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たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

景色を見るとは <「ジオ・ジャパン絶景列島を行く」>と<白川義員“天地創造”を撮る><天空の旅人 錦秋列島を飛ぶ>を見て

2018-02-15 | 心のやすらぎ・豊かさ

180215 景色を見るとは <「ジオ・ジャパン絶景列島を行く」>と<白川義員“天地創造”を撮る><天空の旅人 錦秋列島を飛ぶ>を見て

 

昨夜、NHKの<「ジオ・ジャパン絶景列島を行く」第1集「九州・沖縄」>を見ました。和久田さんが一時間のナレーションを通しでやっていました。印象はさらに発展することを期待できる魅力を感じます。

 

ところで、先の列島誕生に続いて、今度は現在の日本列島について、各地域ごと、その絶景ポイントとその成り立ちの地球物理学的な要因を明らかにするものです。

 

撮影された場所は、いずれもプレートテクトニクスの大変動が見られる、また現在も動いている様子を感じることができるところで、興味深いものでした。その成り立ちがフィリピン海プレートに高温部分と低温部分が分かれていて、それが九州と西南諸島とのところで分かれ、前者が火山活動を活発にして、後者は火山活動がなく、珊瑚礁が広がるという大きな違いを見せているとのこと。

 

九州に活火山が多い、しかもカルデラ火山がまるで東北方向に一直線のように並んでいるのも不思議ですが、基本的にはフィリピン海プレートの熱いマグマがその下に沈み込んでいるために、マグマだまりができて、このような現象が起こっているようです。

 

興味深かったのは、フィリピン海プレートが深く沈み込んでいる西南諸島の裏側に当たる東シナ海では、日本列島が大陸から分離する構造と同じ現象が起こっていて、現在西南諸島1200kmのうち1000kmが深く沈み込んでいて、トラフを形成しているという点です。いずれは大陸プレートから離脱するような海溝が生まれるのでしょうか。

 

しかもそのトラフは島原半島近くまで延びていて、その影響はさらに進捗する可能性があるとのこと。その方向をみるとまるで中央構造線帯の東西線に結びつくような印象を抱いてしまいそうです。

 

景色を見るにしても、外形的な形状や美しさだけで満足できる場合もありますが、その成り立ち、要因をしり、それが将来どう変化するかも予想することも、興味が尽きません。

 

ところで、同じく撮影する場合でも、写真家というか、撮影する人の意識、能力などさまざまな条件により、ずいぶんと違う見方をするものだといつも思うのですが、その例として、以前の録画していたのをたまたま先日同時に見たので、この二人を勝手に比較してみたいと思います。

 

一人は白川義員氏、世界的に著名な写真家で、そのスケールの壮大さはいつ見ても桁外れな方だと思うのです。もう一人はまだあまり名前が知られていない(私人が初めて見た)多胡光純氏です。

 

白川氏はすでに高齢ですが、一方の多湖氏はこれからの青年といってよい方です。私が見た<NHK 白川義員“天地創造”を撮る>では、まず最初の舞台として北アメリカ大陸コロラド高原を取りあげ、彼がどのようにして対象に迫り、対象を切り取る視点、時間、方法を密着取材で取りあげていました。

 

コロラド高原はグランドキャニオンで有名ですし、たいていの人はその壮大な太古の眺めに圧倒されます。私もその一人ですが、撮影した写真もどこかにいってしまうほど、おざなりの写真で、私自身愛着もないほどです。体験するだけでも十分かなと思うのです。

 

しかし、白川氏の撮影は、緻密な計算の元、経済的にも多額の費用を投じていることがわかるものです。地上から眺めた風景に満足せず、空撮を試みるのですが、さすがにドアを取り除き、風圧をものともせず、かなり厳しい条件で高齢とはいえ鍛えた体で、一瞬の映像を切り取る姿は見事です。

 

私もチャーターしたセスナ機で、ドアを外してもらってビデオ撮影したりカメラ撮影したりしたことがありますが、その風圧は尋常でなく大変です。まして空高く上がれば、その厳しさはシャッターを切るだけでも大変です。その気体の揺れに対応するのも能力です。若ければともかく、白川氏のプロ意識は、さすがと思いました。

 

白川氏が描きとる自然の造形美は太陽の輝く一瞬でしか捉えられない絶妙の美です。その大地が地球大変動を経て作り出した見事な曲線美や多彩な色彩美、メモをとらなかったので、うまく表現できませんが、言葉で紡ぐことのできない、やはり鑑賞してなんぼの世界でしょうか。

 

これに対し多湖氏は、<NHK 天空の旅人 錦秋列島を飛ぶ>の中で、みずからエンジン付きパラグライダーを操作して、空から錦秋列島を北海道から沖縄まで撮影していく企画を実践していました。

 

これまた風圧の影響が大変なものですし、地上と高い空中だと気象条件は一変しますので、見えていたものが見えなくなったり、見えてなかったものが突然現れたりと、変化に富むものです。

 

で、私は多湖氏のアプローチにとくに感心したのは、地元の人たち、子どもも含めて多様な人たちとの交流を大事にする点です。この点、白川氏はまさに従来型のプロ写真家でしょうか、孤独に向き合い、あまり人との交際をしている印象はありません。

 

多湖氏の場合、紅葉を追って南下する作戦ですから、ちょうど訪れたときに紅葉でないこともあります。たしか下北半島だったと思いますが、まだ緑豊かな世界でした。で、その撮影を辞めて、とある小学校に舞い降りたところ、在学生全員で4名が全部やってきて、楽しい遊び時間となりました。

 

その後十和田湖が紅葉となったということで転戦するわけですが、そこにあのときの小学生から手紙が届くのです。その中に、彼らが撮影した、多湖氏が狙っていた場所の見事な紅葉の写真が送られてきました。

 

こういう景色の見方もあるかな、それもすばらしい景色の鑑賞方法だと納得してしまいました。

 

景色をどうみるか、どうそれに近づくか、どう感じるか、それぞれのやり方があるでしょう。白川氏のように絶対的な景観美というか存在感をつかみ取るのも一つです。多湖氏のように自らの命の危険をかけながらも空撮を続けつつも、各地域の人との交わりを大事にすることでその景色が生まれる人の暮らしを活かすやり方もあるでしょう。

 

私のfb仲間(もう2年くらい離れてしまっていましょうか)に、カヤックで日本一周をした人がいますが、彼は早く一周するのではなく、各地の地元に立ち寄り、その地の人と交流を深めながら続けていました。その写真なり動画がネットでアップされるので、各地にファンも多く生まれたことでしょう。こういう海からの景色も多様でとてもすばらしいものです。

 

そろそろ帰る時間となりました。今日はこれでおしまい。また明日。

 


危機への人間力 <信越線15時間立ち往生>を見て思う

2018-01-15 | 心のやすらぎ・豊かさ

180115 危機への人間力 <信越線15時間立ち往生>を見て思う

 

113日、14日のセンター試験はおおむね無事終了したようですね。ほっとします。前日の大寒気到来、猛吹雪で、雪になれているJR信越線で発生した15時間あまりの立ち往生は、監禁状態とか地獄とか非難の声が上がっていました。JRの甘い実通し、出発と立ち往生に対する処置や情報伝達の不備、さらには除雪車の大幅な遅れなど、批判の多くは当然でしょう。

 

むろん異常寒波は時に起こるわけですが、すでに北極で発生した寒気団がNYで大変な激寒が今後、国交省がこの問題の原因と対応策をしっかりと検討して二度とこのようなことがないようにしてもらいたいものです。

 

乗客の中には翌日のセンター試験を控えた受験生もいたようで、この疲れで成績に響かなかったことを祈りたいと思います。

 

ところで、私がこのテーマを取りあげる趣旨は、JRの対応については今後の調査を待って検討しても良いかと思いますが、15時間あまりの立ち往生での電車内での乗客同士におこった出来事についてです。

 

この件についてもいろいろに報道されたり、ウェブ情報でも取りあげているようですが、多くは批判的なコメントでした。たとえばNHKは<NHK JR信越線が半日以上立往生JR「時間かかり申し訳ない」>とおおむね客観的な報道となっています。

 

まず事件の概要は<11日夜7時前、新潟県三条市のJR信越線で、新潟発長岡行きの4両編成の普通電車が大雪の影響で踏切付近で立往生し、その後、先に進みましたが、再び動けなくなりました。電車にはおよそ430人が乗っていて、半日以上にわたって動けなくなりましたが、JRが除雪作業を進めた結果、12日午前10時半前に移動を始め、11時すぎまでにすべての乗客が電車から降りたということです。>

 

電車内の様子、病気になった人などについては<電車には、電気や暖房、トイレがついていましたが、車内は混み合い、長時間立ったままの乗客も多く、消防によりますと、40代の男性が脱水症状を訴えて病院に搬送されたほか、女性2人も体調不良を訴え消防に救助されました。>と簡潔に指摘しています。

 

乗客の声も取りあげています。<午前4時半すぎに電車から降りた高校2年の女子生徒は「1人で心細かったです。学校の帰りにたまたま乗った電車がこんなことになってびっくりしました。立ったままだったので体があちこち痛いです布団で寝たいです」と話していました。

 

高校3年生の受験生の息子を待っていた47歳の父親は「ぎゅうぎゅうに詰められて立ちっぱなしになっていて、足がもう限界だと言っています。JRに電話しましたが、情報が何もなく対応が悪いです」と話していました。>

これらは当然の声でしょう。私も同感です。

 

その中に興味深い声も掲載されています。<その一方で、午前7時ごろに半日ぶりに電車を降りた高校1年の女子生徒は「電車の中では座っていた人が長時間立っている人のために席を譲っていました」と話すなど、長時間、席に座れず立ったままとなっていた厳しい環境の車内で多くの人たちが助け合いながらしのいだという声も聞かれました。>

 

そして、この記事に関連して、昨日の朝、NHKニュースでは心温まる内容が放映されていて、ちらっと見てとても感動したからです。

 

80代の白い帽子をかぶったお年寄りが座っていて、その前に立っていた女子高校生に席を譲ったのです。それを見た別の方がおばあさんに席を譲り、今度はおばあさんがまた別の人に席を譲るという、席譲りが連鎖したのです。まるで童話『どうぞのいす』の世界が、下手すると険悪なムードの車内でほのぼのとした感覚に多くの乗客がなっていったのだと思うのです。

 

しかもこのおばあちゃん、語りも達者で、地元の名産の話しや話しかけを行ったり、たしか歌も歌ったとか。なんてすてきな方でしょう。おばあちゃんの心温まる情感が車内にいる人全体にシンフォニーのように伝わっていったのではないでしょうか。

 

映像に映っている中には、「監禁」に近い状態だった乗客が救出され外にでたときも、解放されたという喜びだけでなく、焦燥感を感じさせない心の余裕と心奥から醸成された喜びに浸っている印象すら窺えました。

 

このような厳しい環境は、ある種ノアの箱舟に同乗しているさまざまな人たちで、ある種偶然の出会いでしかないのでしょうけど、厳しさの中に譲り合う心、話しかける心、歌い合う心があれば、人は苦境を乗り越えられることを意味しているようにも思えるのです。

 

そういえば、半世紀前私が電車通学をしていた頃、まだ電車の中にはそんな情感が残っていたようにも思えます。知らない人同士が話し合うということも希ではなかったように思います。私はあるとき、そういう大人の一人から、同じ駅で降りて自宅に急ごうとしたとき、たしかもう11時頃だったと思いますが、まだ食事もしていないのを知ると、まだ空いていた駅前食堂に誘ってくれ、暖かいラーメンをおごってもらったことがあります。まったく知らない人で、それ以降合ったことがありませんが、この思い出はいまも熱く心の中に残っています。そんな情感の人たちが乗客にはいた時代かなと思うのです。

 

そういえばわが国は、維新前、多くの人が旅を好みお伊勢参り、富士講、出雲参りなど、いろいろな名目で旅をしていたと思います。そして街道沿いの人は喜んで旅人を迎えていたのでしょう。当時で言えば日本人といえども異国の人ですね、こういう旅人をだれもが歓迎する心持ちを育ててきたのではないかと思うのです。

 

イザベラ・バードの紀行文では明治維新の東北・北海道が描かれていますが、そういった日本人の旅人に対する心遣いがよく描写されています。私たちはいま、株価に右往左往したり、今度はビットコインなるものにまで高い関心を抱いたり、資本主義の競争社会を生き抜こうとする人たちが増えてきていますが、他人との競争も大事ですが、相手のことを思いやるという日本人が長い年月をかけて培ってきた心の本質を失わないようにしたいものです。

 

それは新渡戸稲造が著した『武士道』以上に深遠かもしれません。少なくとも一般的な信条ではなかったかと思ったりします。

 

そういうことをこのJRの立ち往生での出来事で、心の中にぽかぽかと暖まる心持ちにさせてくれました。白い帽子のおばあちゃんに感謝、感謝です。

 

 


風呂好きと住宅と健康 <質問なるほドリ ヒートショックって何?>を読んで

2018-01-03 | 心のやすらぎ・豊かさ

180103 風呂好きと住宅と健康 <質問なるほドリ ヒートショックって何?>を読んで

 

日本人は風呂が好きですね。といっても風呂の形態はいろいろあったようですね。だいたい奈良時代は蒸し風呂ですよね。たしか光明皇后が当時難病で苦しむ人などに蒸し風呂を提供して養生を助けたとか。

 

温泉自体は火山列島ですので、あちこちにあったわけで、とりわけ1万年前から紀元前くらいまでは列島は火山活動が激しかったのではないかと記憶しています。おそらく縄文期からシカやサルと同じように人も興じていたのでしょうね。

 

では五右衛門風呂のような湯舟方式になったのはいつからでしょうか。まさか五右衛門さんが登場するころからではないでしょうね。それは風呂の歴史に詳しい人には当たり前かもしれませんが、私の方は駄文を書くため適当に記憶の底から抽出しています。

 

維新のころ欧米からやってきた多くの異人がみた日本人は、銭湯という大衆浴場から異人見たさに裸の女性が出てくるという驚くべき姿が見られる一方、夏などにはタライで体を洗っている女性の姿も描写されていましたね。

 

こういう状況を見ていますと、少なくとも庶民の自宅の中には湯舟のある風呂はなかったのではと思ったりしています。ところでなぜ「風呂」というのでしょうか。不思議な名称のように感じるのは私だけではないでしょう。参考になるのはため池やそこからの用水路の名称として、風呂谷池とか、風呂谷川という名前が紀ノ川沿いに見られます。

 

地形的な形状が風呂谷という言葉を生み出したのでしょうか。それと風呂とはどう関係するか・・・

 

で、私が幼いころ、自宅に風呂がなく、近くにあった父親の実家まで歩いて行ってそこの五右衛門風呂に入っていたことを思い出します。戦前でも自宅に風呂がある家というのは少なかったのではないかと思います。戦後もしばらくはそうだったように思います。その代り風呂屋さんが繁盛していました。東京でも戦後しばらくまではあちこちに風呂屋があったのですね。わたしが大学生の時代でもまだ風呂屋が相当残っていました。

 

弁護士になって間もなくのころ、仕事の依頼があった事件は、風呂屋さんが廃業してその遺産分けの話でしたが、そこではたくさんの風呂屋を経営していたけれども、次第に利用者が少なくなり廃業したという話を伺いました。

 

この長い前置きは、見出しの毎日記事で取り扱われている風呂場でのヒートショックに語るために、そこに行きつくまでに自分の心の整理をしています。

 

記事は<質問なるほドリ ヒートショックって何? 温度急変で血圧変動 失神や心筋梗塞の可能性=回答・曹美河>との見出しです。

 

現在では自宅に風呂があるのは普通ですね。ユニットバスなどができ簡易でしかもデラックスな出来栄えのものもあり、マンションでも戸建てでも重要なアイテムですね。

 

日本人の風呂好きに合わすように、住宅メーカーはいろいろ工夫をこらしているようですね。でも記事では、あまり芳しくない風呂場事情を語っています。

 

寒くなるこの季節に増える、ヒートショックを取り上げています。この<質問なるほドリ>は話題のキーワードを簡単に解説するコーナーで結構重宝しています。

 

で、その解説によると<体が急激(きゅうげき)な温度変化にさらされ、血圧が変動することなどによって引き起こされる健康被害(けんこうひがい)です。失神(しっしん)や不整脈(ふせいみゃく)、脳卒中(のうそっちゅう)や心筋(しんきん)梗塞(こうそく)などを起こし、急死することもあります。特に冬の入浴時に注意が必要です。>

 

その発生メカニズムについては回答者曹美河氏は<寒い脱衣所(だついじょ)で服を脱ぐと、体の表面の温度が急激に下がり、血管が収縮(しゅうしゅく)して血圧が上がります。熱い湯につかると交感神経(こうかんしんけい)が刺激(しげき)され、さらに血圧が上昇します。体が温まってくると今度は血管が拡張し、血圧が降下します。すると、一時的に脳に血液が運ばれなくなり、意識障害(いしきしょうがい)や失神を起こすのです。また、急な血圧の変動は血管や心臓に負担をかけ、脳卒中や心筋梗塞の原因になります。>と述べています。

 

でその発生割合についても衝撃的なものです。

<入浴中のヒートショック関連死者数を、年間約1万7000人(2011年)と推計しました。これはこの年の交通事故死者数の3・6倍に当たります。特に高齢者の血管は弾力性がないため血圧の変動幅が大きく、約8割が65歳以上です。1人で入浴できる比較的元気な人に急死のリスクがあると言えます。>

 

まさに私のような高齢者が危ない存在ということですね。認知症による交通事故の危険性よりもずっと高いのではと思うのです。

 

お決まりの予防策については

<温度差をできるだけ小さくすることです。脱衣所(だついじょ)や浴室を暖め、お湯は41度以下が推奨(すいしょう)されています。高橋医師は「食後1時間以内や飲酒時は血圧が下がりやすいため、入浴は控えましょう。人の生理機能がピークになる午後2時から午後4時ごろの入浴がおすすめです」と話しています。>

 

こういった情報は、時折、TVなどでも紹介されていますので、知らない人は少ないのではと思うのです。

 

で、ここからが今日の本題です。いつもながら長い前口上となりました。少し調子が戻ったのかもしれません。

 

だいたい血圧の急上昇、急降下は、結構起こっていますね。というのは私も最近、体調不調に対処するため、体重・血圧の測定を朝夕行うようになり、その変化に驚いています。とくに寒くなってからは朝暖かい布団から出て最初に向かうトイレはとても寒いですね。

 

そして朝の血圧は、収縮期・拡張期のいずれも正常値を超えることが結構多いのです。ときには異常に高いこともあります。それでも夕方、実際は夜に測定するとだいたい正常値内になっています。多くは風呂に入った後ですが、風呂場は寒いけれどもそれによる変化よりも早朝の寒さに対する体の反応の方が強いようです。

 

ともかく血圧は温度差が急激に起こった時に血管が自衛本能として働く収縮や拡張を通じて対応するものでしょうから、そのような変化自体は元に戻る限りは問題ないように思うのです。むろん血管が劣化していてその変化に対応できない状態になっている場合は問題となるわけでしょうね。その意味では高齢者は血管の劣化、脆弱化が進むので、一般的には温度差が少ないことが望ましいとは言えるのでしょう。

 

その点、上記のようなアドバイスは風呂場の暖かいところと、脱衣場の寒いところの温度差を少なくするため、後者を暖かくすることは適切な内容とはいえるのでしょう。

 

ところでわが国ではそういうアドバイスが当たり前に受け止められていますが、不思議に思いませんか。例えば北欧やカナダなどでは、そのようなアドバイスは不思議なものと思われるのではないでしょうか。

 

家の中に急激な温度差がある場所があること自体が不思議なのです。これらの国々では住宅はセントラルヒーティングですので、廊下も含め家の中全体が一定の温度に保たれています。わが国ように各部屋にエアコンがあるという家づくりはあまりないと思われます。

 

そのためカナダでの住宅内での過ごし方は割合薄着でしたね。外は寒いのです、車も住宅内の駐車場に入れていて、そのまま外に出かけるという具合ですね。

 

たしかにこれは極寒の国では必要な住宅づくりかもしれません。むろん脱衣場での寒さに対応するといった心配もないでしょうし、そういう場でのヒートショックも起こりにくいでしょう。

 

その意味ではわが国の住宅建築の在り方も今後は検討してもよいかもしれません。

 

でもそれでよいかは簡単に言えないと思います。たしかに冬だけで言えば住宅内の温度差をなくすことができるわけですから、血圧変化への対応という意味で有効かもしれません。

 

しかし、血圧変化に耐える体を自然に作り上げるという意味では、私は日本の住宅建築はある意味では日本の四季に耐えうる体力を鍛え、また長寿を維持する血管を含む臓器を作り上げる住宅ともいえるのではと思っています。

 

なんといってもわが国は鴨長明、吉田兼好を含め賢者から庶民まで質素で簡易な住宅に住みながら永らえてきた民族ですから、安易に快楽を求めると、エネルギー消費が拡大し、温暖化抑制に逆行し、地球の健康にも、自分の健康にもよくないのではと愚見は感じています。

 

そろそろ時間となりました。また明日。

 

 

 


花をどう活かすか <BS1スペシャル「世界の果てに花を生ける」>

2017-12-23 | 心のやすらぎ・豊かさ

171223 花をどう活かすか <BS1スペシャル「世界の果てに花を生ける」

 

西行は花を活かしながら日本人の心に豊かな情感を醸成してくれたような気がします。あるいは花を含む生命に対する感受性を育ててくれた一人ではないかと思うのです。

 

生け花は、たしか応仁の乱頃あるいは以降くらいに発達したのでしょうか。元々お寺では仏様に様々なものを飾って供えることが仏教伝来以来あったようですが、生け花を備えるようになったのはいつからでしょうか。ただ、僧侶が始めた、池之坊というのも、寺の中にある坊の一つであったようなことを、読んだ記憶があります。澤田ふじ子作品にあったと思うのですが、かなり前に読んで記憶が定かではありません。内容も覚えていないのですが、生け花を一つの道として、なんの血脈もなく特別の能力もないたしか一人の僧侶が精進努力を積み重ねて、確立していくような筋立てだったと思うのです。

 

日本の伝統芸能も、中にはと差別され蔑視されていた中から生まれたものが少なくないですね。歌舞伎もそうでした。出雲阿国を取り上げた有吉佐和子の作品もいいですね。

 

突然、こんな話をしたのは、今朝のTV番組<BS1スペシャル「世界の果てに花を生ける」>を途中から見て、これはすごいと、つい最後まで見てしまいました。

 

その花を生ける姿勢は、徹底しています。しかし花の店なのに、店舗内には花がありません。ある家族の例が紹介されていました。夫が子どもが生まれた記念かなにかで、家族4人のために花を贈りたいと、生まれたばかりの子のために芽吹きをイメージしたものとか、言葉でその心情を伝えるのです。それは店主の東氏を含めスタッフがメモし、お客さんが帰ると、さっそく生け花の構想をミーティングするのです。それで材料は決まり、早速、青果市場に買い出しに行き、持ち帰ります。それから東氏がそのアイデアを具体化していくのです。

 

それは従来の花屋さんや、華道家とも明らかに違います。できあがった作品?は家族への夫の思いが十分に反映して、私も感動しました。父親と一緒に訪れた長女は素直に感激の気持ちを示していました。

 

この東氏、フラワーアーティストという本業というか、主たる仕事は、ビジネス社会の中で活用されているようです。著名ブランドショップのデコレーションから、パーティ会場の天井に葉っぱだけで作られた花輪のような飾りとか、建築家隈敬吾氏に依頼されたビルの一角に竹林を模した空間を配置したりと、次々紹介される作品を眼で理解し、記憶にとどめるのは、私には少し無理がありました。

 

で、驚いたというか、とくに興味を惹きつけられたのは、次のような作品です。しかも自費でやっているというのですから、驚きます。一つは宇宙に咲く花です。高度3kmでしたか、宇宙空間に飾り付けた花を浮かべ、散らすのです。そして地球に落下したとき回収も行うのです。宇宙空間の気象条件などを勘案して、また光の当たり具合なども考慮して、適切な花を選び配置するのです。どのような頭脳が働いているのでしょう。

 

その他いくつかあったと思うのです、深海に盆栽を浮かべるのです。深海魚が次々やってきて突っついたり、驚いて逃げていったりする様が録画されます。

 

また、圧巻というべきか、雪山に箱形の釣り上げ用機材を用意し、それで宙に浮いた根のついた松の木を終日、周囲の変化の中で描写するのです。漆黒の闇に浮かんだり、雪吹雪に耐える松であったり、旭日に輝く松であったり、霧で見通せない中うっすらと浮かび上がる松であったり、それは七色変化(古くさい!)です。

 

そしてそれは和歌の世界をイメージさせてくれる、時にそれ以上かもしれません。

 

その東氏、元々こういった花の造形家?を目指したり、誰かの弟子になって育ってきたのではないそうです。元は田舎で育ち、ミュージシャンを目指して都会に出て、アルバイトで花屋さんで働くことになって、それ以来、20年くらいこの道を続けているというのです。

 

東さんが、どのようなきっかけで、このような芸術的な生け花を目指すようになったのか、また、その能力をどのようにして高めてきたのか、それは今回は明らかにされなかったように思います。私が見ていない最初とか、途中で放映されたかもしれませんが、たぶんなかったと思うのです。

 

私は、事務所にたださまざまな花を飾るだけで満足するくらいですので、そういった創造性とはほど遠い存在ですが、彼の挑戦意欲をみると、できあがった個々の花に満足しなチャレンジ精神はすごいと思います。それに、お客さんの気持ちにできるだけそう、そういう花の活かし方を真剣に取り組んでいる姿勢は参考になります。

 

とはいえ、私は、ターシャの庭のように、自然の中で花が自然に生きる様が一番と思っていますので、東氏のようなやり方は尊敬に値しますし、次々と挑戦し、実践する姿に感動を禁じ得ませんが、私には不似合いです。

 

 

 


心安まる・まちづくりとは <風知草 日中、四川省の場合=山田孝男>などを読みながら

2017-12-18 | 心のやすらぎ・豊かさ

171218 心安まる・まちづくりとは <風知草日中、四川省の場合=山田孝男>などを読みながら

 

歴史的遺産を公的に認定したり顕彰することはそれ自体、先祖が行ってきた郷土形成への意義を再評価し、その歴史的価値や人の努力を蘇らせるなど意義があることと思うのです。ただ、現代的な意義を考えれば、その遺産が単に登録されたり、顕彰されたりすることだけにとどまるのでは、その価値を本当に見いだすことにはならないように思うのです。

 

『論語』の温故知新という言葉が長く人の心に響いてきたのは、過去のそういった偉業の歴史的価値・思想的価値などから、新たな知見をくみ取り、現代に活かす

 

その中国といえば、一昔前の日本のように、この20年あまりはスクラップアンドビルドに邁進し、日本と違うのはある種強制的立ち退きという強権的手段で、伝統的なまちなみ景観をも破壊する暴挙も行われてきたように思われます。近代的なビル群、マンション群で外観的には美しいですが、そのために失ったものも大きいでしょう。

 

遺産となるべきものが、どこかに保存され、生活と切り離された途端、生活の歴史的系譜がある基盤を失い、より所への喪失感をずっと引きずるように思うのです。それがわが国の開発という名で、そこに住み続けてきた人にとっての歴史的価値・心の自然史的価値を失わせてきたように思うのです。

 

ところが、最近は新たな動きもあるようです。上記の山田氏のエッセイは、その一端を活写しています。

 

まず一般的な新しい流れを指摘しています。<日中関係は改善基調で推移しているようだが、環境デザイナー、石川幹子・中央大理工学部教授(69)の最近の経験も、新しい流れを感じさせる。>

 

<2008年、石川は、中国四川大地震の復興グランドデザイン国際コンペで入選したが、なぜか入選作がお蔵入りになった。

 ところが--

 最近、中国側から「あらためて説明を」と要請があり、石川は今月25日、訪中する。招聘(しょうへい)元によれば、今年3月、習近平国家主席が四川省農村保全を指示。7月、同省が石川案での復興を決めたという。>

 

四川大地震のときは、耐震構造が確保されていないと思われるビルが跡形もなく倒れ、多くの犠牲者を出したことが思い出されます。

 

で、コンペの対象となった都市、すごい歴史的遺産があるところだったのです。

<震災復興計画を国際公募したのは被災都市の一つ、都江堰(とこうえん)だった。省都・成都の西に位置する市で人口およそ60万人。

 チベットへ続く山々に発した岷江(みんこう)の急流が四川盆地へ注ぎ込む扇状地。紀元前3世紀に整備された堰(せき)(今も使われている治水・利水施設。世界遺産)が市の名前になっている。>

 

わが国の灌漑事業は、いつから本格的になったのか、江戸時代からなのかよくわかりませんが、中国は紀元前3世紀にすでに大河に大きな堰を設けているのですね。技術力・創造力が違いますね。

 

たしか以前、NHKで<都江堰>の灌漑事業については、放映されたことがあり、見た記憶があります。わが国では7世紀後半、斉明天皇が大きな石造りの運河的なものを作ったということが指摘されていたと思いますが、これは灌漑用水路ではないと私は思っています。その前後、わが国では、中国のような巨大な運河や灌漑用水路は、江戸時代まで生まれなかったのではないかと思っていますが、勉強不足ですので、教えていただければ幸です。

 

ここから石川氏の案が登場します。それは歴史的に形成されてきた土地利用を保全しつつ、現代的なまちづくりを行うもので、スクラップアンドビルドとは異なる内容です。

 

<同僚と都江堰の農村を調査した石川は、この地方独特の、「林盤(りんぱん)」と呼ばれる集落の形態保全--を構想の核に据えた。

 「林盤」は、扇状地の網の目状の水路の間に無数に散らばる。ひとかたまりの林ごとに伝統的な家屋と田畑、家畜が溶け合う共同体で、一つの「林盤」の人口は50人から100人。大地震で家屋は崩れたが、水路と林は無事だった。石川はそこに着目した。>

 

099月に石川案は報告書としてまとめられたのですが、そこから動きがとまり、新規開発の波が農村にも及んできた影響ではないかと言うのです。

 

ところが事態が再び動き出したというのです。

<再開発の波がとうとう農村へ迫ったこの秋、流れが変わった。習近平の中国は農村復興を国策の柱に据えている。習は10月、第19回中国共産党大会の活動報告で「農業・農村の優先的発展」「20年までに農村の貧困脱却」「環境、生態系の保全」を強調した。>

 

習近平氏は、経済成長一本槍だった中国を、パリ協定に合意したり、大気汚染対策に積極的に対応するなど、70年代日本政府のように大きく舵を切ったようにもみえますね。

 

さてこの石川氏のキャリアも興味深いです。

<石川は宮城県出身。東大農学部、米ハーバード大大学院で造園、環境デザインを学んだ。専業主婦だった42歳の時、東大に戻って博士号取得。工学院大、慶応大、東大大学院の教授を務め、13年、中央大へ。

 この間、東日本大震災や熊本地震の復興支援に関わる一方、独創的な環境デザインで内外の設計コンペを連覇している。>

 

専業主婦の力、侮るべきではない見本でしょうか。専業主婦が十分に力を発揮できるように環境整備すれば、彼女たちは専業の終身雇用男性以上に創造的な仕事をする可能性を秘めているように思うのです。

 

その石川氏の言葉が光ります。

<「それぞれの場所に歴史があり、蓄積がある。土地そのものに答えが埋め込まれています。土地に刻まれた歴史、人の思いを読み込む努力ですね。長い歴史から見れば、私たちの存在はほんの一瞬です。その瞬間に何をなすべきか、過去を見て未来を思えば自然に決まる。無理はしません」>

 

「土地に刻まれた歴史、人の思いを読み込む努力」とはいい言葉ですね。林盤という生活拠点を活かすことで、そこに住んできた人はその存在価値を古代からの歴史的系譜を改めて感じながら、存在意義を見いだし、それだからこそ、心も安らぐのではないかと思うのです。

 

この言葉から、ついあの映画「柳川堀割物語」を思い出しました。監督高畑勲氏は、土着の精神、その堀割の成り立ちや機能を見事に活写しつつ、その再生にかけて一市役所の職員の殻を抜け出した広松伝氏に光を当てたといえるでしょう。東京弁護士会時代、たしか30年くらい前、この映画を上映しました。古い東弁会館に200人以上が詰めかけ、皆さん感動を分け合った思い出があります。

 

そのような感動を、中国の中で、1000年を超える歴史遺産を活かすまちづくりを通して、きっと中国人と分かち合えることを期待したいです。

 

歴史遺産はただ、見て鑑賞するだけではその真価を見いだすことができないでしょう。現代に活かす価値を見いだしてこそ、意味があると思うのです。

 

石川氏の成功を祈りたいと思います。