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たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

馬と人 <科学の森 サラブレッド、なぜ速い?・・>を読んで

2017-05-25 | 自然生態系との関わり方

170525 馬と人 <科学の森 サラブレッド、なぜ速い?・・>を読んで

 

今朝は暗闇の中、雨音がしっかりと聞こえてきました。風がほとんどのないせいか静寂な雰囲気を醸しだし、闇夜の雨もなかなかいいものだと思いながら、子規がなにかひねっていないかしらとウェブ情報を見ましたが、闇夜となると蛍が出てきても、雨はあまりおつなものではないのでしょうか、見当たりませんでした。

 

たしかに5月末となると、蛍の季節です。ただ、闇夜というより、薄暗いうちからせいぜい8時過ぎ、せいぜい9時ころまでしか出現しないのが普通ではないでしょうかね。

 

ともかく明るくなって、杉木立を見ると、その前に流れるような雨脚はなんとも情緒があって、見飽きません。ただ、靄はそれほどでてなく、周囲がはっきりしているので、落葉樹の鮮やかな緑色がとても映えています。

 

今日は慣れていない登記申請を、事件がらみでやりましたが、司法書士にとっては朝飯前でしょうけど、私の場合はどうも苦手意識があり、終わるとほっとします。

 

そうこうしていると、もう4時を過ぎ、夕方は530分から会議があるので、このブログを仕上げておかないといけません。今日のお題もあまり関心を抱くものがなかったのですが、それでも馬は大好きなので、毎日朝刊<科学の森サラブレッド、なぜ速い? 進化で脚が長く、軽く…28日はダービー>を取り上げることにしました。

 

時間が1時間もないので、簡潔にしたいと思います。この記事は週末のダービーを目の前にして、科学的な視点でサラブレッドの速さの理由をわかりやすく解説しています。

 

たとえば<馬は速く走るために独特の進化を遂げた。その代表が、後ろ脚にある「第3中足骨(ちゅうそくこつ)」だ。人間の脛(すね)に相当するように見えるが、実は足の中指の骨。前脚にも同様の骨がある。中指だけが長く太くなり、他の指は退化した。その結果、脚全体の長さが増し、広い歩幅を確保できるようになったという。つまり馬は両手足の中指を支えに、爪先立ちで走っていることになる。まるでバレエダンサーのようだ。後ろ脚の真ん中の関節は膝ではなく、かかと。中指の爪に当たるのが蹄(ひづめ)になる。>

 

そうなんですね、足の中指の骨が脛のような脚部分になっているんですね。爪先立ちで走っていることになるとの指摘は、昔、同級生で足の速いのがいて(むろん桐生選手とは比べようがないですが)、普段歩くときも爪先立ちで歩いたのを見て、だから速いのかと思いつつ私にはできないなと思ったことを思い出しました。

 

そのほか、サラブレッドの心臓が巨大で、大量の血液を全身に回すポンプをもっているとか、その脾臓が大量の赤血球を蓄積できるとか、そのスピード強化のために、人為的に品種改良を重ねてきた成果を物語っています。

 

この点、アニマル・ライト・センターなどは、競馬馬などについて批判的な指摘をしています。事実そういう実態も一部にはあるかもしれませんが、元々日本人は馬を大事にして、家族のように暮らしていた歴史が長かったのではないかと思っています。

 

私は競馬にはさほど関心がないというか、ほとんど見ません。賭け事にはまったく関心がありませんし、どちらかというと狭い競馬場でスピードを競い合うこと自体に興味を抱けないのが正直なところです。ではなぜこの記事を取り上げるのかというと、競馬馬自体はその形状や顔立ちがとても美しく、魅力を感じます。

 

私が幼い頃、まだ田舎では荷馬車が使われていました。隣家にもありました。その馬は競馬馬だったものを買い取ったものでしたから、毛並みがつややかで顔立ちもよかったのです。私はいろんな動物が好きですが、とりわけ馬が大好きです。犬や猫とは比べようがないほど好きです。それは私がこの馬の餌やりを任されたりして、毎日世話係とまではいえませんが、一緒の生活みたいに過ごしていたからかもしれません。

 

で、時々、その馬に乗せてもらったりして、その一体感を味わってきました。犬や猫など以上に、とても人なつっこいという気がしていました。それと馬に乗って町を歩くと、これは気持ちもいいものです。それがもし草原や丘を疾駆できたら最高でしょう。

 

映画で高倉健が疾駆したり、馬を世話したりしているのを見ると、とてもあこがれたものです。とはいえ長いことそのようなチャンスに恵まれたことがありませんでした。

 

20年あまり前、カナダに滞在していた頃、乗馬のできる牧場を知り、何度も通ったことがあります。最初は草原を歩く程度ですが、次第に谷を降りたり、上ったり、大河のそばをギャロップしたりして、カナダの自然を馬とともに楽しむことができました。

 

で、こういう話をするのが目的ではなかったのですが、また脱線してしまいました。このサラブレッドの解説を見て、いま読んでいる宮本常一著『イザベラ・バードの旅』を思いだし、改めて確認したくなったことがあったからです。

 

それは日本の馬は明治以前小さくて貧弱だったのか、それともTVや映画で登場するような立派な馬がいたのかどうかという点です。

 

イザベラは、『日本奥地紀行』の中で、「日本旅行で大きな障害になるのは、蚤の大群と乗る馬の貧弱なことだ」と指摘しています。そしてこのノミと馬が繰り返し登場するのです。

 

この後者について、宮本常一は「馬の貧弱さなのですが、明治のはじめまでは、日本の馬は非常に小さかったのです。馬は原種というのは北アメリカで、多くの化石が出ているといいますが、それはロバより小さく、犬の少し大きいぐらいのものなのです。」(前著27p)と明快に認めています。この小ささについては鎌倉時代の馬の発掘骨などを詳細な指摘をしつつ、さらに次のように述べて明治以降の軍事的要請で大型に改良されたというのです。

 

「これは日本の封建制が遅れさせたこともあるでしょうが、やはり馬が小さかったわけで、馬が大きくなったのは、明治になって陸軍で馬を使うようになり、馬の改良をするよう

になってからなのです。」(前著30p

 

ではどのくらいの大きさだったかですが、高さ(首の付け根まで)が130cm程度で、大きいので140cmということですから、ほんとにロバより小さいといってよいのでしょう。ひょいと飛び乗れる感じでしょうか。ほんとかなと思ってしまいますが、これは歴史的な史料で確立しているようです。

 

実際、それは日本だけでなく世界中がその程度の大きさだったようです。ダービーのような競馬の改良が進むまでですね。競馬馬は平均の高さが180cmというのですから、それは大きな違いです。

 

で、それだからといって、戦国時代の武田騎馬軍が優れていなかったかというと、そうではないと思うのです。騎馬を得意とする蒙古軍などの馬はいずれも小ぶりといってよいと思いますが、やはり強かったし、恐れられていたと思うのです。

 

そういえば兵馬俑には実物大の兵士と戦車と馬が残っていますが、兵士の身長はおおむね平均180cmくらいだそうですが、それと比べ、馬はかなり低いですね。中井貴一さんが案内役で兵馬俑の中をNHKで放映されましたが、そういう実感を得ました。

 

で、なにを書きたかったか、きちんと表現できたか不安になりましたが、もう時間となりました。今日はこれでおしまいです。

 


森と都市生活 <Country Gentleman 愛する森を守るために=C・W・ニコル>を読んで

2017-05-24 | 自然生態系との関わり方

170524 森と都市生活 <Country Gentleman 愛する森を守るために=C・W・ニコル>を読んで

 

夜はTVニュースを見ますが、朝は暗闇の中ではただ野鳥の鳴き声だけ。そして明るくなって起き出すとNHKFMのクラシック音楽を外まで聞こえる音量で流し放し。外で花に水をやっていてもその音と野鳥の声がうまくハーモニーになって新鮮な空気がさらに居心地よく感じます。

 

それでも新聞を手に取ると、イギリスでの自爆テロや北朝鮮のミサイル発射問題に、国内では共謀罪を盛り込んだ改正案が衆議院で可決しプライバシーの危機を憂う多くの抗議など、物騒な内容ばかりで、安らかな気持ちも長く続きません。

 

そして仕事もあまりはかどらない中、いつのまにか5時を過ぎています。本日のお題をと考えてもなかなか気が乗ってこず、少しは気分転換になるテーマをと思っていたら、ニコルさんの<Country Gentleman 愛する森を守るために=C・W・ニコル>の記事にふと目がとまりました。隣の<イチからオシえて 蓄電技術で電力変動に備え 再生エネ拡大「自然任せ」から「計算」へ>とどちらにしようか迷いつつ、二つを取り上げてみるのもいいかもと思ってしまいました。さてどうなることやら。

 

ニコルさんの記事は、以前もこのブログで取り上げたことがあると思います。それで関連記事を見ると、毎日新聞がニコルさんのコラムを今年3月から毎月1回掲載していて、これが3回目でした。

 

ニコルさんは、最初のコラム<大地に根を下ろす人への信頼=C・W・ニコル>で、次のように述べて、「究極の紳士」を理想像として、日本で田舎暮らしを続け、森と生態系の再生を目指して努力を続けてきた自負を語っています。

 

<日本の田舎に暮らして37年になるが、私は日本人の一人として「カントリージェントルマン」たるべく努力したいと思っている。>と。すごいですね。

 

では、Country Gentlemanとはどんな人かについて、ニコルさんは明快に述べています。

 

<田舎なくして、土地や水源なくして、都会生活は立ち行かない。英国で生まれ育った者にとって、「田舎に住んでいる」と言えるのは誇るに値することなのだ。

 英国では長きにわたり、「田舎」に土地を持たない都会人には選挙権が与えられなかった。暴動や戦争が起きた際、国を守るための人手や馬、食糧を集めることができないからだ。真の誇りとは土地に根ざしたものであり、土地を守り、育む者こそが人々の尊敬を集めたものだ。>

 

たしかに英国紳士といえば、貴族階級でしょうか。そして映画でしか知りませんが、広大な牧草地をもち、狩猟するのが重要な趣味でもあると感じたりもします。ただ、ニコルさんは、単に田舎に住んだり土地を持つことだけが紳士としての資格を認めているのではなく、「土地を守り、育む者」と述べています。

 

そして次のコラム<私を助けてくれた礼儀作法=C・W・ニコル>では、彼は英国と日本で礼儀を厳しくしつけられ、修練したことを指摘しています。その内容は新渡戸稲造が指摘するような奥の深いものとは言いがたいですが、十分な教育の機会を得なかったと思われる彼にとっては国立公園レインジャーとしての逞しい技量に加えて、この礼儀作法といったものが紳士に近づく重要な意味を持ったと思われます。

 

で今回のコラムでは、先の「土地を守り、育む者」を実践した生き様を示しています。彼は

北長野に80年に移り住み、その後黒姫山を中心に薮状態で違った意味で「沈黙の」森を次のようにして、見事に豊かな生態系が息づくアファンの森を作り上げ、維持しているのです。

 

ここまで書いて、来客対応をしていたらもう7時半になりました。そんなわけで後は簡単にして終わらせてもらいます。

 

<86年、私は地元の放置林の購入に着手した。いつかこの地に生物多様性豊かな元の森をよみがえらせようとの思いを胸に。それには地元の協力と専門の技術・知識が必要だ。ちょうど猟友会の仲間に、松木(信義)さんという土地のことを知り尽くした林業のプロがいた。それから16年、私たちはともに森林再生に取り組んだ。彼の勧めで、生まれ故郷ウェールズの森林公園にちなんで、森を「アファン」と名づけた。そして2002年、私は森林と資産を寄付し、財団法人「C・W・ニコル アファンの森財団」を設立した。>

 

そして、その活動は多様な仲間を呼び込み、森の復活とともに人々の心に共同して働く喜びを提供してきたように思えるのです。再び彼の説明を引用します。

 

<初めの16年は、活動や調査の費用を私が負担したが、現在は財団が引き継いでいる。財団ではあらゆる種類の調査を実施し、異なる分野の専門家を一堂に集めて、それぞれの活動について発表、その後全員で話し合う。これは実に意義があり、重要なことだと思う。すべての生命は必ずどこかでつながっている。異なる分野の研究家と話をするなかで、そうした神秘的ともいえる絆を発見するのは実に刺激的だ。討論の場には、大学教授も学生もいる。研究者、林業家、大学とは無縁の地元の専門家もいる。全員で意見を交換し、次に実施すべき調査や活動を決めるのだ。私たちが知らないことは、森が教えてくれる。>

 

コモンズとしての森林の利用は、都市住民にとっても多様な機会を提供してくれるいい例だと思うのです。さらに新たな取り組みが生まれてくるでしょう。カントリー・ジェントルマンたらんとするもの、いやカントリー・レディもですが、それぞれの森にチャンスが広がっていると思いたいです。

 

で、最後に、<イチからオシえて蓄電技術で電力変動に備え 再生エネ拡大「自然任せ」から「計算」へ>の記事にどんな意味があるかですが、見方によれば根は一緒ではないかと思うのです。ここでは、再生可能エネルギーの新たな活用が語られています。あるいはエネルギー利用の偏在を前提に、蓄電の新たな技術に言及されています。それぞれ、原発依存の社会構造から循環社会へ、そして地球環境の持続的発展への道を正当に探る方策として、評価できると思うのです。

 

ただ、それでほんとにいいのでしょうかということも考えておきたいのです。最近は省エネがかなり普及して、エネルギー消費量もだいぶ下がってきたかもしれません。それでも朝夕とか集中的に電気消費量が増大する傾向に大きな変化がなかったり、夏冬の冷暖房が一挙に集中利用され、極端に消費量が上がるといった傾向に大きな変化はないのではないでしょうか。またゴミの廃棄量はというと、一廃、産廃問わず、増える一方で、処分場の不足が問題になる状況は変わりません。なにかおかしくないでしょうか。

 

私はいま、いわゆる焼却ゴミの袋を出すのは月1回で十分です。それは極端かもしれませんが、昔ドイツの環境対応を取り扱った番組で放送されたある若い夫婦の映像が忘れられません。一ヶ月に出るゴミは小さな、そうあの海苔の入ったカンくらいのものでも余る程度なのです。水はというと流し放しで平気な日本人が多いですね。

 

再生利用エネルギーをさらに普及する努力は大切ですが、私たちともに生育する、あるいは生息する多様な生き物たちとの共生を図るのであれば、彼の生息域を狭めたり、その環境を悪化させる方向になっているわれわれの生活様式そのものに見直しの目を向ける必要があるのではないかと思うのです。

 

現代のカントリー・パースンは、コモンズとしての森林や沿岸域など水域の再生を目指す共同行動が必要であるだけでなく、都市生活により森林などの生態系を脅かすことを避けることが求められているのではないかと思うのです。それが地球生態系に生きる現代的作法、礼儀ではないかと思うのです。 これで今日はおしまい。


里山と生き方 <住・LIVING 雑草を生ける 野にある魅力を・・・>を読んで

2017-05-23 | 自然生態系との関わり方

170523 里山と生き方 <住・LIVING 雑草を生ける 野にある魅力を・・・>を読んで

 

さていつまで続くのか、暗闇の中での目覚めが常態化しつつあるようです。ま、黄泉国に行く予行演習とでも考えておけば気分は楽です。

 

親鸞は自分の遺体の処理について、鴨川に放擲しろといったとか言われていますが、その師匠・法然の場合は次のような話しが残っているようです。

 

<法蓮房信空が「お亡くなりになったら、どこをご遺跡と定めましょうか」と聞くと、「遺跡を一所に決めてしまうと、遺した教えがあまねく伝わり広まることがありません。ですから、念仏申している人が居る所は、身分の貴賎を問わず、浜で海藻を採ったり漁猟する人たちの粗末な家屋までもが、すべて私の遺跡です」と語りました。>(藤本淨彦著『法然』より)

 

遺体の処理・埋葬する場所と、顕彰なり供養する場所とは中世の墓制では違うこともあったので、わざわざ遺跡といった表現なのでしょうか。でも親鸞も法然も、遺体あるいは遺骨のありかにこだわっていなかったように思うのです。二人の信念からいえば当然かもしれません。

 

それはともかく日が昇り、外を見ると斜面地では少し繁茂してきた雑草が刈り取られていました。でもわずか直径1mくらいの小さな塊だけ残されていました。そこには細長い緑色の茎の先に、紅路の小さな花がたくさん咲いていていました。草刈人も気がとがめたのか、あるいは野草の美しさに魅了されたのか、刈り取る心持ちにならなかったのでしょう。

 

野草の名前は遠目なので、比定が叶わず、名も知らぬ花としておきましょう。そういえば、わが家の花たちも、すでに買って植えた苗は200を軽く超えますが、ほとんど名前を覚えられません。覚えることで認知症を回避しようと行った甘い考えも起こりません。名前を知らなくても、それなりに大事にすればいいかなと思っています。その意味では雑草といい、野草といっても、またガーデニングの店で買った名前のある花も変わりがないのです。

 

ところで、本日のお題と見出しの毎日記事<住・LIVING雑草を生ける 野にある魅力を、少しずつ>がどう関係するのか、まだいまひとつ、私の頭の整理が出来ていませんが、なんとなくこの記事を見て野草を取り上げるだけではぴんとこず、なんとなく「里山」の歴史と人との関係を考えてみようかと思ったのです。

 

さて毎日記事は、東京・銀座の花屋さんが野の花がもつ魅力を演出しているのを軽やかに取材しています。

 

花屋の<「野の花司(つかさ)」で生け方の教室を持つ小森谷厚さん(55)>が手ほどきを示しています。

 

<。生け方も自生する姿をお手本にし、流派や基本形はないという。

 生ける器は何でもいい。古いつぼや筆を入れる筆筒(ひっとう)、薬の空き瓶やおちょこ、急須でも構わない。かごや木の皮でも、見えない位置に水をためる小さな器(おとし)を置けば生けることができる。ただし、野の草花はたたずまいが控えめなので、色や柄が自己主張する器は避けたい。

 摘む時は、水で中をぬらしたポリ袋を持参するか、根っこごと持ち帰る。しおれたら新聞にくるんで水につけ、1~2時間置いてしゃっきりさせてから生けよう。>

 

実際に野の花を生けた写真を掲載していますので、その自然体がいいです。おそらく田舎の人なら少し関心のある方ならやっていることかもしれません。私も田舎にやってきたとき、野に咲く花の生き生きしている姿にほれぼれしました。

 

こういった生け花もいいですが、野草の庭造りをしている人も結構いるようで、たとえば<野草の庭・茶庭づくり風(ふわり)日本の庭づくりを提案>もその一つでしょうか。風流があっていいですね。

 

ところで粋な話をしているときに少し堅い話も。道端の野草を取ったからといって問題になることはないでしょう。むろん個人の住宅敷地だとこれはまずいかもしれません。ゴミのように不要物と理解されればいいんですが、草はなんといっても土地の「定着物」と扱われますので、勝手にはどうかと思いつつ、多くの野草は無価物と評価され、窃盗とかそういった問題にはならないと考えるのが常識的でしょうか。でも正当な理由もなく住宅敷地に侵入の点ではやはりアウトでしょうね。

 

それはともかく、野草であっても、植物採取で問題となることがあります。場所と種類ですね。これを取り上げた植物学者のウェブ情報<国立公園における採集許可の申請方法>がありました。この種の規制は、都市公園でもありますので、要注意です。私は屋久島、白神、釧路湿原など、世界遺産登録前に訪れていますが、「自然環境保全法」「自然公園法」「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律」「文化財保護法」に「都市公園法」(11条)による規制があることは百も承知していましたので、当然、美しい花や枝葉があっても、かわいらしい石があっても触れるだけで我慢したのです。

 

四半世紀以上前に、こういった規制と規制基準をほとんどの土地利用法制について省令まで調べて表にしたことがあります。いまと違ってウェブ情報でさっと見つかるわけではなく、当時の各省庁所管の六法などを頼りに、鉛筆なめなめではないですが、時間をかけて表にしたのを思い出しました。いまだとたとえば自然公園法とか同法施行規則とか、すぐに見つかりますし(六法を買わなくてよくなりました!)、検索も簡単です。

 

でも法制度のどうかというより、実際に許可申請するとなると、さきの植物学者が指摘していますように、大変な書類作成作業が待っています。それが面倒だから、いや許可事由もないのに、植物を採取することはぜひ避けてほしいと思うのです。屋久島など自然環境保全地域を訪れましたが、外国だと通常、環境省などのレインジャーがガイドしてくれるのですが、残念ながら、民間ガイドに依頼しました。むろん彼らは相当の知識を持っているので、それはそれで信頼できるのですが、我が国ではレインジャーが不足している一方、公園事務所での許可などの書類審査作業が多すぎて、現地調査や監督という役割が十分果たせていないのです。それで盗掘も結構多く見逃されています。

 

となかなか里山の話に入れないのですが、そこに行く前に、野の花を使っての生け花や庭造りもいいですが、私の場合は山自体を野草の楽園のようになればと思ってしまうのです。いま全国に放置され、荒廃している、山林・農地の面積はどのくらいあるのでしょう。後者は40haとかなり前から同じ数値が農水省で発表されていますが、現状把握ができていない中、あまり信頼性のある数字とはいえないでしょうね。もっと増えていると思っています。前者の森林となると、それこそきちんとした統計があるのでしょうか。私がこう表現を初めて聞いたのは80年代半ば頃でしょうか。いろいろな林業地を訪ね、首長や森林組合などからヒアリングしてきましたが、森林管理が行われていない状況はどんどん悪化する一方のように思えるのです。

 

最近は林業再生ということで、搬出間伐補助事業が相当増えてきて、その点では間伐による森林の適度な育成に役立つようにはなってきたかと思いますが、植林から枝打ちや下刈など、将来に向けた森作りとなるとお寒い状況ではないかと思うのです。

 

その一因としては、東日本と西日本の森林の経営なり管理は相当違うので、一概にはいえませんが、西日本では戦前から残っていた地域共同体(あるいはその構成員)による里山管理がほぼ壊滅状態になっているのでないかと思っています。それと野の花とどう関係するかなんですが、里山を生かしていると、野の花が快適に生育する環境が生まれるのではないかと思うのです。

 

で、野の花の再生は、森林が利活用されることにより可能となると考えていますが、それには、担い手を見いだす必要があると思うのです。野の花を見て歩く人は少なくないでしょう。ウォーキングやハイキングの好きな人は大勢いるでしょう。元々、里山は中世には後山(うしろやま)といわれ、その頃から地域の農民にとってコモンズ的な方法で、利用されてきたのではないかと思うのです。

 

それが明治政府、さらには戦後の施策により、私有権の対象として個人所有となったところに、問題があるように思うのです。コモンズとして蘇らせることにより、里山・森林がもっている本来の多様な機能を多くの人が享受してその恵沢を楽しむことができるのではないかと思うのです。

 

野の花もその一つです。精神的に悩み苦しむ人の憩いの場所、癒やしの場所にもなり得ると思うのです。いや、そういった里山再生のための活動こそ、真のハタラクになるかもしれません。

 

政府は、特区制度の効用として、法人が耕作放棄地で農業を行うことで一石二鳥的な自慢をしているようですが、それ自体の効用を否定しません。しかし、問題は自民党を生み出した農地制度にどっぷりつかっている状況では、真の農地・森林の改革が困難ではないかと思うのです。岩盤はどこにあるか、もう少し検討してもらいたいと思うのです。

 

そして、いま岩盤にくさびをいれ、人の多様性を受け入れ、また種の多様性を保存・発展するには、コモンズ思想の具体的な実現こそ必要ではないかと思うのです。それが実現したとき、野の花は真に美しく咲き誇り、老若男女、障害のある人ない人、人種の差別、性差を超えて、生き生きしたコモンズの世界が広がるのではないかと、甘い夢かもしれませんが見ています。

 

今日はこれでおしまい。

 

 


蚊はお友達? <継続は力なり わかやま100年企業の挑戦 ライオンケミカル・・>を読んで

2017-05-15 | 自然生態系との関わり方

170515 蚊はお友達? <継続は力なり わかやま100年企業の挑戦 ライオンケミカル・・>を読んで

 

今朝は光りが鈍く感じられました。外を見ると薄曇り。野鳥の鳴き声もまだか細い。と、なにか飛翔体発見。おやおや蚊でした。あのブーンという音もなく、血を吸うこともなくどこかに飛んで言ってしまいました。そろそろ蚊が登場する季節になったのでしょうか。まだ朝晩はひんやりさが残っているので、蚊が元気な夏のようにはいかないのかもしれません。

 

そういえば当地にやってきて体調回復を兼ねて日々草刈をしていましたが、蚊は始終つきまとってくれました。携帯用の蚊取り線香を腰に付けて作業をしていましたが、なるほど蚊の方はほとんど登場しませんでした。時折忘れると、案の定、これ幸いとずいぶんと血を座れてかゆい思いを何度もしました。時計を携行しない(むろん携帯電話も)ので、時間は蚊取り線香がある程度なくなった頃合いで作業を止めたりもしていました。

 

とはいえ、蚊取り線香だと、しっかり留めていないと、大鎌を振るったり、木に登ったりしているうちに、落としたり、途中で開いたりして、蚊取り線香を落とすこともあります。それで携帯用電池式蚊取りを使ったりもしていましたが、煙も音もないので、効いているのかよくわからず、ある時期からはまた蚊取り線香に代わりました。

 

というのは、蚊はどちらかというと難敵ではないのです。刺されても多少かゆい程度で、腫れ具合もさほど気になりません。ところが、アブさん(南海ホークス時代の代打男として漫画で一時期有名でしたが、名前の由来は?)やブヨだと、これは大変です。だいたい、蚊取り線香はまった効いた試しがありません。電池式も同じです。しかも彼らはひたすらどこまでもまとわりつくのです。音もかなりでかく(スズメバチほどではありませんが)、刺された(皮膚をかみ切るそうです)後は痛いし、その腫れ具合は私自身多少皮膚アレルギーがあるため、目の周りなどだと開けられないほどです。どこでも刺してくるので、しかも作業中ずっとまとわりつくので、これは忍耐です。

 

アブやブヨの襲来ばかりに気を取られていると、下ではマムシが徘徊しているので、これにも注意を払わないといけないのです。そんなわけで、蚊取り線香の効用は、草刈の場合さほど感じませんでした。とはいえ、春先から秋口まではいつも携行していました。

 

ところで私自身の幼い頃というと、蚊帳の方が懐かしいですね。蚊が入らないように、うまく蚊帳に入るといったこと、蒸し暑いけど蚊の襲撃には十分な防御壁でした。最近ではアルミサッシの窓にエアコン付きの部屋ということで、蚊帳を見ることもなくなりましたが、現在も熱帯地方などでは重宝されているようです。

 

と長々といつもの前置きが続いていますが、今日のテーマ、どう取り扱うか悩みつつ、書いています。なぜか毎日記事<継続は力なり わかやま100年企業の挑戦 ライオンケミカル 特許流出し輸出が激減 下請け専念経て反転>が気になり、お世話になっている蚊取り線香発祥の地が和歌山なんだということもあり、少し蚊について考えてみたくなったのです。

 

だいたい蚊取り線香がない時代、どうしていたのでしょうね。良寛さんの伝承の中には、蚊の命も大事ということで、自分の足を差し出して吸わせたという話もあるようですが、なんとなく納得させられそうです。

 

なにせ仏教の戒律は殺生禁断ですからね。私自身、気持ちは蚊も命ある生物ということで、殺したくない思いをもっています。たいていの虫は、ゲジゲジだろうが、ムカデであろうが、家に入ってきても殺すことなく、外に出してやるのです。昆虫もそうですね。野鳥なんかは当然です。が、蚊はそうすることを心がけつつも、ついぱちっとやってしまいます。

 

では空海さんはじめ、名僧の方々はどうしたのでしょうか。法然さんは穏やかで優しそうですので、やはり蚊は殺さなかったのではと思ったり、日蓮は強烈な攻撃的な性格を持っているので殺したのではないだろうかとか、いろいろ妄想をはじめてしまいそうです。

 

江戸時代の俳人でも、芭蕉になると、やはり情緒のある句を残していますね。

 

わが宿は蚊のちいさきを馳走也 芭蕉

 

これに比べ、生活苦と実家を固執する執念のような生き方をした一茶の場合結構多くて生活感がよく出ています。

 

蚊一つの一日さはぐ枕哉 一茶

年寄と見るや鳴蚊も耳の際 一茶

一つ蚊のだまってしくりしくり哉 一茶

釣鐘の中よりわんと鳴く蚊哉 一茶

昼の蚊やだまりこくつて後から 一茶

 

意外と蚊は孤独の俳人に愛されたのかもしれません。とりわけ子規はすごい。彼の東大予備門時代の初期の句と、亡くなる直前と思われる句を取り上げますが、その間に膨大な数の句で蚊を取り上げています。これまた不思議ですが、それほど生活と密着していたのが戦後初期以前の時代だったのかもしれません。

 

蚊柱や蚊遣の烟のよけ具合 M21 東大予備門

氏祭これより根岸蚊の多き M35 9.19

 

晩年の住まい、根岸付近は当時、不忍池も近いですが、緑濃く湿地も多かったように思います。きっと蚊もわんさといたのでしょう。でも亡くなる直前まで、蚊を単に嫌なやつとせず、近づけたくない、殺したいといった感情とは異なる、なにか優しさを感じさせる眼差しを感じさせてくれるのは、長い闘病生活を共にした戦友とでも思っていたのでしょうか。

 

こういった風情は、一般庶民には感じる余裕もなく、蚊の退治こそ求められていたのかもしれません。「蚊取り線香」をウィキペディアで見ると、

 

<和歌山県の上山英一郎(大日本除虫菊株式会社の創業者)は、1886年に福沢諭吉より紹介されたH.E.アモアより除虫菊の種子を譲り受ける。・・・(省略)・・・

そこで上山は、今度は線香に除虫菊を練り込むことを考案、1890年に世界初の棒状蚊取り線香「金鳥香」が誕生した[3]。>

 

最初は棒状だったんですね。でも<棒状のものが製造されていたが粉末のものは扱いにくく、棒状のものは立てて使うために線香が倒れ火災が発生することも少なくなかった。最大の欠点は、一度の点火で長時間にわたって燃焼させることが、線香の形状から難しかったことで、約20cmの長さで約40分が限界だった。棒状線香を単純に伸ばしただけでは燃焼中に倒れやすくなるので延長にも限度があった[2]。>いろいろ欠陥があったんですね。

 

<渦巻き形の蚊取り線香のデザインは、1895年からのものであり、上山の妻・ゆきの発案とされる[3](倉の中でとぐろを巻く蛇を見て驚き、夫の元に駆けつけ告げたのが発想の元になったという)。このデザインにすると、燃焼時間が長くなり、かつ嵩張らない。例えば、大日本除虫菊の製品では渦巻きを解きほぐすと全長は75cmに達し、一度の点火で7時間使用できる[4]。>

 

蛇のとぐろを巻くのをヒントにしたというのはすごいですね。私もなんどか遭遇したことがありますが、あれは攻撃体勢をとっているので、いつでも襲いかかろうという状態ですから、私の場合はとても緊張して(金鳥ではありませんね)、襲ってきたらどう対応しようかと考える程度が関の山です。

 

ところで、毎日記事は、金鳥の和歌山県の上山英一郎(大日本除虫菊株式会社の創業者)ではなく、ライオンケミカルという会社を取り上げています。<1885年設立のノミ取り粉メーカー「山彦製粉工場」が前身の同社は、1943年に線香のペーストを渦巻き状に加工する世界初の自動製造機を開発。原料が除虫菊の花から化学合成品に代わった戦後には、菊の葉をイメージさせる緑色の線香を初めて作るなど業界をリードする企業に成長した。>同社が自動製造器を開発したのですね。最初は手作りで渦巻き状にしていたのですから、大変ですね。

 

その後栄枯盛衰を経て、<01年に現在の社名に変え、営業部門も復活。下請け時代に培った技術を生かし、天ぷら油処理剤や芳香剤を開発。イオンのプライベートブランド「トップバリュ」やマツモトキヨシの製品の製造も始めた。外資系の看板を下ろして18年、売り上げは4倍になったという。>ことで、継続こそ力なりということです。

 

蚊取り線香の話しからいろいろ話しが飛んでしまいましたが、蚊はやはり人間のお友達かもしれません。カナダは寒さの厳しい国土ということで知られていますが、中央に位置するマニトバ州の州鳥(公式にはカラフトフクロウ)は、俗にモスキートと言われているほど、夏場はその一大生息地になるそうです。目を開けていられないくらいになるとも聞きました。冬はマイナス50度、夏は40度近い寒暖差がすごいのです。それに湿地だらけです。ま、蚊にとっては天国かもしれませんが。

 

でもマニトバに住んでいる人たちは、Tシャツに蚊の絵柄をデザインして、自慢しています。とはいえ、蚊は、黄熱病、デング熱、脳炎、マラリアなど多数の伝染病の媒介者です。私も熱帯林調査の際はその都度予防接種した記憶です。でもウェブ情報をみると現在はありませんということで、私が通った四半世紀前とは違うようです。

 

だいたい、ボルネオなどのジャングルで生活をしましたが、蚊に刺された記憶がありません。川の水も生活している先住民のロングハウス付近では衛生状態がよくなかったので、決して快適環境とはいえなかったように思うのですが、記憶に残っていないのですね。川は結構な大河(バラム川)が近くにあり、そこで毎日水浴びをしていましたが、水を飲まないようにしていたくらいで、幸い病気にもならず過ごせました。心配した蚊にやられず、蚊を敵にすることもなく、今日に到っているのは、幸運なのか、わかりませんが、今後も生きている限り、蚊とは付き合いそうです。

 

今日はいつも以上に何を書こうか決めないまま、書いてきましたが、そうそろ終わりとします。


北極圏の魅力と闘い <グレートレース「大氷原に立ち向かえ・・」>を見て

2017-05-07 | 自然生態系との関わり方

170507 北極圏の魅力と闘い <グレートレース「大氷原に立ち向かえ・・」>を見て

 

今朝も体が重い感じで目覚ました。どうやら作業疲れとは違うようです。とりあえず血圧を測ると上が140を超えています。以前、具合が悪いとき測ったときもしばらく140越が続き、循環器系の専門医師などに診ていただいたことがありますが、いろいろ検査しても異常がみつからず、しばらく安静にしていたら次第に回復したことがあります。

 

人の体は分からないものですね。最高血圧も一つの兆候とはいえ、家康ではないですが、自分で養生することがやはり肝要でしょうか。

 

最近はあまり書籍をいただく機会がありませんが、今年は2冊頂きました。折角ブログを書いているので、我流の書評というより、紹介的な文を書こうと思いつつ、なかなか筆がすすみません。ともかく一冊だけ紹介しておきます。私も一応関係している、地盤工学会の関東支部地盤リスクと法・訴訟等の社会システムに関する事例研究委員会編で「法律家・消費者のための住宅地盤Q&A」という本です。59日発行ですので、今日段階ではまだ書店にないかもしれません。

 

執筆者は地盤工学や地質のプロが中心になっていますので、少し技術的な解説書といった色合いがありますが、専門家向けではなく、戸建て住宅を購入する消費者、そして法的処理に対応すべく法律家に、基本的な情報を提供する内容です。私自身、分譲地の地滑りやマンション建設に伴う崖地の危険性など多様な地盤リスクの問題を取り扱ってきましたが、こういう基礎的情報を取り扱った書籍があまりなかったので苦労しました。

 

多くの戸建て住宅の購入者は、建築物自体の安全性には注意を払いますが、その地盤の安全性についてはさほど重点を置かないように思います。販売業者側としては、分譲地の過去の地形的変遷や災害歴、あるいは土砂災害警戒区域等マップなどは最低限抑えておくべき情報でしょう。それでも個別の土地一つ一つは特性がありますし、とりわけ初期の分譲開発で残された法地などの開発ではより注意が必要です。

 

いろいろ書きましたが、本書は、戸建て住宅の地盤調査で基本的なスウェーデン式サウンディングについて詳細に解説しており、その意義・限界などを理解するにはよいかと思います。また、地盤評価で常に話題になるN値の意味などもわかりやすく解説されています。建築物については81年の新耐震基準で対応できるとされていましたが、95年の兵庫県南部地震では液状化が多く発生して対応できなかったことを踏まえ、01年改定の建築基礎構造設計指針についてもしっかり言及されています。

 

地盤リスクの問題は、非常に専門的で、最終的には専門家の調査・解析を求めるとしても、素人も一定の理解力を持っておいた方がいいと思います。そういった場合の基礎的情報を提供してくれる書籍だと思いますので、参考になるかと思います。

 

さてぼやっとした頭の中で、書いていますが、昨夜、55日放送を録画していたNHKグレートレース「大氷原に立ち向かえ~カナダ北極圏567km~」を見ました。そのときもピンぼけ頭でしたが、見ているうちに極寒の極限状態で闘う姿勢に感動して、レースの選手たちの心情が魂を揺さぶるほどになりました。

 

このグレートシリーズは割合好きで、よく見ていますが、とくに北極圏は私自身も思い入れがあったので、どんな場所でレースするのか気になっていました。すると、出発点のホワイトホース、最後の難関、マッケンジー川、そして終点のトゥクトヤクトゥク(Tuktoyaktuk

は、いずれも私が訪ねたことがある場所でした。最後まで見て分かったのですが、それまでの彼らの自らとの、また、厳しい自然との、それぞれの死闘は圧巻でした。

 

その中で、3人がとくに心を揺さぶらされてしまいました。一人は終始トップを走ったルーマニア人。彼は断トツでトップを走り続けながら、足が凍傷寸前になっていました。げ平均マイナス38度、おそらくマッケンジー川の凍結した氷上ではマイナス50度近かったかもしれません。ゲーム主催者側の医師は、彼の足を見て、これ以上進むと手で這っていかないといけない、と言って棄権を勧告しました。しかし、彼は悩む様子もなく、その凍傷寸前の足を見ながらも、断固前に進むことを温和にそして平然と言うのです。アイスマンと評されるだけ、なんともすごい、そして柔らかな表情をもって人と接する、強靱な精神の人だと感じました。

 

次は2位になったたしかイギリス人だったと思いますが、一型糖尿病の疾病をもつ人で、障害や病気をもっていても、やり遂げる意思を貫けば、どんな厳しい試練でも達成できることを証明したいと、多くの障害者などのためにとの意思、そしてその彼を支えてくれる家族のために、走り続けていました。途中でインスリンの欠乏状態を測定する器械が故障した際も、危険をかえりみず手袋を脱ぎ、注射して血液検査をするなど、その熱い思いに感動するばかりでした。

 

最後はなんと日本人です。これまで2度挑戦して、凍傷にあい、完走できなかった悔しさと、ゲーム中に見たオーロラの素晴らしい空を見て、初めて授かった長男の名前を空にしたこと、その息子のためにも、一旦決意したら必ずやり遂げることを親として示したいという、なんとも素晴らしい精神で、今回再びチャレンジしたのです。彼も凍傷の危機にさらされていました。これまでの経験を踏まえてクッションのいい靴など装備をしっかりしていたのですが、その靴も厳しい寒さで、氷の板をはいている状態で歩く感覚になっていたというのです。それでも彼は、息子、家族のために、また自分自身のため、最後まで走り続け、完走を成し遂げたのです。

 

いずれも北極園の痺れる、凍てつく強風、下は永久凍土か氷上、それ以外に隠れたり、逃れたりできない、ただ見渡す限り真の自然の厳しさの中、それぞれの思いを達成するため、8日間567km、漆黒の暗闇を、突風で何も見えない中を走り続け、やり抜いたのですから、あっぱれというしかないですね。

 

さて、最後に私の経験を少し述べておきます。私がホワイトホースを訪ねたのは、たしか夏だったと思います。カヤックでユーコン川を少し下ったことを覚えています。私が訪ねた目的はそこにあるユーコン準州の政府で、当時、世界的に環境法ないし環境アセスメント法の立法化が進みつつあった90年代において、91年におそらく最も進んで環境権規定を整備した環境法を制定したので、どのような運用をされているのかヒアリングのため出かけていったのです。わが国ではカナダではオンタリオ州の環境法に規定された環境権が著名ですが、ユーコン準州はいまでもそれほど知られていないのではないかと思っています。

 

わが国の環境基本法も、環境権規定をおくかどうかですったもんだして、抽象的な意味合いの規定にとどまっています。アメリカは80年代に先進的な環境権規定を整備しましたが、各法律や州法で定めていて、その権利の内容、手続き保障なども相当異なります。

 

これに対し、ユーコン準州の環境法は総合的で具体的で、実効性を保障するものとなっています。ホームページでは2002年以降現在の改訂版しかありませんが、私は91年版を入手し、どこか資料の中に埋もれていると思います。環境権規定は、6条から37条まで定めていますので、その一部、それも見出しだけ引用します。これだけ見ても何が何だか分からないと思いますが、環境権についての思い入れを感じさせるもので、オンタリオ州を含めカナダの国・州の環境法の中でも、最も詳細に規定しているのではないかと、今でも思っています。最近、こういった法制度はあまりはやらないのも一つかもしれません。仏作って魂入れずという話もありますが、ユーコン準州の場合もそういう印象をヒアリングで受けました。

 

Environmental right 6

Declaration 7

Right of action 8

Defences 9

Common law rules 10

Impairment caused by contaminant 11

Remedies 12

Minister’s involvement 13

Request for investigation 14

Acknowledgement of application 15

Reports by the Minister 16

Time for investigation 17

Penalty for false statements 18

Private prosecution 19

Protection of employees 20

Complaints 21

Duties of the Minister 22

Yukon Council on the Economy and the Environment to review complaints 23

Report of the Council 24

Minister’s reports 25

Confidentiality 26

Regulations 27

Rule making 28

Public review 29

Public hearings 30

Ministers Report 31

 

マッケンジー川ですが、これはカナダで著名なトーマス・バーガーによる「マッケンジー渓谷パイプライン計画審査レポート」の舞台です。北極海沿岸の油田地帯からマッケンジー渓谷を通って南部カナダまでパイプラインを引くという、70年代の先住民を無視した石油資源開発に対して、元最高裁判事だったバーガー氏がその計画のアセスメントを行い、そのレポート出版したところ、大流行したものです。彼は、こういった計画では一度も行われたことがない、先住民の声を各地で聞き取り(パブリックヒアリング)、自然生態系の調査を行い、当該計画がもつ文化的、経済的、社会的影響、それに先住民の権利への影響を見事に取り上げたのです。その結果、この計画はなくなり、その後先住民の権利は現在に到るまで裁判等で次第に確立していくようになったと思います。

 

マッケンジー川や渓谷は空から見下ろすと、とてもすばらしい景観です。私自身はイエローナイフから河口付近の都市・イヌビクまで、空から眺めました。その後、油田開発計画のあったトゥクトヤクトゥク(Tuktoyaktuk)を訪れたのです。そこはまさに北極海に突き出した岬の端にある小さな町で、おそらく70年代油田開発計画で、ゴールドラッシュのような勢いで調査業者などが押し寄せたのだと思います。

 

私が訪れたときは、打ち捨てられた鉄の塊のようなものが散在しているものの、わずかの先住民が暮らす集落でした。その一人がガイドをしてくれ、狩猟に代わり、氷上に穴を開けて漁網で魚を捕る作業を見せてもらったり、10m近い深い穴の底に、永久凍土の穴蔵があり、そこに収穫した魚を保存しているのを見せてもらったり、現在の先住民、イヌイットの暮らしの一端を見せてもらいました。

 

昔狩猟した北極熊の燻製を自宅の壁に飾っていて、私と一緒に写真を撮ってもらいましたが、現在ではシロクマの狩猟は禁止されていて(一部では許容されているようです)、昔の銃による狩猟生活を懐かしがっていました。

 

とこういった話しも思い出すといつまでも続くのでこの辺でおしまいとします。

 

ぼやっとした頭も少しましになってきました。北極は私自身、いろいろと影響を受けたので、これからもなにか情報と出会うたびに書いてみたいと思います。