今は亡き母の思い出。
私が小学生のころだろうか、縁日か何かで掬ってきた小さなやせ細った金魚を飼っていた。それがたまたま大きく育って体長15センチ以上にまでなった。勿論水の入れ換えや苔とりは私の担当だった。何匹か金魚がいたがその「赤」と名づけた金魚は私の自慢だった。
水を換えたあとは金魚の姿がよく見えて嬉しかった。何時間見ていても飽きない。ある時、塩素中和剤が少ししかないのに少し急いだのか、早めに金魚たちを水槽に戻してしまったところ、「赤」だけが苦しそうに体を傾げてバランスが取れなくなってしまった。
私は慌てた。慌てたがどうしていいか分からなかった。そこで母に金魚の急を知らせた。少年の私には重大事件だったのだ。母は忙しそうに仕事をしていたが、私の訴えを聞くと直ぐにベランダにやってきてくれた。
様子を見てとるや水槽に手を入れて「赤」を静かに、そおっと正常な態勢に起こした。造船所のドックに入った船のように「赤」はひっそりと静かだった。母は魚体に触れるか触れないかの形で両手のひらで金魚をキープし続けた。母は時折両手を僅かだけ広げて「赤」の様子を見ては30分以上それをやめなかった。
凄い!「赤」は見事に立ち直った。
自分も母の前に同じようなことをやってみていたのだが、手を離せばフワ~っと横倒しになってしまう。何度やっても同じことだった。手に負えないと思った。同じ事をやっても母の場合は「思い」が違ったのだろうか。
このあと何年も「赤」は生き、産卵して小さな稚魚の孵化を何度も見せてくれた。大事にしていた「赤」を甦生させようとする母の眼差しは、静かで無心で愛に満ちていたように見えた。
ちなみに、母は陸軍病院で看護婦として働いていたという。大正生まれの母は「ナイチンゲール」の伝記を読んで看護婦になったような人だ。だから人一倍「生命」に対する「無条件な姿勢」が身についていたのかも知れない。
命をいただいて生きてゆく。水族館の母の「おいしそう!」は、それはそれで理に適っている。だが家族のように一緒の生き物を大切にする母の姿は、忘れられない。
ただ、うちのカミさんも子供たちのペットの急場では同じようにやっているのを何度も体験した。
そうした習性が、女の人には生まれつき具わっているのだろう。その辺は、到底かなわない。
【戦争体験者/生きることは食うこと/生命の尊厳/女の人/親子家族/私の母】