たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

高野・町石道を歩く <高野参詣道トレッキング 町石道>に参加して

2018-05-27 | 空海と高野山

180527 高野・町石道を歩く <高野参詣道トレッキング 町石道>に参加して

 

昨日寝るまで体調がひどい状態で、今日予定されていた上記のトレッキングには参加できないと思って早く眠りにつきました。

 

するとどうでしょう、朝目覚めると、外は上天気、体の熱もなく、ふらふら感もどこか飛んでいき、すがすがしい気分で朝を迎えました。まだ足はすこしふらついていましたがなんとかなる程度でしたので、結構を即断。

 

ただ九度山町役場に集合ということと、時間は8時頃というくらいのあいまいな記憶で、その募集記事が掲載された地元の広報誌も行かないとおもっていたので、捨ててありません。ま、現地行けばなんとかなるだろうと出発を決め込みました。

 

ただ、たしか駐車場がなく公共交通機関を利用してということでしたので、近くにある「道の駅」を思いついたものの、混雑して迷惑をかけると思い、事務所に車をおいて、そこから最寄りの南海高野線・学文路駅まで歩いて、電車に乗って九度山駅まで行くことにしました。

 

ところが、体力が落ちているというかどうしようもないほどでして、一応電車の時刻を調べた記憶があり730分すぎ?40分前といった感じで、事務所から歩きで25分くらいかかるということで、事務所に早く着かないといけなかったのですが、いろいろ用事を済ませていると、事務所に着いたのが715分すぎ、ちょっと用を済ませて出るとたしか20分ころ、10分はともかく、裁定でも15分で到着するには、田中陽希さんのように走らないといけない、ま、少しだから大丈夫だろうと走り出し途端、けいれん気味になり、呼吸はみだれ、とても走れる状態ではないのです。

 

それでも電車に間に合わないといけないと必死に歩き、少しだけ走るという繰り返しで、九度山駅にたどり着いたときに下り電車がすでにホームに、あ、間に合わないかと思いきや、単線ですので、上り電車を待っていて、滑り込みセーフでした。

 

しかし、この15分くらいですべてのエネルギーを出したためか、九度山町役場で受付して慈尊院についたときには、もうこれ以上歩けない状態でした。途中一緒に会話が弾んだ高齢者(私より6歳上)は一緒に登ろうと言ってくれたのですが、慈尊院の階段で私は座り込み、マッサージをしながら、先に行って欲しいというと、先に行って待っているよとのことでした。ところが私はここで20分くらいはマッサージしていたのでしょうか、その後彼には追いつかないままでした。

 

町石道は<ウィキペディア>によると、<高野山上の壇上伽藍・根本大塔を起点として慈尊院までの約22キロメートルの道中に180基、大塔から高野山奥の院・弘法大師御廟まで約4キロメートルの道中に36基の、合計216基の町石が置かれてい>るので、長い道のりですが、私の(若い頃の)歩くスピードであれば、容易に追いつくと思ったのですが、途中、結構若い人はもちろんのこと、高齢者、とくに女性には抜かれることがたびたびでした。

 

矢立が第一のゴールでしたが、ここは九度山からの曲がりくねって走る国道370号線と、かつらぎ町から(というかバイパスから)バス道としてほぼ一直線様な国道480号線が合流する地点でした。私はこの地点でギブアップの状態でした。ここの受付の前ではおのおのが軽い昼食をしていて、私は予定を考えず壇上伽藍で昼食を考えていたので、事務所にあった小さなパン3個しかありませんで、ともかく少し腹の足しにしました。そのとき私の隣に座った方は10歳以上年上で、とても元気そうでしたが、これまで10回くらい参加しているが、今回はここでリタイアするとのこと。これから先がきついから、私にも初めての参加ならリタイアしたらいいよといいながら、チョコレート2個を分けてくれました。

 

彼は結局、そこでリタイアしたのですが、私は逆に、チョコ2個で元気が出て、頑張ってみようと思ってしまったのです。しかし、それからは、まさにその助言が至言ということを嫌と言うほど思い知らされました。

 

そこから歩き出した途端、足がつり気味でなかなか前に進まないのです。しばらく様子見でゆっくり歩いていたのですが、次第に調子が出て、途中までは順調に歩行を進め、前の人を追い抜く状態になりました。ところが次第にきつくなり、疲れて休んでいる高齢者(80代前半)と疲れの点で意気投合し、一緒に話しながら歩くことになりました。が大門手前の長い坂(最初は緩い坂、その後ジグザグの急坂)に入った途端、突然、足がつって前に進めなくなり、その方には前に行くよう進め、しばらくマッサージをして、ようやく歩くことができました。

 

そしてようやく壇上伽藍の前でゴールの受付をすることができたのですが、30分以上立ち上がれず、むろん歩くこともできない状態になりました。スタッフの人は温泉?風呂に入れるからどうぞと言われたのですが、立ち上がれないのですから、すぐそばの風呂といわれても、ただそこで横になるしかありませんでした。

 

すると、男性も女性も、次々とゴールの受付にやってきて、相当の高齢者から小学生まで、皆さん、しっかり歩いているのです。これは参ったと思いました。私の体力のひどさは相当なものと情けない思いでした。ま、それでひるまないところが私なのですが・・・

 

ところで、私が町石道を歩く上でいくつか関心を持って、観察していました。世界遺産としての環境整備・保全がどの程度できているかという点です。その意味では、沢筋の谷町系では道の法敷が崩れたのでしょう、しっかりした蛇籠が丁寧に段積みされていました。また別の場所では丸太積みをしているところもありました。沢を渡る木橋なども、相当痛んでいましたが、すべてを取り替えるといよりは、応急処置と言うことで、穴が開いた床を残しながら、手すり部分はかなりしっかりと取り替えていました。

 

他方で、道の維持には、排水処理が肝要で、たしかに道を横断する溝は多く設置され、しかも石組みや木工もあり、一般の登山道や自然公園よりはましかなとおもいました。ただ、相当数は、枝葉でほぼ詰まっていて、これだと大雨の時の排水が適切になされないことをしめしています。これは残念でした。

 

また、これは場所を必ずしも特定できるわけではないですが、おおよそ範囲を絞れますが、いくつかの町石道沿いの杉木立は、丁寧に間伐されていましたが、他方で、あまり間伐がされていない、せいぜい切り捨て間伐あるいは治山間伐程度が施行されているにすぎないところも少なくなかったと思います。

 

町石道の世界遺産的価値の重要な構成要素は、216基の町石でしょうけど、それだけで十分かと思うのです。ほとんど手入れができていないスギ林があったりすると、残念な思いになります。また、眺望の点でも、町石道の周辺は丁寧な間伐、枝打ちがされていて、とても見通しがいいのですが、その奥(下方)になるとほとんどされておらず、見通しがきかないところもあります。

 

いや、町石道は、あくまで町石が基本であり、周辺景観まで考慮しなくて良い、あるいはそこまで面倒見えないよという声が聞こえそうですが、道を歩くことの意味を考えてもらいたいと思うのです。世界遺産登録されるような道は、いずれもその周辺景観が評価されていると思います。

 

で、長々と書いてきましたが、これから私がこのテーマを取り上げた意図を書きます。

 

私は、この道を歩いてほぼノックアウトされましたが、それでも言いたいのは、これは空海が上り下りしたような道ではないと感じたのです。はっきり言って、ほぼ平坦で、勾配も優しく、最後の坂が少しきつい程度ですが、これが空海が修行道場としての高野に通ずる道として往還したとは到底思えないのです。

 

九度山(慈尊院)のいわれについてここではウィキペディアを参照しますが、古い文献でも同様の指摘がされています。

 

<高齢となった空海の母・阿刀氏(伝承では玉依御前)は、讃岐国多度郡(現:香川県善通寺市)から息子の空海が開いた高野山を一目見ようとやって来たが、当時高野山内は7里四方が女人禁制となっていたため、麓にあるこの政所に滞在し、本尊の弥勒菩薩を篤く信仰していた。空海はひと月に9度(正確に9度というわけではなく、それだけ頻繁にということの例えだと言われている)は必ず20kmに及ぶ山道(高野山町石道)を下って政所の母を訪ねてきたので、この辺りに「九度山」という地名が付けられた。>

 

この時期は判然としませんが、空海が高野山に定住したのは最晩年で、重い病気を抱えていた頃ではないかと思います。その空海の体調を気遣って、このような優しい道を作ったのでしょうか。私の勝手な見方として、空海の思想には合わないと思うのです。このような優しい道を作ることは。それでは女人禁制を守るため、女人のために作ったのでしょうか。空海が生きていた頃、それほど女人が訪れたとは考えにくいのです。

 

では空海が壇上伽藍を建設するため、物資運搬のために作ったのでしょうか。それには堀割などではせいぜい幅が90cm未満のところが随所にあり、疑問を感じます。

 

これだけの道作りは相当な資本・人手が必要です。空海にはそのような余裕がなかったはずです。天皇からの支援をも断ったとも伝えられており、かなり経済的には厳しかったと思います。

 

では誰が何のため。ま、私の独断と偏見ですが、摂関家として最初に高野山詣でをしたのは、飛ぶ鳥を落とす強大な権力者、藤原道長ですね。この親子が高野山に多大な経済的支援を行ったとされていますが、彼らが参拝するとき、道があったでしょうか。あの平坦で優しい道は、平安貴族のあまり歩いた経験のない男女を連れて参拝するのであれば、ちょうどいい具合なのではと思うのです。ま、私の体力も、平安貴族の体力とたいして変わらないほど貧弱であったことで、そういう着想になったのです(経済力はむろん比較の対象ではないですが)。

 

そんなところ約1時間、ひとつの仮説を提供しました。九度山町民はなんて言うでしょうかしら。九度山の九度は竈といった見方もあったと思います。以前読んだ本ですが、私はなぜか惹かれます。

 

今日はこれにておしまい。また明日。

 


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