが?どう?書いてあるのか。
何しろ印字されたほとんどの活字が英文であるから、書いた本人しか理解できそうもない。どこからどう見たって、飲み屋の開店案内状としては、あまりふさわしくないチラシであった。が、見た目には、そしてデザイン的には、何とか見てくれの良い『チラシ』ができていた。大きさはA4、紙の色は、ライトブルー。印字の色は、グリーンである。本田の事務所のワープロで作成したものである。(昭和60年代、平成時代の始まる寸前の「業務用・大型ワープロ」を、読者に想像して頂きたい・・・)
チラシが完成した日の夕刻、かねてからチラシの完成を待ちわびていた本田の弟・譲治は、颯爽と本田の事務所に現れた。
出来たばかりのチラシを見た。
「これは!ウム・・・」
「このチラシは、どうも飲み屋のチラシと雰囲気が違うよなあ・・・」
譲治はいささか驚いた。
「ウム・・・」
心なしに、本田が答える。
「まず、英語が多すぎるな・・・」
確かに英語の活字が多かった。
「英語をカタカナで書くのは実に滑稽だ。広告として、バランス的に、すでに、カタカナのカタチそのものが古くさい!美的感覚から外れすぎている。だから、あっさり英語で書いて印字しただけだよ・・・」
本田にとっては常識であり、正統な理屈である。
「英語だけじゃないぜ、若干のフランス語もある・・・」
と、本田は付け加えた。
「ま、兄貴が作るのだからこうなるだろう。ま、どこからどう見たって飲み屋のチラシにはみえないし、ウム、まるで新規開店する輸入洋品雑貨屋か?いや、ブティックのチラシかなあ~」
「・・・」
あえて言葉を返さなかった無言のままの本田の口元は、珍しくも、久しぶりに微笑んでいた。

紙と印字の色バランス。バランスの取れた文字のレイアウト。デザイン的にはプロ並のセンスを持った本田の感性に、譲治は喜んで合格点をつけた。あらためて満足していた。ここまでくれば、互いにウンチクを言い合っている時間も無かった。内容は、もうどうでもよかった。人の気を引くもの、であり、見栄えがするもの、であり、内容は自分が説明すれば、全てが間にあった。だから、英語で書かれていようがフランス語だろうが、彼にとってはむしろ、『人の注意を喚起するもの』でありさえすれば、それで十分であった。
さっそくチラシを30枚ほど持ち、取り巻き連中に配ると約束し、喜び勇んで事務所を出た。30枚のチラシは、譲治の遊び仲間と取巻き連中に、しかも限られた知人にのみ配られた。それで目的は十分達成されていた。3日後、譲治から電話連絡が入る。譲治は最初に受け取ったチラシ全部を配りつくし、さらに追加の50枚を増刷してほしいと言ってきた。しかし、本田自身の手元のチラシは、ほとんどなくなっていなかった。
にわかに忙しくなった事務員の小林美智子は、単純な忙しさを喜んだ。譲治からの注文の連絡が入るたびに、そのつど、事務所のコピー器を使ってチラシのコピーをとる。
結果として開店日までに、約200枚のチラシが配られていた。
チラシ配りは、小林美智子も参加し協力していた。
本田が、自分自身の身体を張って始める「夜の商売参入」の発想そのものが、彼女にとっては不思議で興味深い出来事であった。
「なんだか面白い発想ですね・・・」
などと言いながら、
すでに事務員の小林も、10数枚のチラシを配っていた。
が、しかし、本田は違った。自分でデザインし工夫して創りあげたチラシを、自分で自分の客には持って回れなかった。

チラシが出来上がってから、少し本田の気分が変化した。やることなすこと、全てが気恥ずかしくなった。ここ数日、本田は消極的になっていた。
頭の中で、つぶやいていた。
(親しい知人には、こんなチラシは見せたくないし、まして店などに来て欲しくもない・・・)

夜の商売参入に、けっして迷いが生じて来たのではない。
最初の決断も早く、かなり前向きな姿勢で取り組み、気分はますます高揚していたにもかかわらず、いよいよ開店の段になって、さらに開店日が近くなればなるほど、本田の気分は沈んできた。
さらに自問自答した。
(カウンターの中で、ほんとうに自分が自分でやっていけるかどうか? 自分の自己流のやり方で客が満足するだろうか?満足しない客の方が多いはずだ。さあ、どうする、でも、すでにチラシで告知した開店日、いまさら中止はできんぞ・・・)
(開店日が、遅くなれば遅くなるだけ、伸びれば伸びるほど、ありがたい。もう2~3ヶ月くらい開店日が遅くなればいい・・・)
実際問題として、この段階になっての本田の気分は変わりに変わり、すでに180度の変化を来たしていた。自分が現場に立つ事そのものに、嫌悪感を持ち始めた。

  <・・続く・(次回掲載予定3月17日(金曜日)>

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<添付画像>
撮影場所:スペイン・バルセロナ市内、レストランのオブジェ
撮影日:1998年7月
撮影者:ジョージ青木

拝啓櫻井女史&ビルエモット殿:感想文「日はまた昇る」The Sun Also Rises

2006-03-14 11:54:00 | 教養・文化・歴史
数週間前に櫻井よしこ女史の著「何があっても大丈夫」を入手し読了した。同著、すでに我がブログ記事に取り上げた。それは、すなわち櫻井女史の学生時代の出来事の中、「歴史を学習(学問)」する、櫻井女史の見た「切り口」のあり方について触れた。その時、同時に入手し、すでに斜め読み済みの、英吉利「エコノミスト誌」編集長ビルエモット氏(Mr. Bill Emmott)の「日はまた昇る」について、手短に感想文を書いておきたい。
まずは、何故に手にしたか、その経緯から述べる。
数週間前の日曜日、パイプのオジサンこと竹村健一氏がレギュラー出演している朝の報道番組で、「べた褒め」していた「一冊」。是非、読んだ方が良い。読むべき一冊なり!と、我輩と本屋に同行した友人の推薦にて衝動買い的に入手。そして、購読する気になった。
「なんと、たわいもないこと。小さな一冊ではないか・・・」
そんな気分の衝動買いから始まった。
総量158ページ。文庫本を少し大きくした程度、マルボロ(煙草)の箱4ヶ分相当の小冊子。且つ、著作の内容は時事問題。新聞をまとめて読むつもりで、その日に読んだ。

そして、読後感、、、。
嗚呼、残念。
たわいもない不完全燃焼。
残るは、非?知的欲求不満。
などなど、
後味悪く、悪き後味を即座に直そうと、直ちに、櫻井よしこ女史著、女史の自伝半生を描いた「なにがあっても大丈夫」のページを開いた。

話戻って、ビルエモット氏のくだり、、、。
小冊子の割に、取り上げている中身は広く、恐ろしく浅く、触れるべき核心に触れているようで、全く触れられていない。
結果、読んでも読まなくても(少なくとも我輩には)何ら影響のない「平べったい本」!
ま、
竹村健一さんの著書も、この手合いが多い。
本を売らんが為!これ、パイプおじさん専門の「一大条件」にて。「一般人受け」する本ばかり書いているから、、、。もう、厭きた。厭きている、、、。でも、付け加えておくが、パイプオジサンの本は10数年前にわずか3~4冊、読んだ。が、いつも中途半端にて内容薄く、すべからく核心となるものは、皆無、、、。もう、パイプおじさんの本は他の平凡的自己啓発本の類いと一緒に、区民センター的(我が住まう)ご町内の集会所図書館に寄贈済。全て処分した。ま、「パイプおじさん」の薦める本、(実は、同・日曜日、竹村氏が本著を紹介する時点で、全くTVを見ていなかったのが間違いの根源であった・・・が、すでに後のまつり・・・)

日はまた昇る――日本のこれからの15年

草思社

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ビルエモット氏、、、
アングロサクソン人のジャーナリストに似合わず、奥歯にモノが絡んでモゴモゴと喋る書く(翻訳者が悪いのか?と、勘違いするくらい・・)、半端にして週刊誌的な本である。取り上げているテーマはバブル隆盛から崩壊まで、さらには、崩壊後から今日的問題まで、そして今後の15年間について、現代日本社会情勢を語っている。が、(たぶん)日本の新聞週刊誌TV報道を掻き集めて殴り書きした粗製濫造記事の羅列のみ、、、。
しかし、
きょうびの低俗偏見偏向TV局の作成する横一列?金太郎飴的な報道番組や、まともな神経を持ち合わせていない「新聞記者」の報ずる「安物記事」内容と比較対照すれば、かなり平常心にてサングラスをかけていない「あたり前」のモノの見方をしている。と、思って、さしつかえない。

さて、
締めくくりとして、本著の中から2点だけ抽出して、(私的な)意見を述べておかねばならない。(ここは一つ、流し読みしないで頂きたい!))

A)「靖国問題と歴史問題」が取り上げられている。彼の結論は、けっして三莫迦隣国寄りではなく、さりとて我国の「莫迦右翼的発言」でもない。が、消極的な発言をしている。要は、ヨーロッパの戦争歴史の現実的対応の歴史的事実と宗教思想を絡めた「例題」を出し、彼なりの私見を述べている。が、哀れかな、的が外れている。しかし、靖国問題と我国歴史認識と戦後処理の問題について、未知なる人物が新たに「このテーマ」の門戸を叩くとき、下手な日本人ジャーナリストの書いた「新聞&週刊誌的記事」の断片を積み上げるよりはよほどまし、、、。
しかし、氏は、やはり英国人。日本の歴史的背景の知識浅く、日本人の国民的遺伝子の特徴は到底理解に及ばない。だから、日和見的井戸端会議の傍観者風、三莫迦隣国に当たり障りのない意思薄弱児的平凡な論評に終わっている。

B)エコノミスト編集長の割には、経済問題の分析が、甘い。(一般受けを考慮し、敢えて専門性を避けるため、そうしたか?)加えて、的を外した記事にしている。なぜなら、彼は紛れもないアングロサクソン?(だと思うが、違うかもしれない)要するに、英国国籍保有者である。
ナナ、何と、その英国人にして、「日本円を基軸にした汎アジア経済」を語っている。つまり、中国経済の隆盛に対抗し、日本の優位性を継続維持するため、アセアン諸国をはじめとしたインドやパキスタンにまで及ぶ、"All Asian Countries"を包括した「日本円ベースの共通通貨」を如何に早く構築するか!21世紀、15年後の日本国の存在可能とするか、あるいは消滅に向かうか?は、実質的なアセアン諸国且つ広域アジアの経済的統合の中軸になれ!米ドル、ユーロに匹敵する、日本円基軸なるアジア共通通貨を構築するか否か?それに掛かっているというではないか!
我輩、この一点に関し、ビルエモット氏に最敬礼し且つ深く謝辞を述べたい。
氏は、解っている。日本円主導による「アジア共通通貨」の構築実現は、必ずや米国経済と中国経済に第三次世界大戦ぼっ発に匹敵するか、はたまた両国に対する核爆弾炸裂以上の(経済的・政治的な)大打撃を与えること、必定。日本人ジャーナリストや経済評論家が、触れたくてもさわれない??なぜか、触れようとしない?すなわち、21世紀の日本経済発展成長の「究極の論点」に触れてくれた。
これが、うれしい。
この一点、ビルエモット氏は、これを本著で言い切っている。何故、彼にして「云いきれる」のか。それは彼がヨーロッパ人あり、英国人であるからだ。彼は、英国人としての彼の立場は、やはりヨーロッパを中心としたエゴイズムから「全ての発想」が湧き出でている。日本の今以上の経済的台頭による支那経済振興への牽制と、米国経済(今尚強すぎる米ドルのユーロに対する悪しき影響力)への歯止めと圧力は、アジアに於ける日本円の隆盛による天秤的バランス感覚にて、日本円を応援しているに過ぎない。そして彼の背景には、英国の国益保持のエゴイズムとポリシーが潜んでいるのだ。しかし、それであたり前、英国人(世界に共通する)の常識なのだ。

以下、余談的、雑感として、、、
私論であるが、英国人が英国の一流政治経済週刊誌エコノミスト誌の記事を書き、(英文の)本誌に掲載する場合、必ずといって良いほど「英国人の、英国人のための、英国人にとって有利となる」記事掲載により、世界規模世論と英国内世論を動かすべく、記事を書く。しかし、偏っているとは云わない。伝統的に英国ジャーナリズムは、公平且つ冷静な記事を書くと付け加えておかねばならない。しかし、しかし、国際的ジャーナリストである前に、ジョン・ブルの気概と精神とエゴイズムが、その根底にとうとうと流れている。と、信じてやまない。

そして我輩、櫻井よしこ女史は、いまや日本の誇る超国際級レベルの経験と見識、真の良識的バランス感覚を備えられ、奥行きのある日本のエゴイズムを、勇気と自信を持って世間にさらけ出せる人。意思堅固にして、しなやかなジャーナリストである。と、絶賛する。
ならば、かのビルエモット氏分析による一冊に高き評価を加える以前に、日本人ジャーナリスト櫻井女史の「論評」に対し、ますますもって、しっかりと目見開き、冷静に耳を傾けたくなるのである。櫻井よしこ女史の半生を描いた著「何があっても大丈夫」は珠玉の一冊。上述した櫻井的論評は、如何なる基盤に立ち発信しうるか?見えてくる。そして、女史の発信なさる「論評」の包括的深遠さ、より一層吟味理解可能となる。「自伝・櫻井よしこの半生=何があっても大丈夫」に、もう一度目を通す。そして今週末?乃至は来週早々には、少し気合を入れた感想文を書きたい。と、思う、、、。

<あとがき>
*さて、ビルエモット著「百聞よりいっけんにしかず!」。良かろうと悪かろうと、有名になってしまった「氏の一冊」。今や、超ド田舎の本屋さんにも平積みされている。前評判の大きい映画も同じく、そうなのだ!まずは自身の目で確かめ観てみないと「程度は如何に?自分好みなのかどうか?」さっぱり解りません。

{The Attached Photo}:(Over 36 tall ships participated in the 200th anniversary of the Battle of Trafalgar in Portsmouth, part of the fleet of 167 naval, merchant and tall ships from 36 countries,,,
・・・「from wikipedia, Tall Ships」

上深川紀行 (3/3) 「竹炭製造現場にて」。。

2006-03-13 10:42:17 | つれずれ紀行
 初めて「竹炭」を見た。

普通の炭との違い? 何処が、どう違うのか?

普通の木炭。子供の頃に何度も見た。備長炭なるもの、実物も見ている。

普通の炭と、備長炭の違いは、見た目で判る。備長炭は、普通の木炭よりも炭の内部組織のきめの細かさが違うので、外観にて両物の違いは判る。さらに、先刻読者の方々全員ご承知のこと、つまり、備長炭の方が、火力効率及び消臭効果が高いと聞く。

・・・よく判る。

さて、ところで、竹炭はどうか?
これ、我輩には、よく理解できない、さっぱり訳が分からないのである。

不勉強且つ、僅かな見聞にて、ひとまず検証してみる。(本件、あらためてUT氏の講義を受ける事、約束取り付け済にて、その旨読者の方々には先に申し上げておく)
「・・・」
そう、だから、ですから、
無知無能は我輩の現状を、当記事にて先にさらけ出しておきたい。

まず、炭の木片が薄くて(割合)小さな断片である。
しかし、上記2種類の木炭よりも大いなる違いに気がついた。
それは、
炭の木片の表面も内部も「つや」がある。他の2種類の炭木片と比較して、一番大きな違いは、木片そのものの色艶に格段の差がある。と、観察した。

ここで、数日前(3月8日夜半)に開催された「同期生会」での友人仲間同士の雑談を思い出した。

A君(質問):「UT君は、閑に任せて?竹炭を作っているらしい・・」

B君(質問):「自分の敷地内に炭焼き釜を持っているのか?」

UT君(回答):「いや、そのような面倒なものは必要ない・・」

B君:「では、どのように竹炭を製造するのか?」

UT君:「・・・・・」

B+A君(意見と提案):「それはもったいない。焚き火同然の蒸焼きではないか!投入する貴重な竹炭の原材料(モウソウ竹)の3割以上が『只の灰』に帰する!何故そんなもったいない事をするか?」

UT君(回答):「いや、すでに自分は全ての要領が分かっているから、それで構わない・・・」

A+B君(提案):「ま、いずれにしても我々で竹炭を販売し、多少なりとも子遣い稼ぎをやろうではないか!」

UT君:「いや、もう、面倒なことは一切したくない。趣味で、必要な分量だけ作れば、それで十分・・・」

以上、全て、飲み会の席での会話、、。ま、こんなところで、竹炭会話は自然消滅した・・・  

さて、
この添付画像の話に戻ろう。
まず、
この写真撮影したのは我輩である。
この撮影時点で、友人UT氏に単純質問した。
「これ、一体何に使うのかい?」
「あ、庭でバーベキューをやったり、そんなときに使うのだ・・・」
「・・・?」
「オオ、それから一大目的があった。そう、鮎を釣ったとき、鮎を焼き上げるのに使う・・・」
「・・・」
「この竹炭を使うと、鮎が美味しく焼けるのだ!」
我輩、これ以上の「質問項目」と同時に、「返す言葉」がなかった・・・

そに気になって取組めば、三篠川の対岸にある3~4の「持山」の山中には、「松茸栽培」に適した場所がいくらでもある。と、云う。さらに本人曰く、一度本気で、「まつたけ栽培=経営=利益=追加資産蓄積」等々、考えたらしいが、結果、(金銭勘定が面倒だから?)止めた。と、云う、、、。
そして今、
彼の活動は、何か?
問うてみた・・・
「ウン、やっているよ。地域+ご近所の老人ホームのお年寄り達の為に、ホーム内での催し物の運営など、すでに(あるいは近い将来)老人ホーム入所のご家族達の色々なご相談にのっているのだ。結構それなりに喜んでもらっている。そんなお年寄り達のお喜びになるかをを拝見するのが一番の楽しみなのだ・・・」
(もちろん、彼は全てボランティアで動いている!)
「ムム、なるほど・・・」
我輩、納得。
(しかし、我輩のような俗人には、同年齢にてすでに仙人的境地に到達した人物の存在は、如何か?ある意味で困った存在。ある意味で、見習うべき貴重な存在である。が、そこで我が心境、その判断は複雑にて難解である・・)

UT君のパソコンも、何とか立ち直った。
ことのほか、喜んでくれた。
丸3日間彼の邸宅に通いつめた我輩も、うれしかった・・・
疲れた・・・
しかし、充実した疲れであった、、、。
(我輩も、ボランティアであるぞ!)

この我輩のボランティア活動は、しかし、大いなる収穫があった・・・

収穫とは!

 清らかな、懐深く、たおやかな、UT氏。そして彼の望むべき「人生の流れ」、此処に見た・・・


(我が旧友UT君の「生き方」に賞賛を贈っていただける方、いまだ俗世のアクが抜け切れていない我輩の未熟さにご同情下さる方、是非、以下のバーをクリック願いたい・・・)

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上深川紀行(2/3):「かぐや姫」の生れ故郷を往く・・

2006-03-12 21:21:35 | つれずれ紀行

 これら全ては『モウソウ竹』、圧巻なり!いずれも背丈高くて太いのだ!聞けば、彼の管理する竹林の広さ(面積)は、約1000坪程度の規模。YT氏のご先祖より現在まで、守り維持された『竹林』の真っ只中でシャッターを切った。画像前方やや右手が「三篠川」の位置となる。画像中には比較対照物がないので解りにくい。が、この種の竹の直径は(若干の大小あり)、約20センチ。高さは?そう、どう見ても20メーター以上ある。 いたるところ(それなりのポイント)に、直径5~60センチ、深さ2~30センチの穴がある。
「・・・?」
昼間の管理(もとい、只の周遊か?)をするUT氏になり代わり、夜になれば「プロの夜警」が徘徊し、その夜警が野生の「いのしし」なり。UT氏に代わって夜警をしつつ、竹の子(筍)を求めて穴を掘るらしい。イノシシの鼻先は頑丈で、鍬で以っても断ち切るのに厄介な「竹の地下茎」も何のその、、。地下茎もろとも掘り返して、こんな大穴を空ける。との事。
 竹と竹の林立する合い間(およそ1メーター乃至6~70センチ)には、網の目の如く竹の根、いや竹の地下茎が網羅されており、うっかりすると足を執られてしまいそうだが、かって知ったるUT氏。すたすたと難なく前進闊歩する。が、我輩はそうは行かない。平素はコンクリート舗装された(普通の)道路か歩道か、はたまた古きヨーロッパの石畳程度ならば、歩き慣れている。そんな訳で、竹林を闊歩するには、足元から目が話せないので、歩きながら周囲を見ていない。2~3分も歩けばすでに、自分の位置がわからなくなるくらいの懐深き竹林なのである。川の位置がわからなくなれば、もうおしまい。竹林の中で、完全な迷い子(いや、迷いオジサン)になってしまうが、そこはUT氏、そんな我輩の弱点を知り尽くし、ヴェテラン添乗員の如く、巧く我輩を目的の場所まで誘導する。

そんな不案内な環境の中、足元のぶっそうな場所を歩行すること約10数分。

ようやく目的地に着いた。

彼の「竹炭」製造現場である。

「・・・・?!」

この竹林を歩きつつ、思い出した。有名な昔話を・・・
「かぐや姫」の話しである。
そして、「かぐや姫」の存在を、信じた。
子供の頃、以前は、信じなかった。馬鹿にしていた、ただのおとぎ話であった。
なぜか?
信じない訳には、子供心にも、それなりの理由があった。
まず、竹から生まれた。とする、かぐや姫の大きさは、(子供心に)おおよそテニスボールからソフトボールの大きさであると想像していた。まさか、ピンポン球か?それ以下の「ラムネ玉?」程度の大きさとは、思っていなかった。と、なると、テニスボールやソフトボールの大きさの「かぐや姫の赤子」が入る、入れる直径を持った竹など、我が幼少の折、そんな大きさの竹など見た経験がなかったのである。
しかし、この竹林で、見た竹は、どの竹にも「かぐや姫」の存在可能な直径を持つ竹ばかりなのである。
参った、参った、、、。

 <・・続く・・>


(さらに、UT氏の竹炭製作現場を見てみたい・・・)


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PS:
 竹林の中、足元には網の目のような竹の地下茎が網羅されている様子を見て、思った。大田川本流の川沿いには、それなりに大きな規模の竹林が散乱する風景を、子供時代によく目にしていたこと、思い出す。
そして今、理屈がわかった。この川沿いに林立する竹林のなかの土壌には、網の目のような地下茎が蔓延り、それが自然の土嚢となって水害から川沿いの畑や人家を守っていたに違いない、と思い出した。思い始めた。いや、何かの書物にて、そう紹介されていること、思い出した。無駄な護岸工事による、川土手の竹林を伐採するは、自然破壊であり、いざというときには、水害の被害を拡大することになる。これ、さらなる自然破壊なり・・・
日本の自然と、気候風土に適応し適度に繁茂する竹。しかし、いざ、住宅宅地造成となると、頑固な地下茎を持つ竹林は、宅地条件としては最悪。以って、邪魔者扱いにされているらしく、安易に伐採せず、邪魔者扱いせず、守らねばならないのではないか?

* ウイキペディア百科事典による詳細説明:『タケ(竹)』は、こちらから参照できます。是非ご一読下さい!