昨日に引き続き、本日もまた旧友UT氏からの贈り物「吊るし雛の写真」を記事にした。なぜなら、吊るし雛は「左右対」にて飾り付けるものであること。そしてUT氏は紛れもなく、2枚の「吊るし雛写真」を贈ってくれたのである。
そして一年経過した今、その理由が解ったから「うれしくて、うれしくて」たまらない。
あらためてUT氏に感謝!
加えて、「ウイキペディア百科事典・日本語版」に、感謝・・・
ブログを手がけてから、ようやく一年と一ヶ月が経過する。
そして今、新しい発見がある。
ブログを通してることのできた友や先輩、これ、我輩の大きな財産と成りつつある。
仕事の忙しさにかまけ、且つ、遊びに興じた時間はあったものの、日本の歴史、伝統や文化、日本の美を探求する「心根」に不足を生じつつ、不足に不足を加え、年齢のみ重ねてきた我輩の「内なる心境」、多いに恥じるものである。
想えば、恥ずかしい、情けない、、、。
しかし、ブログを通じ、旧友とのEメール交信を通して、一年間。自分自身ようやく、日本の伝統的美しさに「開眼」し、正しき歴史の認識の必要性を感じ、そんなこんな、あらためて自分自身の好奇心を髣髴させている。
多くの友に啓発された・・・
尊敬し敬愛する諸先輩に「我が背中」を押され、躊躇し立ち止まっている我輩の足、その一歩を踏み出させていただいた。
そう、
もう一度云おう。
未だ見えない人生の先を、踏み出させていただき「前進」させられた・・・
こんな友やそんな友による「相互誘発」、さらには能動的な「自己啓発」、そして諸先輩に教わることのありがたさを感じつつ、なぜか本日、感謝しつつ楽しい、そして、うれしいのである・・・
〆て、
新旧の『友』に、感謝!
『諸先輩』に、あらたなる敬意、敬礼!
「互いの友」に対し、感謝と敬意の気持ちをお持ちの方々、
右記、「緑色バー」をクリック願いたい!(人気ブログランキング)
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<添付参考資料>
(ウイキペディアより、引用)
雛祭り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(ひなまつり から転送)
移動: ナビゲーション, 検索
雛飾り雛祭り(ひなまつり)は女の子の成長を祈る年中行事。日本の太陰太陽暦たとえば明治6年の改暦前では旧暦の3月3日の桃の節句(上巳)に行われていたが現在はグレゴリオ暦(新暦)の3月3日に行なわれている。
男雛と女雛を中心とする雛人形を飾り、桃の花を飾って、白酒を飲む。生まれた女の子が健康に成長し、幸せに結婚できるようにと祈る。関東と関西では男雛と女雛の位置が逆である。(なお、本来「内裏雛」は雛人形のうち男雛と女雛の対を指すが、男雛を「お内裏様」、女雛を「お雛様」と呼ぶ誤用は一般化している。)
雛人形は、宮中の貴族の格好をしている。男雛、女雛の二人だけでなく、右大臣と左大臣や、三人の侍女(三人官女)、お囃子を奏でる五人の男の子(五人囃子)、さらにはお囃子に使う楽器や、家財道具と牛車などの嫁入り道具を一緒に飾ることもある。江戸・東京では写真にあるような七段、八段の檀飾りを行うが、戦前まで京都や関西の一部では御殿式の家屋の中に男雛・女雛を飾り、その前の階段や庭に三人官女や五人囃子らを並べ、横に嫁入り衣装やかまどなど台所のミニチュアなどを並べていた。
3月3日が過ぎた後も雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという俗説がある。
この日に食べられるものに菱餅、雛あられ、地方によっては蛤や、飲まれるものとして白酒がある。
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雛人形の歴史
雛人形の起源のひとつは、中国の流し雛(代わり雛)にあると言われている。これは霊力があるとされる呪具であった。それで、人形にその年の災いや穢れを移し、本人の代わりに川に流す風習で、これが江戸時代に女の子の人形遊びなどと結びついて、女の子の幸せを祈る場に飾られるようになった。江戸時代初期は形代の名残を残す立った形の立ち雛や、坐った形の坐り雛(寛永雛)が作られていたが、これらは男女の人形を飾るだけの物であった。その後時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単を着た元禄雛、大型の享保雛などが作られたが、これらも金屏風の前に男女の人形を並べるだけのものだった。この享保年間、消費を規制するため一時的に大型の雛人形が規制されたが、この規制を逆手にとって、芥子雛とよばれる数センチの大きさの精巧を極めた雛人形が流行することになる。江戸時代後期には有職雛とよばれる宮中の衣装を正確に再現したものがあらわれ、さらに今日の雛人形につながる古今雛が現れた。この後、江戸末期から明治にかけて雛飾りは二人だけの人形から、嫁入り道具や台所の再現、二人につき従う従者たちや小道具、御殿や檀飾りなど急速にセットが大きくなってゆく。
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内裏雛の左右
内裏雛は内裏の宮中の並び方を模している。中国の唐、日本では昔は左が上位であった。左大臣(雛では髭のある年取った方)が一番の上位で天皇が見ての左側(我々の向かって右)にいる。したがって「左近の桜、右近の橘」の桜は天皇の左側である。これは宮中紫宸殿に実際に植えてあるので動かせない。昭和天皇は何時も右に立ったが香淳皇后が左に立つのは皇后のほうが位が高いことで矛盾である。実は明治天皇までは左が高位という伝統で左に立った。ところが明治の文明開化で日本も洋化しその後に最初の即位式を挙げた大正天皇は西洋式に右に立った。それが皇室の伝統になり、それを真似て東京では男雛を右(向かって左)に置く家が多くなった。ところが京都では伝統を重んじて向かって右に置く家が多い。社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、男雛を向かって左に置くのを現代式、右に置くのを古式としどちらでも良いとしている。
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関連項目
吊るし飾り
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吊るし飾り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
吊るし飾り(つるしかざり)は伝統工芸の一種。雛祭りの際に、糸の先に布製の人形などを吊るしてひな人形とともに飾る。 インテリアとして、折り紙やビーズを糸の先につけて飾った物を吊るし飾りと呼ぶ場合もある。
九州柳川地区のさげもん、伊豆稲取地区の雛のつるし飾り、山形酒田地区の笠福は日本三大手芸と呼ばれている。
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さげもん
柳川地区でひな祭りに飾られる装飾。『さげもん』、『さがりもの』と呼ばれる。 旧暦3月1日から4月3日にかけて『さげもんめぐり』が開催され、各戸に飾られる。
竹ひごに縮緬を巻いて作った輪に糸を七本掛け、各々に七個(計四十九個)布製の人形を吊るし、中央に柳川鞠を二個配したものを二組一セットとして雛壇の両側に飾る。 小型の物は、糸五本、人形二十五体(5*5体)、鞠一個が標準となっている。
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雛のつるし飾り
伊豆稲取地区でひな祭りに飾られる装飾。『雛のつるし飾り』、『吊るし』と呼ばれる。 ひな人形の代わりに手作りの人形を飾ったのがはじまりとされている。 雛のつるし飾りは、娘の成人後にどんど焼きにくべる習慣があったため、古い物は残っておらず、最古の物は100年程度前の物と言われている。 戦後、一時期廃れたが、平成に入って稲取婦人会が中心となって復興した。
竹ひごに縮緬を巻いて作った輪に糸を五本掛け、各々に十一個(計五十五個)布製の人形を吊るしたものを二組一セットとして雛壇の両側に飾る。k
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笠福
酒田地区でひな祭りに飾られる装飾。『笠福』、『傘福』と呼ばれる。
傘の内側に天幕を張り、親骨に紐をかけ先端に布製の人形を吊るす。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8A%E3%82%8B%E3%81%97%E9%A3%BE%E3%82%8A" より作成
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そして今、新しい発見がある。
ブログを通してることのできた友や先輩、これ、我輩の大きな財産と成りつつある。
仕事の忙しさにかまけ、且つ、遊びに興じた時間はあったものの、日本の歴史、伝統や文化、日本の美を探求する「心根」に不足を生じつつ、不足に不足を加え、年齢のみ重ねてきた我輩の「内なる心境」、多いに恥じるものである。
想えば、恥ずかしい、情けない、、、。
しかし、ブログを通じ、旧友とのEメール交信を通して、一年間。自分自身ようやく、日本の伝統的美しさに「開眼」し、正しき歴史の認識の必要性を感じ、そんなこんな、あらためて自分自身の好奇心を髣髴させている。
多くの友に啓発された・・・
尊敬し敬愛する諸先輩に「我が背中」を押され、躊躇し立ち止まっている我輩の足、その一歩を踏み出させていただいた。
そう、
もう一度云おう。
未だ見えない人生の先を、踏み出させていただき「前進」させられた・・・
こんな友やそんな友による「相互誘発」、さらには能動的な「自己啓発」、そして諸先輩に教わることのありがたさを感じつつ、なぜか本日、感謝しつつ楽しい、そして、うれしいのである・・・
〆て、
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(ウイキペディアより、引用)
雛祭り
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雛飾り雛祭り(ひなまつり)は女の子の成長を祈る年中行事。日本の太陰太陽暦たとえば明治6年の改暦前では旧暦の3月3日の桃の節句(上巳)に行われていたが現在はグレゴリオ暦(新暦)の3月3日に行なわれている。
男雛と女雛を中心とする雛人形を飾り、桃の花を飾って、白酒を飲む。生まれた女の子が健康に成長し、幸せに結婚できるようにと祈る。関東と関西では男雛と女雛の位置が逆である。(なお、本来「内裏雛」は雛人形のうち男雛と女雛の対を指すが、男雛を「お内裏様」、女雛を「お雛様」と呼ぶ誤用は一般化している。)
雛人形は、宮中の貴族の格好をしている。男雛、女雛の二人だけでなく、右大臣と左大臣や、三人の侍女(三人官女)、お囃子を奏でる五人の男の子(五人囃子)、さらにはお囃子に使う楽器や、家財道具と牛車などの嫁入り道具を一緒に飾ることもある。江戸・東京では写真にあるような七段、八段の檀飾りを行うが、戦前まで京都や関西の一部では御殿式の家屋の中に男雛・女雛を飾り、その前の階段や庭に三人官女や五人囃子らを並べ、横に嫁入り衣装やかまどなど台所のミニチュアなどを並べていた。
3月3日が過ぎた後も雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという俗説がある。
この日に食べられるものに菱餅、雛あられ、地方によっては蛤や、飲まれるものとして白酒がある。
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雛人形の歴史
雛人形の起源のひとつは、中国の流し雛(代わり雛)にあると言われている。これは霊力があるとされる呪具であった。それで、人形にその年の災いや穢れを移し、本人の代わりに川に流す風習で、これが江戸時代に女の子の人形遊びなどと結びついて、女の子の幸せを祈る場に飾られるようになった。江戸時代初期は形代の名残を残す立った形の立ち雛や、坐った形の坐り雛(寛永雛)が作られていたが、これらは男女の人形を飾るだけの物であった。その後時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単を着た元禄雛、大型の享保雛などが作られたが、これらも金屏風の前に男女の人形を並べるだけのものだった。この享保年間、消費を規制するため一時的に大型の雛人形が規制されたが、この規制を逆手にとって、芥子雛とよばれる数センチの大きさの精巧を極めた雛人形が流行することになる。江戸時代後期には有職雛とよばれる宮中の衣装を正確に再現したものがあらわれ、さらに今日の雛人形につながる古今雛が現れた。この後、江戸末期から明治にかけて雛飾りは二人だけの人形から、嫁入り道具や台所の再現、二人につき従う従者たちや小道具、御殿や檀飾りなど急速にセットが大きくなってゆく。
[編集]
内裏雛の左右
内裏雛は内裏の宮中の並び方を模している。中国の唐、日本では昔は左が上位であった。左大臣(雛では髭のある年取った方)が一番の上位で天皇が見ての左側(我々の向かって右)にいる。したがって「左近の桜、右近の橘」の桜は天皇の左側である。これは宮中紫宸殿に実際に植えてあるので動かせない。昭和天皇は何時も右に立ったが香淳皇后が左に立つのは皇后のほうが位が高いことで矛盾である。実は明治天皇までは左が高位という伝統で左に立った。ところが明治の文明開化で日本も洋化しその後に最初の即位式を挙げた大正天皇は西洋式に右に立った。それが皇室の伝統になり、それを真似て東京では男雛を右(向かって左)に置く家が多くなった。ところが京都では伝統を重んじて向かって右に置く家が多い。社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、男雛を向かって左に置くのを現代式、右に置くのを古式としどちらでも良いとしている。
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関連項目
吊るし飾り
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吊るし飾り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
吊るし飾り(つるしかざり)は伝統工芸の一種。雛祭りの際に、糸の先に布製の人形などを吊るしてひな人形とともに飾る。 インテリアとして、折り紙やビーズを糸の先につけて飾った物を吊るし飾りと呼ぶ場合もある。
九州柳川地区のさげもん、伊豆稲取地区の雛のつるし飾り、山形酒田地区の笠福は日本三大手芸と呼ばれている。
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さげもん
柳川地区でひな祭りに飾られる装飾。『さげもん』、『さがりもの』と呼ばれる。 旧暦3月1日から4月3日にかけて『さげもんめぐり』が開催され、各戸に飾られる。
竹ひごに縮緬を巻いて作った輪に糸を七本掛け、各々に七個(計四十九個)布製の人形を吊るし、中央に柳川鞠を二個配したものを二組一セットとして雛壇の両側に飾る。 小型の物は、糸五本、人形二十五体(5*5体)、鞠一個が標準となっている。
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雛のつるし飾り
伊豆稲取地区でひな祭りに飾られる装飾。『雛のつるし飾り』、『吊るし』と呼ばれる。 ひな人形の代わりに手作りの人形を飾ったのがはじまりとされている。 雛のつるし飾りは、娘の成人後にどんど焼きにくべる習慣があったため、古い物は残っておらず、最古の物は100年程度前の物と言われている。 戦後、一時期廃れたが、平成に入って稲取婦人会が中心となって復興した。
竹ひごに縮緬を巻いて作った輪に糸を五本掛け、各々に十一個(計五十五個)布製の人形を吊るしたものを二組一セットとして雛壇の両側に飾る。k
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笠福
酒田地区でひな祭りに飾られる装飾。『笠福』、『傘福』と呼ばれる。
傘の内側に天幕を張り、親骨に紐をかけ先端に布製の人形を吊るす。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8A%E3%82%8B%E3%81%97%E9%A3%BE%E3%82%8A" より作成
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