たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

炎天下の古墳巡り <天皇陵古墳の管理の推移>を少しだけ考えてみる

2018-07-13 | 古代を考える

180713 炎天下の古墳巡り <天皇陵古墳の管理の推移>を少しだけ考えてみる

 

今日、車の定期点検で堺まで出かけてきました。台車を借りて事務所で仕事をすることも一案ですが、車の往復自体、ガソリンの無駄遣いですし、私自身がドライブが好きでない上に大阪の混んだ道を走るのは避けたかったので、あえて歩くことを選びました。

 

かねてから気になっていた中百舌鳥古墳群、古市古墳群、あるいは太子墓など多数が集中する「王陵の谷」を歩いてみようと計画しました。

 

ところが最初から躓きました。スマホのナビ機能で歩き出したのはいいのですが、少し間違ったようで、同じところを何度か歩いたり、全然別方向に歩いたりで、結局、うまく使えず、お店でもらった地図と通りで会った人に案内してもらう、従来方式で無事5つの古墳を歩くことができました。

 

最初はニサンザイ古墳、御廟山古墳、いたすけ古墳、陸中天皇陵古墳、最後に仁徳天皇陵古墳です。炎天下で日陰も少なく、暑かったのです。でも、暑さはなんとか耐えることができたのですが、足の方が痙攣しそうになり、他の古墳群にまで足を伸ばす元気はありませんでした。

 

以前、森浩一著『天皇陵古墳』をざっと読んだことがありますが、ほとんど覚えてなく、今回はただ見て歩くことにしました。

 

それでも興味深い経験をしました。最初のミサンザイ古墳では、堀の幅が場所によっては100mくらいあると思われる広い周濠があり、一カ所、その周濠をわたることができるコンクリートの「通路」のような幅2m弱で古墳に歩いてわたることができるようになっていました。むろんフェンスがあり門には鍵がかかっていました。

 

古墳の中から大きな機械音があちこちこだましていました。ニサンザイ古墳は天皇陵に否定されていないようですが、宮内庁管理ですね。勝手に中には入れないはずですね。それもあの機械音は刈払機のうなる音です。しばらくすると、古墳の下辺、周濠付近に3人ほど現れました。一人は桁の短い草を刈る、草刈り機をこちらに運んできました。途中でバランスを崩しそうになり周濠に落ちかけましたが、しっかりと支えて持ち直しました。その若い彼は蔓がからまって、草刈り機の刃がうまく作動してくれないというのです。刈払機で切ったんですかときくと、丈の長い草や蔓は刈払機できっているが、それでも多くは残ってしまい、大変だというのです。

 

年かさのいった方は、10月頃には周濠の上あたりを全部刈り取るのできれいになると言うのです。今回は周濠の岸辺周辺は丈の長い草が繁茂した状態でしたが残されていました。

 

私は下請けで作業している業者の人かと思い、宮内庁の人も中に入ったりするんですかと聞いたら、自分たちは宮内庁の職員だというのです。そうなんだ、宮内庁自ら、草刈りをしているだと、当然とはいえ、納得でした。彼曰く、樹木は原則切らないが、虫害などで枯れているような木は切るとのことでした。

 

その後、ずっと古墳の周りを歩きながら、中を遠目で見ると、多くの作業をしている人が刈払機をもって草刈りをしていました。さらに樹間の隙間をみると、山道らしいものがあり、そこを歩いているようでした。

 

次の御廟山古墳は、迷ってしまいたどり着くのが大変でした。本とは目印があるので、それに気づけばなんの問題もないのですが、暑い中右往左往してしまいました。その後に訪ねたいたすけ古墳は、これが国史跡とされているとは思えないほど、荒れていました。大半が竹林状態ですね。ちょうど竹木をこんどはチェーンソーで切っていました。若い人3人で。私が見たときすでに数100本くらい切ったところでしょうか。一旦、周濠の中に入れて、その後、外に出すようです。外では囲いをして伐倒した竹木一本一本の枝を払い、幹だけをトラックに積む作業を親方らしい人がやっていました。

 

話を聞くと、ここは堺市の管理で、竹木は処分するそうです。たしかに切った竹木は曲がったり、生育のよくないものがほとんどでした。他方で、古墳の方を見ると、切ったところでは、竹林の中がよく見通せて、嵯峨野の竹林とはいえませんが、ま、見栄えは良くなっていました。でも、まだまだ密集した竹林が大量に残されていますし、竹林でないところは、蔓が樹木を覆っていて蔓畑のような状態です。

 

この古墳は55年に開発の危機にさらされ、保全運動で残ったそうですが、こういった運動は残った後の維持管理が大変です。残念ながら現在の古墳の状態は、他の天皇陵古墳と比べて情けない状態となっています。竹林は毎年相当伐倒しないと、その生長量が尋常出ないので大変です。そもそも管理された古墳に竹林は育たないはずなのです。これはどこの山林でもいえることですが。

 

といっても、現在は立派な樹木が生い茂っている履中天皇陵古墳や仁徳天皇陵古墳も、江戸末期まで、あるいは明治初期までは、必ずしも適切な管理がされていなかったのですから、古墳それぞれに対する意識の違い、政治体制の違いが影響するのでしょうね。

 

堺市博物館に入って前方後円墳の紹介映画を見ました。暑いのと足が動かなくなったのとで、涼と休養をかねて入館したのですが、これは思わぬ副産物がありました。

 

廊下に展示されている写真が面白かったです。明治20年頃でしょうか、英国人が仁徳天皇陵古墳の写真を横から撮っているのですが、それが最古のものらしいですね。なにより驚くのは竹林が相当残っていたのです。つまり江戸末期の王政復古の影響で天皇陵の修復や管理がされるようになったものの、まだ十分でなかったのですね。

 

昭和5年の写真では相当樹木が生い茂り、現在ほどではないですが、なかなかのものでした。ところがもう一つ昭和50年頃の航空写真がありますが、これだと樹木がほとんどないのです。裸同然に近いのです。博物館のガイドさんと話をして、私は戦時中に燃料調達のために伐採されたのではないかと話したのでした。

 

で、帰ってからウェブで見た、<昭和23年に米軍が撮影した航空写真>では、なんと昭和5年のものよりは樹木が少ないようですが、仁徳天皇陵だけでなく、周辺の古墳も全部樹木が残っていました。それは驚きです。というのは少し北方では、はっきりはしないですが、大阪大空襲の跡と思える残骸というかなにもない状態が広がっていましたので、米軍の無慈悲・非道な空爆の鉾先から外されていたのだと、思うのです。

 

ではなぜ樹木がなかったのか。<昭和42年の航空写真>を見ると、このときも樹木がありません。見事に前方後円墳の形状、張り出しも、前方の正面側が三角形の形状となっているのも浮き出ています。

 

ところで、博物館の映画では、仁徳天皇陵の土台となった土は、すべて周濠を作るために掘った土で補っているとのことでした。葺き石は雨で崩れないようにするために表面に配置したということでした。

 

私はこの土量収支で正しいのか疑問に思ったのですが、ガイドの説明では、それだけ周濠は深く掘っていて、古墳の土量をまかなっているといのです。

 

私自身まだ納得できていません。どのような土質なのか知りませんが、掘った土を積み上げたくらいでまかなえるとは思えないのです。だいたい、当時の現地の状態が分かりませんが、相当草木が生えていたかのではないか、あるいは湿地だったのではないかと思うのです。相だとすると、草木や根は土盛りする場合、省かないといけませんから、相当容量的に少なくなるはずです。掘った土でまかなえるような条件とはどんなものかと思うのです。

 

被葬者がだれかとか、いろいろ話題は多いですが、そろそろ時間となりました。これにておしまい。中途半端で失礼します。


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