Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

志すは21世紀的ドンキホーテ?
はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

執筆と創作について一考(回想)・・・

2006-09-25 05:16:10 | 趣味の話&本と雑学メモ
 このところ、
    ブログを「書く」作業。いささか自己嫌悪?の感あり・・・
 「・・・?」
 「これではいけない!」
と、思い、試行錯誤しつつもこの一年間を振り返り、反省を含めて「過去記事」を読み返してみた。
 
 以下、昨年5月、書く面白みに目覚めた「某女性メル友」に宛てた長文メールを転載公開する。かくして添付のメールは、不肖エセ男爵の文章創作がらみの苦悩と、「文章を書く作業」そのもの「歴史」をご披露するものであり、飴風呂記事より抜粋し、恥ずかしながら再掲載する。

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2005-02-17
回想と進展
某・私信(メール)より、
(2005/01/中旬・発信)

YTさま

 「多忙」とは、何を意味しての多忙なのか?
 などと、突き詰めて考えていけば特に私の場合、けっして多忙ではありません。
 ただ、オーベルジュの3ヶ月間は多忙でした。
 なぜなら、拘束時間が長い上、自分で時間をコントロールできていなかったという意味からです。
 また、お休みの日も2回に1回は東京に出張。以前の会社の先輩や友人の会社のよろず相談、出版社の社長との会合など、前もってアポを「組み立て」、ミーティングのスケジュールで一杯でした。
 くわえて、上記の延長線上に「酒の席」が付加するからこれまた重労働です。
 しかし、東京に出向けば「オーベルジュ」のワンパターン的時間拘束から外れ、私の本来の動きで十分な対応が出来るわけですから「多忙」とは感じない動きでして、「良い疲れ」を生じさせる能動的な「正しい行動」なのです。
 福岡出張も、上記のパターンでした。

さて、この3年間、私は可能な限りビジネス面での「多忙さ」を回避するよう時間を組み立てており、平均して3時間(労働)を心がけています。その代わり平均時間にして約4時間、「読書」と「執筆」に割く時間を如何にして捻出するか?に、苦心しています。この2つをあわせて約7時間労働、ということになります。
本来、読書嫌いではなかったと思いますが読書に割り当てる時間をあまりにも無視してきた悪弊(思い込み的記憶か?)があります。
 とにかく、
 「読書に割り振る時間がもったいない・・・」
 「読書している閑などあればその間に、一人でも一件でも多くのクライアントにお会いし、営業活動に時間を充てなければならない!」
 出来るだけ多くの人に会い、情報交換や仕事の打合せの時間がほしい。と、真剣に思い行動しながら四十代の半ばまで過してきたのです。加えて、活字に目を通すという意味では、(当時の物理的キャパとして)
「それでも自分は十分に、活字に触れていた!」
と、勘違いしている状況下にありました。つまり、会社(特に大企業)組織にいれば(すなわち企業人であった現役時代)、明けても暮れても毎日毎日、特に管理職になってからは、机の上は書類の山積み状態なのです。稟議書や社内通達、公館庁や航空会社その他関連産業からの通達書類社案内パンフ等など、それはまるで洪水か?はたまた津波?のごとく、半日そこいらでは目を通しきれないばかりの膨大な文章に、必ず目を通さなければならない状況下にありました。流し読み状態がほとんどで、実際には読んでいなく、読んでいると勘違いしていたのですが、、、。
 さらに、文章作成について、
 学生時代から始まり(卒業後)企業に所属。曲がりなりにも管理職になるまで、文章作成に関して何をどうしていたのか?あらためて思い起こしてみました。

 作成していた文章は確かに存在。そしてその内容とは、

 * 大使館宛の英文作成。=クライアントの査証取得のための英文経歴書はたまた英文推薦文章、等など。

 * 外務省宛の公式文章。=旅券早期取得申請書を外務大臣あてに作成する(やや定型文章)等お役所宛の関連文章くらいか。

 * 後半は広告宣伝用の短い文章?=旅行のパンフレットに掲載する文面くらいを書くだけで、本来の文書らしきものは書いたことがなかった。

 * 管理職になってからは、社内稟議書。=これまた定型文章であるけれど、自分の意志を上司に伝える為、自分の企画した少プロジェクトを実行に移せるよう、必要経費の予算枠を獲得する為、当時はそれなりの工夫をして、必死になって「説得力ある名文(迷?文章)」作成に日夜励んだものです。

 あらためて文章を書き始めたのは、脱サラ後。独立したのち、企画するイヴェントや企業の新規プロジェクト提案のための「企画書・提案書」を創作し始めてたのが切っ掛けで、ようやく自分の文章を書かなければならなくなったのです。
 当時、ようやくパソコンを導入する時代になる。それ以前、(ワープロはすでに20年前から導入していたのですが)全ての作成文章は手書きでして、辞書を片手に苦労しつつ(今と比較すれば)膨大なる時間をかけて、文章作成に挑んだものです。
 今にして思えば「手書きの文章を書く」作業とは面倒で面倒で、今やろうとなれば、もうお手上げ。手書きで漢字が書けなくなっているから、もう手書きは不可能。考えただけでそら恐ろしくなりますが、当時はそれを実行していたのです。
 しかし今、こうして書けば書くだけ、さらに書こうと思えば思うだけ、ますます「自分で納得できるレベルの文章」は、なぜか書けなくなっているのです。
 理由は、自己の文章力に関する劣等感と不信感です。文章を書く基礎が出来ていない。と、考え、悩む?からだと思うのです。
 
 開き直れば、しかし、美文でなければ書ける。

 「もとより文才のない自分には、『美文』は書けない。美文を書こうと思うから書けないないのだ・・・」

と、開き直れば、「自分の意志を他人様に疎通可能な文章?」は、何とか書けるようになりました。

 合わせて近年(約10数年前から)、現役時代(企業人という意味)に比較して(一人で行動していると)、あまりにも情報源に乏し環境にいることに気付き、『情報量のパイ』が、あまりにも小さいことに猛烈な恐怖感を持ち始めたのです。
「すでに、時代に取り残されるのではないか?」と、、、。
(現在は少し違いますが、、、)
 そこでいろいろ考えた結果、思いついたことは何か?
 本屋さんに走り本を買い求め、猛烈に読書がしたくなり、自分の専門分野?の「新本」などなど、手当たり次第に読みまくったのです。
 しかし逆に、新聞や週刊誌を読まなくなりました。
 読んでみても、情報のぶつ切りであり記事を書く編集者あるいは記者の「情報と知識の貧弱さ」が、認識できるのみで、ほとんど役に立たない読み物であると解りました。
 その代わり、(先輩の薦めもあって)タイム誌を定期購読を始め、すでに15年になります。
 タイム誌の記事について、一言。
 これは情報の収集という意味でも、情報の整理という意味でも、先を見通すという意味でもたいへん重要な定期刊行物であると認識しています。タイム誌の記者連中は、平べったい日本人新聞雑誌記者やTV取材陣とは大きく違います。自分で取材し自分で記事を書き、きちんと自分の意見見解を述べ、記事に対する責任を持って「レベルの高い」文章と、写真(=写真もすばらしいですよ)を競って投稿し、それを毎週続けている。世界中の「英文もの書き」プロ集団の「文章」を(十二分に)読めて且つ、的確な時代の流れを掌握できると思うからです。これ、あくまでも比較対照的な発想でして、その比較の対象はあくまでも、我国特有の金太郎飴的な三流新聞記事や紙芝居的TVニュースです。
 欧米と比べ、あまりにも貧弱な日本のマスコミの取材能力と、取材陣の体制に流される「無能さ」に辟易しています。(ま、コレこの問題にはこれ以上触れないようにします)
 私の専門は英文学でもなく語学専門ではありません。しかし、タイム誌を読み続けているおかげで、このところようやく英語がわかるようになって来ました。英語でビジネス契約文章、英語で自分の意志を疎通できる文章が書けるかな~?と、ようやく思えるようになりました。
 しかし、英文の組み立てと、日本語の文章の組み立てと、全く「構造」が違う。 ですから、英語を読む、英語の文章を書く、と、日本語の文章が書き辛くなります。が、これ、言訳です。まだまだ修行が足りない証拠です。明治の文豪「森鴎外」かはたまた「夏目漱石」か、当時の皆さん、英語も漢文も出来た人達が、日本語で小説を書いていた時代があるのです。映画「ラストサムライ」の脚本の基礎となった新渡戸稲造先生の著作「武士道」も、当時の英文で書かれており、小冊子ですが、なかなか中身の濃い立派な「英文著書」です。当時(100年前)の英文の中、日本の伝統的な思想(武士道という狭義の意で)を、欧米人の知識人層に説き紹介するため、聖書から始まり、ヨーロッパ中世の騎士道、さらには近代西欧思想との比較引用され、日本の武士道を比較説明している論文文章構成には「驚愕」の限りです。
 そうです。
 当時の西欧人にとって(日本文化を全く知らない)、若し、比較対照可能な「西欧思想と文化」の引用と解釈が皆無なら、この「武士道」の英文著作は繰り返し読んでも読んでも解釈不可能意味不明であり、当時の西欧知識人から無視された。に、違いありません。新渡戸博士は見事に「比較対照」を引用され、難しいながらも理解可能の門戸を開かれたわけでして、いつ?年齢、幾つの時から?何処で何処から?そんな見識を重ねる時間があったか?実際、新渡戸博士は農学の研究で若くから渡米され、何時からか解りませんが(確か)キリスト教徒になられ、アメリカ人女性と結婚された。そういうバックグラウンドがあったにせよ、尋常ではない。即座に比較対照がこのレベルにいかないまでも、こうして思えば、自分自身がいかに怠け者であるか、もう一回生まれなおし二度人生を繰り返しても追いつけないほどに学問をやってらっしゃる、等と考えると、あらためて往時の日本人知識人に敬意と尊敬の念を抱くのです。
 まず、自分の意見を書くこと、人様に理解可能な文章を書くことは大切であり、たいへん難易度の高い所業なのです。

 もう一度、私の実態に戻ります。
 英語は、まず読めないと書けない。多くの英文を読みこなし、ようやく書けるようになったのです。頭の片隅に残っている「どこかで読んだ英文」の語彙や言い回しの組み合わせを引用しながら書いているのは事実です。
 ですから、
 日本語も、そうしなければならないと痛感してまして、最近になって「コレだ!」と思う著者の「近代文学」を読み始め、本来中学生時代高校生時代に済ませておかなくてはならないこと、今になってやっているようなテイタラクなのです。がしかし、残念かな若き頃に読んでないわけで、ひと歳取った今、初老に差し掛かった歳になっても、尚、それでも、まず、読まなくてはコトが始まりません。読むことに、ようやく飢えて来たのです。
 そんなわけでして、
 確かこの3~4年、猛烈に読書を重ねていますが、オーベルジュにいた期間、それが出来なかった。
 しかし逆に考えれば、(一度メールで触れていますが)Field-Workができて、たいへん満足してます。
 今改めて必要な「フィールドワーク」が出来るなら、3ヶ月間の読書を中断してもやぶさかでなく、むしろ読書を中断してでも「やりたかった」内容でして、差引勘定はプラスであったと判断しています。

 その点、「書くことが好きです!」と宣言したYTさんに、あらためて拍手を送ります。

 今からも、おおいに書いてください。
 書くこと、(あなたは)お上手です。たいへん面白く読ませて頂いてます。
 私で差し支えなければ、どんどん読ませていただきますから、多忙に感じるくらい、とことん書いてみてください。

<「完」以下、8行省略・・>

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<添付画像>"The Remains of the Day" written by Mr. Ishiguro.