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絵画鑑賞記「第55回光陽展・広島展」(12)

2007-07-10 16:45:45 | 怒素人的美術蘊蓄録
<添付画像>:第55回光陽会出展作品、『壁』・・


<作品の紹介>

作品番号: 77
作者氏名: 國 井 清 春 (会友)
作品題名: 『壁』 (出展目録カタログには『暦』となっているけれど、記録画像をよく観れば、やはり題目は「壁」である・・・)
住  所:   岐 阜



 この建造物は、たぶん古い街並みの片隅に佇む土倉であろう。

 崩れかけた土壁に、容赦なく照りつけるは、たぶん夕日であろう。

 空にたなびく群雲から察するに、時節はたぶん、秋であろう。 晩秋の遅い午後、夕暮れ前の日光照射は意外と強く、色彩は赤みをおびているから、いやがうえにも古き土壁の色や地肌を強調してやまず、絵画として切り取るには絶好の物体か。 これ、写真芸術的表現をすれば、絶好の被写体である、、、。

 なぜか最近、こういう切り口の「風情」に視線移って仕方ない、、、。

 年齢のせいだろうか?

 忘れ去られ、失いかけていく、日本独特の建造物や町並みに郷愁を感じて止まないのである。

 我輩の生まれ育った広島旧市内の中心地は、かの1945年8月6日?の原爆投下により99%の町並みを焼失破壊された。 先日、我家の倉庫を整理していたら、小学校1年生の時の成績表やテストペーパー、加えて「懐かしき古美術的貴重品」見つかった。 古美術的価値のソレとは、戦後10年と経たぬ頃、クレヨンを使って描いた我輩幼少の折の「名画」数点、出てきたから懐かしかった。 ガキの頃に描いている絵画対象物は、(我輩の場合、たぶん特殊にて)そのほとんどが「乗り物」。 進駐軍のジープ。 当時、実際に街中を走っているはずもない流線型の乗用車、あろうはずもない真紅の大型流線型バス。 空にかもめ飛ぶ海の彼方を往く超豪華客船。 新型ロケットや、ジェット機。 はたまた各種軍艦等々。 これら全て、たぶん当時の絵本から想像し、描いたものに違いないけれど、それにしても独創的な色彩やスタイルをした夢物語的乗り物ばかりである。

 そんな超過去の思い出を、思い出させる自筆絵画の中、わずか画面の片隅に遠慮しがちに描いている「家屋の絵」入っている一枚の絵画あった。 しかし、残念ながら「タダのホッタテ小屋」なのであり、威風堂々質実剛健の格調を漂わせる典型的日本家屋ではないのである。 たぶん、焼け野原となった当時の広島市内には、幼き!科学者志向?少年の目に映る「まともな家屋」は一軒も存在せず、市内のほとんどの家屋は崩壊し、その後に建てた即席家屋しか目の当たりにしていない証であること、逆に推察した次第である。
 
 この絵画「壁」に描かれている風情や風景に出会えるのは、それから10数年経た昭和30年代の後半になるか。 父の転勤と共に転校した山口県柳井市の「オカノウエ」。 山陽本線柳井駅北口へ降り立ち、柳井の旧市内に入れば乗用車すら通れない細き迷路(に見えた)の町並みには、江戸時代から伝わる古き商家や民家あり。 今こうしてこの絵画を拝見すれば、当時の柳井市内の町並みも合わせ瞼に浮かんでくる。 そう、作家のご出身は岐阜。 岐阜は一度も訪れたことない。 かくして岐阜にも、多くの古き街並み存在するか? 

 そして今、こういう土倉や古い建物に関し、若き頃に経験していない「欠かすべからざる体験」を、この年齢になって体験したくなり、目下のところ「宮島の町並みを守る会」の研修会に参加している次第なり、、、。 加えて記すべきは、現役時代、いかにも日本中を徘徊することなく、逆に海外旅行や外国長期滞在の連続にて、本来、日本人として心得ておかねばならぬ「和の美」はたまた「侘び寂び」の世界から遠隔の挙動や体験を連ねつつ、今頃になって日本人的感性の「格調」や「浪漫」に郷愁を覚えつつ、少しばかり触れたくなったのである・・・


  <・続く・・


* 連載中「第55回・光陽展」出展絵画鑑賞感想記事の(前回掲載記事)は、こちらから戻れます・・

* 「光陽会」公式ホームページは、こちらから・・