Negative Space

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結果オーライの英雄:『ペンタゴン・ペーパーズ』

2018-04-21 | その他



 スティーヴン・スピルバーグ「ペンタゴン・ペーパーズ」(2017年)

 ときあたかも「森加計」「日報」問題で公文書のステータスの問い直しが焦眉の急と化している今日この頃であるが、先週見た『ペンタゴン・ペーパーズ』の上映会場はほぼ無人状態であった。

 スピルバーグの主人公はすぐれて結果オーライの英雄だ。シンドラーしかり、リンカーンしかり(奴隷解放は憲法停止状態において宣言された)。かれらの決断や行為は理性的なものでも確信に基づいたものでもない。ケイもまた電話口の側近の上から目線の助言にたいし反射的にその逆を命じてしまう。意に反して英雄に祭り上げられるというコメディ映画の特権的な(実存主義的?)シチュエーションがスピルバーグ映画の基調になっている。

 かれらの決断を導くものは「運命」と呼ばれるほかないなにかであるが、もちろん、その「運命」なるものが招び出されるのはつねに事後的に、つまりいっさいが済んでしまってからのことであり、その内実は「偶然」である。スピルバーグの「理想主義」を支えているのはこうしたアイロニーだ。

 映画が『プライベート・ライアン』をおもわせる戦場のシーンで幕を開けるのはぐうぜんではない(雨の森を横断する兵士らをとらえる発色を抑えた移動撮影からしてはやくもフィルム媒体での撮影が伊達ではないとおもわせる)。本作のメッセージを一言で要約すれば、さしずめクラウゼヴィッツをもじって「政治は戦争の継続である」ということにでもなるであろうから。

 くだんの文書はヒッチコック的な「マクガフィン」にすぎない。靴箱に入れた文書が編集部にもちこまれるシーンのサスペンスはおおきな見せ場だ。「ヒッピーふうの女性」が胸のまえで抱えた靴箱のアップ(とゆうかおっぱいのアップ?)、編集部を横切るかのじょの後ろ姿をとらえた前進移動、暇そうなデブのヒラ編集者をお偉いと勘違いした女性がデブのデスクに靴箱を無造作に置く。デブが靴箱を開ける瞬間、中身が問題の文書であることがわかっていながら、爆発が起きやしないかと観る誰もが肝をひやす(じっさいにこの文書は「爆弾」である!)。靴箱を抱え、編集部をあたふたと横切るデブをとらえたロングの移動撮影。デスクは会議中で重役室をたらいまわしされるデブ。

 文書の重要性はそれを手にした者がよぎなくされる迂回の大きさそのものによって表現される。本作において文字はそれが伝えるメッセージによってではなく、爆弾としてであれ黄金としてであれそれが社会的にもつ物質的な力として扱われている。兵士の操るタイプライターやメッセンジャーボーイの往復や輪転機の回転やの運動として文字がすべからく視覚的に(身体的にもしくは技術的に)表現される。本作はフェイクでない真実を謳いあげる(反トランプ的な?)映画ではない。真実などという信仰(フェイクニュースなる観念はこうした信仰にもとづいている)には本作は鼻も引っ掛けない。

 暖色基調の色彩設計が目を惹きつけ、トレードマークのスポットライティングの効果が随所で冴え渡る。本作はおそらくフィルムで撮影された最後の傑作の一本となるだろう。『マディソン郡の橋』のストリープに失笑しかできなかった者も本作のかのじょには感動に近いものを覚えることだろう。もちろんわたしもそのひとりである。

時代劇にやつしたフィルム・ノワール:成瀬巳喜男の『お国と五平』

2018-04-16 | 成瀬巳喜男




 成瀬巳喜男「お国と五平」(1952年、東宝)


 山道を連れ立って行く疲れ切った風情の美男美女にすれ違う旅の者らがみな振り返る。元許嫁(山村聰)に夫(田崎潤)を闇討ちされたお国(木暮実千代)。家臣の五平(大谷友右衛門)を伴い復讐の旅に出てすでに数年……
 

 注意! 以下、物語の結末に触れています。


 病床のお国を五平が寝ずの看病をするうち、内に秘めてきた二人の恋心が燃え上がり、事実上の「夫婦(めおと)」となる。そこへ密かに二人を追ってきた元許嫁が姿を現すに至って、それまでのしっとりとしたリズムが突如急変し、シニカルで現代的な心理劇に変貌するという、あっと驚くどんでん返し。

 ダメ侍の元許嫁は、武士道の形骸化を暴きたて、復讐の無意味さを説いて恋人たちの幸福を後押ししようと申し出る。お国の心は揺れるが、五平は出世のためにあくまで復讐を遂げようとする。恋よりも出世を重んじる五平の心を知ってお国は傷つく。斬られた元許嫁は死の間際に、お国が嫁入り前にじぶんと体の関係を結んでいたことを五平にばらす。五平はショックで気が触れる。終。

 女は怖い。これが『お国と五平』のメッセージだ(原作が谷崎と聞けば頷けようというもの)。本作は時代劇映画に姿をやつしたフィルムノワールなのだ。成瀬のヒロインたちはつねに潜在的な悪女性を宿す。そのいみではお国は典型的に成瀬的なヒロインのひとりである。
 
 「死ぬのはいやだ」とぬけぬけと言い放つ元許嫁が二人に夫婦となれと言うためにわざわざ姿を現すのは理に敵っていない。一方、五平も徹底して挙動不審。たとえば一人で盆踊りに出かける真意は何なのか?女主人と結ばれる直前にもしばし何処へか姿をくらますが、その理由も説明されない(まさかコンドームを買いに行ったわけでもあるまい)。また、病気の女主人をヤっておいて翌朝、「お体のお具合はいかがでしょう?」などといたわってみせるとはどういう神経なのか?ただし、いまわの際の元許嫁の言葉をでまかせだと信じさせようとするお国にたいして「とてもでまかせとはおもえませぬ」と返すセリフには深くうなづいてしまった。

 とはいえこういうとぼけた味わい、韜晦的な緩さこそが成瀬映画の醍醐味である。それを理解できない輩は本作を失敗作だと抜かし、『浮雲』だの『流れる』だのの“緊密さ”が成瀬の身上だなどとおもいこんでいるのである(『流れる』ラストのストップモーションなんてそれこそジョークだ)。

 病床の木暮を前に縁起でもないギャグを飛ばしまくって悦に入る藤原釜足の医者もサイコーにクレージー。五平の悲劇は、若山セツ子(『サイコ』のジャネット・リーもまっさおの食えない女)との再婚がそのラストで暗示される『薔薇合戦』の鶴田浩二の辿るであろう運命をも雄弁に予告する。

成瀬巳喜男の『サイコ』?:『薔薇合戦』

2018-04-15 | 成瀬巳喜男





 成瀬巳喜男「薔薇合戦」(1950年、松竹)


 「しょうびがっせん」と読ませるそうな。原作・丹羽文雄。これ以前に溝口健二が映画化を企てたが実現しなかった。成瀬じしんが古巣の松竹に売り込んだ企画。

 身寄りのない三姉妹。化粧品会社を経営する長女(三宅邦子)と二人の妹(若山セツ子、桂木洋子)が金と男に翻弄されるさまを、パロディすれすれの作為的なシチュエーションとこれみよがしの退廃的な描写でどろどろとえがく。『舞姫』をおもわせる読者への媚びにみちた安い“昼メロ”。

 見どころ(とゆうか、いちばん笑えるところ)は、入浴中の若山セツ子が夫(永田光男)に燻し殺されそうになるシーンだろう。もちろん浴室内の描写はいくつかのアップを除いて省略に委ねられる。「あなた、開けて!」と叫びながら曇りガラスに裸体おしつけるセツ子(またはその吹き替え)のシルエットがエロい。若山が気を失って倒れる瞬間は音によって伝えられる。

 姉に押しつけられた夫と一緒になるまえに、若山は兄の使い込みをもみ消すために兄の同僚・安部徹と「契約」を交わしていた。逢瀬の帰りとおぼしき晩の別れの接吻は背伸びする女のヒールのアップによって示され、若山が安倍に体を許していたことが暗示される。ここでも省略の効果が効いている。

 安倍は若くして妻に先立たれたほんらい同情すべき男なるも、しじゅう爬虫類的なぎとぎと感を安っぽく醸し出す悪役。たいして鶴田浩二(周囲に小柄な役者を配して長身に見せている)は、ドンファン(同名の映画のポスターが職場の壁に貼ってある)ということになっているが、徹底して善人として描かれる。この図式は『明治侠客伝 三代目襲名』における両者の対決によって再現されるだろう(?)。

 多少ともやましい金銭の具体的な額がなんども口にされるところはいかにも成瀬。桂木の「実験結婚」の相手(大坂志郎)には実は妻子があり、生活臭にまみれたその妻が子供を抱いて桂木のアパートに勝手に上がり込んで金をたかる場面も思わず笑ってしまう(ここでも律儀に具体的な金額が口にされる)。コメディーリリーフの青山宏(鶴田の部下)は芸達者。若き岩井半四郎(三宅の燕)はライアン・ゴズリングふう(もしくは政治学者・中島岳志ふう)の甘いマスク。


双子の絹代:『銀座化粧』と『おかあさん』

2018-04-11 | 成瀬巳喜男





 成瀬巳喜男「おかあさん」(1952年、新東宝)


 田中絹代=三島雅夫=香川京子の配し方において、クライマックスを欠きエピソードを淡々と積み重ねていく語りくちにおいて、前年の『銀座化粧』の双子の作品といえよう。

 田中は「裏銀座」のバアの女給から下町の洗濯屋の女房に変わっている。『銀座化粧』の女給はシングルマザーであり、『おかあさん』の田中は未亡人となる。いずれの作品においても田中は金の心配に追われ、田中の息子(甥)がペーソスゆたかにコメディーリリーフを引き受ける。『銀座化粧』の田中の若い男へのおもいも、『おかあさん』における加東との再婚の可能性も、暗示されるにとどまる(加東が田中にアイロンの要領を伝授する場面は素晴らしい)。

 長男と夫の死の場面は大胆な省略にゆだねられ、それぞれ味わい深い諸エピソードの軽やかな繋ぎ方(いわば物語の一家のごときモザイク)によって貧乏生活を悲惨にみせない。

 戦前から戦中にかけての成瀬をおもわせるとぼけたタッチ。1)後ろ姿の子供が路地を駆けていくロングショットにつづきとつぜん「終」との文字が画面に出るが、作中でこどもらが伯母につれられて出かける映画のエンドマークであることがわかる。そろそろ映画の終わりが見えかけてきた時点でのことなのでサプライズの効果は満点である(岡本喜八は『大学の山賊たち』の冒頭でこれをやっている)。2)夫婦が昔語りする場面では予期せぬ(余計な)フラッシュバックが挿入される。3)遊園地の場面では田中の具合がわるくなるが、彼女が病に倒れるというとうぜん予想される展開にはならない。いっしゅのフェイクのエピソードとみなすこともできる。4)フェイクといえば、長男の死の描写の省略が鮮やかすぎて、そのあとある時点ですでに夫が死んだ、もしくは田中が加東と再婚したと錯覚させる瞬間がある。寝込んだあと、夫の出番はしばらくなくなるし、くだんのアイロンの場面では加東が田中にタメ口をきいている。

 川本三郎によれば次女(そのたたずまいの素晴らしさ)が養子先で母の肖像を壁に飾ろうとしてそのまま引き出しにしまうのは新しい親への配慮であり、加東が店を去るのは香川への配慮が大きい。わたしはそこまで読み込めなかったが、言われてみればそのとおりだ。成瀬の演出がいかに説明的ならざるかの好例といえよう。いっけんわかりやすいが、じつにきめこまかに織り成された傑作である。

 このあと田中は師・溝口の『山椒大夫』でも香川と榎並啓子(次女)の母親役を演じることになる。


平成の映画を総括する!(その1):『舟を編む』

2018-04-09 | その他




 石井裕也「舟を編む」(2013年)

 映画は下宿と編集室を規則的に往復する主人公を追う。「舟」とは畢竟このふたつの閉鎖空間を繋ぐ媒体(vehicle)の謂いであろう。

 主人公の嫁となるかぐやという女性は月夜の晩に謎めいた登場の仕方をする。かのじょはなかば主人公のつくりだした幻想である。べたっとした照明を施されたこぎれいな料理屋では背景の一部と化しているかのじょは、主人公の内面が全開になる下宿の暗い照明のなかでこそ強烈な存在感を放つ。かのじょは縁側に咲いた一輪の夜顔であり、夜のいきものである。

 下宿の暗い台所で夜ごと無言で包丁を研ぐかのじょはホラー映画のモンスター役である。物置じみた編集室と対置される下宿は漆のような光沢をともなう艶かしい照明で照らされ、さながらゴシックホラーのセットである。

 この女性が板前見習いであることは偶然ではない。主人公がかぎりなくフェミニンであるぶん、ぎゃくにかのじょは男性的である(宮﨑のメイクや装い、台詞廻しに注目しよう)。こうした男女の逆転というコメディー的な道具立てが本作のベースになる。

 そしてすぐれて包丁のつかいてであるかのじょはすなわち主人公の去勢者である。目の前に立ち現れた「女の謎」(フロイト)を解明すべく主人公が辞書をいくら繙いてもむなしいだけである(吸血鬼にたいする十字架やニンニクほどの効果ももたない)。「右」そのものを定義できないように、ひっきょう女性器とは男性器の不在としてしか言いあらわすことのできないなにものかである。さらにつづけてフロイトを引くならば、知識欲とはすぐれて「生の事実」(R・D・レイン)に向けられたそれである。

 主人公の情熱の源泉がここにある。定義できないものを定義しようとして、主人公は辞書づくりにいやがうえにものめり込む。

 こうした主人公の“去勢不安”はいわば国民的な感情である。辞書づくりとはいわば震災後の指針の模索の隠喩である(主人公は国民的な事業にたいする使命感をはっきりと自覚している。「明日から改訂作業のスタートですね」とのセリフは感動的である)。欠点のおおい本作がそれでも国民的な支持を得、平成映画を代表する一本たりえた理由はそこにある。

 ラストで映画は閉鎖空間をついに抜け出し、夫婦は大いなる海を目の前にする。海とは解放と同時に不安の源泉である。ここで主人公の悪夢がいまいちど想起される。ついでに『EUREKA ユリイカ』冒頭での宮崎のセリフ(「津波が来る」)が想起されるかもしれない。

 いきなり場面が12年飛んだりする繋ぎはわるくない。ところで麻生久美子ってどこに出ていたっけ?とおもいきや、「ポスターの女性」であったとは。