たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

空海に学ぶ(6) <第六 他縁大乗心>と2つの判決<1票の格差 「違憲状態」><原発避難者・東京訴訟 東電に11億円賠償命令>を考えてみる

2018-02-08 | 空海と高野山

180208 空海に学ぶ(6) <第六 他縁大乗心>と2つの判決<1票の格差 「違憲状態」><原発避難者・東京訴訟 東電に11億円賠償命令>を考えてみる

 

空海の十住心論も第六住心まで形の上では到着しました。卑見のごとき浅薄な理解からすると、空海の弟子たちも、これを理解できるに至る人は少なかったのではと思ってしまいます。

 

講座日本の歴史は、たしか半世紀前に通読したきり、それ以外に歴史書をまとめに読んでいないので、曖昧な記憶に頼るしかないのですが、空海の高野山も最澄の比叡山も、上は上皇・天皇家、摂関家から下は末端の人々まで、末法思想が蔓延する中、適切な解を提供できなかったように思います。空也や源空、あるいは覚鑁も一定の道を示したのかもしれませんが、多くの理解を得るまでには至らなかったのではないかと思うのです。

 

他方で、人間社会という支配制度の中では、争いが絶え間なく、当時の権威なり政治システムでは解決策を示せず、領地争いなどを中心に台頭してきた武家が裁判による解決策の提示を求め、鎌倉幕府を擁立したのでしょうか。といっても多くの庶民の苦しみを救うものではないため、鎌倉新仏教が次々と台頭していったのかしらと思うのです。

 

とはいえ、人間社会の紛争解決手法として、権威を持った判断が尊重されてきたのも、17条憲法で指摘されているように、6世紀以前からわが国にも仏教思想と平衡して一つの秩序維持の手法として、あるいは権威の維持基盤として機能してきたのではないかと思うのです。

 

前口上はこの程度にして、第六 他縁大乗心(たえんだいじょうしん)について、昨夜一読した、印象を書いてみます。理解できていないので、印象としか言えないのです。

 

吉村氏は、この段階を「唯識(ゆいしき)の心」として、「自身が仏陀となることを目指す」という小見出しをあげて、その詳細をさらに小見出しを次々と出して解説していますが、これを引用しても、私には解説するだけの能力がありませんので、省略します。

 

ただ、この部分はなんとなくイメージできるような気もします。

空海の言葉でしょうか、「無縁に悲を起して、大悲始めて発る。幻影に心を観じて、唯識に境を遮す。」ということについて、吉村氏は次のような現代訳をしています。

 

「特定の対象ではなく、一切衆生に対して苦しみから解放されるようにという気持ちをおこすことで、大悲の心がはじめて生じます。実体であるかのように映っている現象は心の現われであると観じて、心だけが真実である〔唯識〕として、対象の実体視を断ち切ります。」と。

 

 

大悲の心とか、唯識とか、よく聞く言葉ですが、すべての生命体にたいする気持ちと、心だけによりどころを求めるというのは、無理難題ではありますが、なんとなくわかったような気がします。

 

そのほかたくさんの仏教用語が登場しますが、ただ一つ興味深いというか、少しだけ理解できそうなイメージを持ったのは「四無量心(しむりょうしん)」です。

 

吉村氏はこれを「他の衆生が幸せとその原因を得るよう願ういつくしみ()の心、苦しみとその原因から離れるよう願うあわれみ()の心、他の喜びを自分のことのように喜ぶ随喜()の心、自分と親しい/親しくないなどの差別をしない平等()の心の四つです。四摂法は、実際に利他をなす時の心のあり方です。」と解説しています。

 

「四無量心(しむりょうしん)」という心の持ち方ですか、この第六の中で唯一、なんとなく理解できたような感覚と、理想的な心のあり方を感じました。とはいえ、現実世界で、人の支えになるのか、気になるところです。私のような凡夫にはときどき意識して心の洗濯をするときの効果的な洗浄剤になれればと思うくらいです。

 

ところで、現実世界は、価値観の対立、トラブル、紛争が数限りなく起こりますね。裁判による対応はその一つの対応策ですが、現代社会では仏教を含めた宗教よりも大きな影響を持つことも少なくないかもしれません。

 

今朝の毎日記事<1票の格差「違憲状態」 名古屋高裁、昨年衆院選で初>と<東日本大震災 福島第1原発事故 原発避難者・東京訴訟 東電に11億円賠償命令 ふるさと喪失分、示さず>が2つの異なる事件について、大きく取りあげていました。

 

前者は、先の衆議院議員選挙について初めての違憲判断を示した名古屋高裁判決を取りあげています。

<「1票の格差」が最大1・98倍だった昨年10月の衆院選(小選挙区)は投票価値の平等を求める憲法に違反するとして、弁護士グループが愛知、三重、岐阜3県の計24小選挙区全てについて選挙無効を求めた訴訟の判決で、名古屋高裁は7日、小選挙区の区割りを「違憲状態」と判断した。藤山雅行裁判長は「最大格差は極めて2倍に近く、見過ごせない」と述べた。その上で請求は棄却した。>

 

これまで同種訴訟が16件提起され、10件が合憲とされ、違憲判断が初めてなされたのです。

 

<藤山裁判長は「最高裁判決は議員1人当たりの有権者数をできる限り平等にすることが求められるとしており、2倍未満なら容認するとの趣旨ではない」と指摘した。さらに国会が、人口比をより正確に反映できる「アダムズ方式」の導入を決めながら作業を20年国勢調査後に先送りしたため、1人別枠方式は完全に廃止されておらず、なお憲法の要求に反する状態にあったとした。

 一方で、国会が格差縮小やアダムズ方式導入決定をしたことなどを挙げ「かろうじて、合理的期間内に是正がされたと言える」と述べ「違憲」判断は避けた。>

 

この藤山コートについて毎日の別の記事では<1票の格差違憲状態判決「奇跡に近い」>として、原告弁護団の<伊藤真弁護士も「政治に過度な配慮やそんたくをすることなく、司法がその役割を果たした」と述べた。その上で「地方でも1票の価値が低い所があり、都市と地方の問題で考えてはいけない。日本のどこに住んでいても『1人1票』を持たなくては」と強調した。>としています。

 

藤山氏については、このブログでもなんどか取りあげたかもしれません。この記事でも次のように言及しています。

<行政敗訴判決、度々出し注目…藤山裁判長

 担当した藤山雅行裁判長は名古屋家裁所長などを経て、2015年から名古屋高裁部総括判事を務める。

 東京地裁時代は裁判長として行政訴訟や医療訴訟を担当し、行政敗訴の判決を度々出して注目された。工事中の公共事業で初めて、小田急線高架化の国の事業認可を取り消す判決(01年)▽東京都の外形標準課税(銀行税)を無効とする判決(02年)▽騒音を理由に首都圏中央連絡自動車道の国の事業認定を取り消す判決(04年)--などがある。

 現在64歳で4月に定年を迎える。【金寿英】>

 

藤山氏は優秀な裁判官ですが、どうやら名古屋高裁の裁判長、あるいは最後にどこかの高裁長官を務めて退官されるのでしょうか。どうも最高裁の人事上は、これだけ行政を敗訴させているので、お眼鏡にかかる裁判官とはいえなかったかもしれません。

 

とはいえ、退官直前だから、こういった思い切った違憲判断をしたというほど、狭量な方ではないですね。まだ若いので、最高裁まで上り詰められると日本の最高裁も変わるような気がするのですが。

 

次の<東日本大震災福島第1原発事故 原発避難者・東京訴訟 東電に11億円賠償命令 ふるさと喪失分、示さず>も、原告・弁護団からすると不満でしょうけど、現在の裁判所の状況からすると、頑張った判断ではないかと思います。

 

記事は<東京電力福島第1原発事故に伴い、長期の避難生活を強いられたとして、福島県南相馬市小高区(おだかく)の元住民ら321人が東電を相手に「ふるさと喪失慰謝料」など総額約110億円の賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は7日、請求の一部を認め、東電に総額約11億円の支払いを命じた。水野有子裁判長は「原告は、憲法が保障する居住・移転の自由や人格権を侵害された」と述べた。【近松仁太郎】>と、「ふるさと喪失慰謝料」と明記してみとめていませんが、憲法上の権利として「居住・移転の自由や人格権」の侵害を指摘して、間接的に一部認めたようにも思えます。

 

むろん、ふるさと喪失の苦しみは、想像以上のものでしょう。旧来の慰謝料基準を前提にした中で、水野コートは少しだけ配慮したと思いますが、正確にその痛みを把握できたか、これは改めて問われるのでしょう。

 

<ふるさと喪失慰謝料 >については、福島第一原発事故によって初めて主張された概念です。毎日記事を引用します。

 <原発事故に伴う長期の避難生活で、故郷の人間関係や豊かな自然などを永遠に失ったとして避難者らが求める賠償金。東京電力は2013年12月に国が示した方針に基づき、原発がある福島県大熊町や双葉町など帰還困難区域からの避難者に「故郷喪失に対する慰謝料」として1人700万円支払うとしたが、今回の原告は対象外。千葉地裁が17年に独立した慰謝料として初認定した。>

 

仏教は苦しみを、あるゆる人、生命体の苦しみを救うことが大悲なのでしょうか。裁判は本質的な解決になるわけではありませんが、裁判所も、裁判官も、新たな事実を認識することにより評価や評価基準を変えてきたかと思います。それは個々の裁判官の良心というものに依拠するのでしょうが、その努力は職務の公正さの担保なのだと思います。仏教世界とは異なる訴訟の世界を生きてきた一人として、この二つの事件の判断は考えさせるものがあります。

 

 


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