180208 大畑才蔵考その15 <小田井用水路の世界かんがい施設遺産登録記念シンポ>に参加して
今朝も雪が残り、粉雪が舞っていて、結構外は寒そうに思えました。北陸の豪雪で長時間の車中泊から抜け出せない人たちに比べるべくもないですが、体調がいまいちだと今日のシンポはどうしようかと思ってしまいました。
ところが、次第に日差しが出て暖かくなると、下り気味の体も調子が戻り、仕事も一段落したので、出かけることにしました。なにせ<<小田井用水路の世界かんがい施設遺産登録記念シンポジウム>副題で<地域の財(たから)を未来につなぐ?>というタイトルも凄いですが、主催者として当事者の「小田井土地改良区」と並んで、わが「大畑才蔵ネットワーク和歌山」が名乗りを上げていますし、それにパネリストや司会なども仰せつかって、主力メンバーに加えて会長も挨拶を担当するというのですから、私も責任者の一人として参加しないわけにはいかないなと、多少義務感で出席したのです。
ところが、300人くらい入る会場でしたか、満員すし詰め状態で、とても盛況でした。やはり県知事、関係市町長も壇上で挨拶するということで、相当動員がかかったのでしょうか?
実際、講演内容もうまく整理されていて良かったです。トップは林田直樹氏という、全国農村振興技術連盟の委員長であり、また、今回の登録審査に関与した国際かんがい排水委員会の副会長をされているということで、まず「国際かんがい排水委員会」という組織の概要と、現在の登録遺産の状況について説明されました。
英語ではInternational Commission on Irrigation & Drainage(ICID)ということですが、かんがいと排水を並べて書くと、なにか異様な印象を感じてしまいます。むしろ国際「用排水」委員会の方が私にはわかりやすいのですが、Irrigationの訳としては「かんがい」が日本人には理解しやすいのでしょうか。おそらく世界的に見ても水田かんがい用水として使われてきたというのは日本を除けば極めて限定されるでしょうから、微妙なところでしょうか。
とはいえ、「かんがい」という日本特有の用語が登録数がダントツだということですから、世界的に周知され、「つなみ」並みに世界語になるのかもしれません。
続いて、<水土里ネット小田井>の事務局長でもあり、わが才蔵ネットワークの知恵袋の一人でもある米澤一好氏からは「「明治維新150年。高台の扇状地を潤す 小田井用水の施設の変遷について』と題して、小田井用水路の過去、現在を映像でわかりやすい解説がなされました。
驚いたのは、小田井用水が有名な龍之渡井を含む交差する川をまたぐ水路橋や、川の下をくぐる伏越(ふせこし)が思ったより多数あることでした。そうですね、たしかに30kmの用水路は無数の南北に流れる大小河川と交差するわけですから、勾配の少ない水路の建設の難しさに加えて、難儀な問題だったと改めて感じさせてくれました。
才蔵ネットワークからは最も才蔵研究に取り組んできた副会長の久次米英昭氏が、その功績について「大畑才蔵の功績~紀州藩の財政立て直しと農民のくらし向上を願って」と題して、紀州藩の財政逼迫に際して登用された才蔵が果たした役割を小田井用水をはじめとする灌漑用水路、ため池などの利水事業に加えて、災害復旧の調査・工事、各種普請工事の施工見積もりについての調査などなど、才蔵の功績を多角的に解説されました。
最後は、<水土里ネット立梅用水>(たちばい)の事務局長、高橋幸照氏が、「立梅用水における地域住民との協同活動 立梅用水の多面的機能の活用と町づくり」と題して、用水の現在、さらに未来に向けた活用策を見事に語っていただきました。
立梅用水は、三重県多気町にあり、当時は紀州藩の一部であったことから、才蔵が構想を考案したものの着工に至りませんでしたが、この構想を元に、200年前に地元の西村彦左衛門が発起人となり、約30kmの用水路を完成させて、現在も活用しているそうです。
高橋氏が解説する多面的機能は、あまりに盛りだくさんで、楽しく愉快に、地元と都会とあるいは外国人との交流がうまく描かれていて、地域共同体のコミュニティとしての復活再生にとどまらない活動を、用水路を活用することにより成功しているものでした。その多くは<水土里ネット立梅用水>のネット情報でよくわかるようになっています。
昔、生物多様性国家戦略といった国家的方針が立てられ、省庁横断的に多面的機能を競い合ったことがあったと思います。それ自体は立派な内容であったかと思います。とはいえ、ま、一部の部署が担当して、手を上げた地域の活動を並べたものに近かったですが、それぞれの事業は意欲的なものであったことは確かですが、持続性・普遍性の面では物足りないものでした。
今日のシンポを終え、才蔵ネットも、才蔵の行ったことの顕彰にとどまらず、水土里ネット立梅用水のような現代的な、あるいは未来に向けた魅力ある活動につなげることができれば、より多くの関心と指示が得られるのではないかと、魅力的なモデルケースを見せていただいたと思う次第です。
なお、今日のシンポとは関係ないですが、最近ふとしたことで、玉川上水のことが気になってきました。実は、毎日新聞で連載中の高村薫著『我らが少女A』の舞台とダブってしまったのです。後者は野川なのに、なぜか玉川上水と勘違いしてしまいました。
どちらも東京にいる頃は、なんども訪れている私の好きな場所の一つです。とりわけ前者は玉川兄弟が江戸時代初期に、江戸の町中まで上水を引いたということで、すごいことをやったなと感心して、取水口の羽村の堰に出向いていったこともあります。
企画したのは伊那氏親子のようですが、実際の施工は玉川兄弟です。で、なにかの拍子に、多摩川という大河川に堰を作り、大量の上水を江戸まで通すということは、時代、技術、延長距離、勾配などの点で、才蔵の前に大河川での取水・用水路事業を行ったのではないかと思い、ウェブ情報で確認したら、その可能性が十分あると思うのです。
ウィキペディアで<玉川上水>を調べると、<多摩の羽村から四谷までの全長43kmが1653年に築かれた。>かんがい用水ではありませんが、その水量は現在の羽村の堰で見る限り、小田井用水を十分凌ぐものです。とはいえ、当時は小河内ダム(石川達三が『日陰の村』で水没する村の様子や民の悲劇を見事に描いていますね)もなかったので、それほどの水量がなかったとは思いますが。
いずれにしても、43kmで、高低差が100mしかなかったというのですから、相当な測量技術があったといえるでしょう。それでも最初は日野市辺りで堰を、次には福生町と、次第に上流に変更して、羽村でようやく成功したようです。羽村は私がカヌーを始めたはじめ頃によく練習に行きました。上流・下流とも渓谷のような場所があり、岩場も多く、小河内ダムの影響で水量も相当あり、しかも冷たいので、結構大変です。
この玉川上水と小田井用水路を比較検討するとなにか生まれるか、新たな興味です。いずれにしても戦国時代すでに相当な水理技術や土木技術をもっていた戦国武将たち、その配下の技能集団は、その技術を軍事秘密として一切秘伝にしていたことから、技術がいつ開発され、継承されていったかがわからない謎になっています。たとえば忍城(埼玉県行田市/鴻巣市)、備中高松城(岡山市)、太田城(和歌山市)の水攻めは、三大水攻めとも言われていますが、その方法はあまり明らかになっていないようです。すでに工区割など、工期を短縮する技法は取り入れられていたようですが、堤防や堰の作り方など、あまり明らかになっていないように思うのです。城研究者は石垣や縄張りなど築造には注目するようですが、水攻めの点ではどうなんでしょう。太田城の水攻めなどではいくかの研究書がありますが、あまりわかっていません。私が知らないだけでしょうかね。
そろそろ時間となりました。本日はここで打ち止め。また明日。
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