Negative Space

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平成の映画を総括する!(その1):『舟を編む』

2018-04-09 | その他




 石井裕也「舟を編む」(2013年)

 映画は下宿と編集室を規則的に往復する主人公を追う。「舟」とは畢竟このふたつの閉鎖空間を繋ぐ媒体(vehicle)の謂いであろう。

 主人公の嫁となるかぐやという女性は月夜の晩に謎めいた登場の仕方をする。かのじょはなかば主人公のつくりだした幻想である。べたっとした照明を施されたこぎれいな料理屋では背景の一部と化しているかのじょは、主人公の内面が全開になる下宿の暗い照明のなかでこそ強烈な存在感を放つ。かのじょは縁側に咲いた一輪の夜顔であり、夜のいきものである。

 下宿の暗い台所で夜ごと無言で包丁を研ぐかのじょはホラー映画のモンスター役である。物置じみた編集室と対置される下宿は漆のような光沢をともなう艶かしい照明で照らされ、さながらゴシックホラーのセットである。

 この女性が板前見習いであることは偶然ではない。主人公がかぎりなくフェミニンであるぶん、ぎゃくにかのじょは男性的である(宮﨑のメイクや装い、台詞廻しに注目しよう)。こうした男女の逆転というコメディー的な道具立てが本作のベースになる。

 そしてすぐれて包丁のつかいてであるかのじょはすなわち主人公の去勢者である。目の前に立ち現れた「女の謎」(フロイト)を解明すべく主人公が辞書をいくら繙いてもむなしいだけである(吸血鬼にたいする十字架やニンニクほどの効果ももたない)。「右」そのものを定義できないように、ひっきょう女性器とは男性器の不在としてしか言いあらわすことのできないなにものかである。さらにつづけてフロイトを引くならば、知識欲とはすぐれて「生の事実」(R・D・レイン)に向けられたそれである。

 主人公の情熱の源泉がここにある。定義できないものを定義しようとして、主人公は辞書づくりにいやがうえにものめり込む。

 こうした主人公の“去勢不安”はいわば国民的な感情である。辞書づくりとはいわば震災後の指針の模索の隠喩である(主人公は国民的な事業にたいする使命感をはっきりと自覚している。「明日から改訂作業のスタートですね」とのセリフは感動的である)。欠点のおおい本作がそれでも国民的な支持を得、平成映画を代表する一本たりえた理由はそこにある。

 ラストで映画は閉鎖空間をついに抜け出し、夫婦は大いなる海を目の前にする。海とは解放と同時に不安の源泉である。ここで主人公の悪夢がいまいちど想起される。ついでに『EUREKA ユリイカ』冒頭での宮崎のセリフ(「津波が来る」)が想起されるかもしれない。

 いきなり場面が12年飛んだりする繋ぎはわるくない。ところで麻生久美子ってどこに出ていたっけ?とおもいきや、「ポスターの女性」であったとは。