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たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

誠実と謙虚と <雪割草の花言葉><作家が作家を語るのを読みながら>

2019-04-06 | 心のやすらぎ・豊かさ

190406 誠実と謙虚と <雪割草の花言葉><作家が作家を語るのを読みながら>

 

雪割草という花を自然界で見た記憶はありません。どんな場所に咲くのでしょう。そんな様子を観察することは花同様に、忍耐が必要でしょうね。まあ、私には無理な相談でしょうね。写真も時間をかけずにさっと撮るタイプですし。写真家の友人がいますが、繊細な神経と根気、センスなかなかいろんな要素が不可欠ですね。

 

まあ、私の場合40年くらい前、趣味でそういう写真仲間と京都のあちこちで撮影会みたいなことをしていましたが、京都を離れるとすぐ止めてしまいました。向いていないようです。

 

花の詩「雪割草」>では、花言葉は<「はにかみや」「高貴」「自信」「内緒」「信頼」「忍耐」「優雅」「期待」「和解」など多く表現されている。>と結構盛りだくさんです。イメージ的には清楚な印象ですが、私が撮影したのも多様な種類の一つのようです。花言葉というのがどういう経緯で生まれるのか知りませんが、それぞれの思いが反映して時代を経て定着するのでしょうか。

 

それにしても「忍耐」というのは凍結したような厳しい環境の中で芽を出し、花を咲かせるのですから、ぴったりですね。それに「自信」というのも厳しさに耐え抜いて花を咲かせたという点ではそうだね(去年の流行語?)です。「高貴」や「優雅」もこの写真の花弁を最初逆光で見たとき、そんなイメージもありましたか。とっても可憐ですし、小さい花ですので、こういうことばが適切かというと、微妙ですが、岩場などに咲いている高山植物の多くはとても可愛いですし、それを優雅と見てもおかしくはないでしょうか。

 

「内緒」とか、「期待」「和解」となると、雪割草に出会ったときのその人の体験がものをいったのかな、なんて勝手な解釈をしてしまいそうです。

 

ところで、今朝の毎日記事(どうやらウェブ上にはアップされていないようです)の文学逍遙では、作家・翻訳家の松田青子さんが(実のところ、初めて知った方です)、イタリアの作家、イタロ・カルヴィーノの小説『パロマー』を紹介するエッセイが掲載されていました。

 

そこで興味をひいたのが最初の一文、「見るという行為にも技術がいる。」当たり前とは言え、作家が書くとどんな風になるのか、気になりました。「対象を理解する、感じる、という能力でもある」としつつ、この能力は「時に重要になる。」としています。

 

小説の主人公パロマー氏の観察について、「パロマー氏を信用できるのは、観察している自分自身の目を信じていないところである。」という点は、私も同感できます。

 

私自身、私の観察や見方をなかなか信用できるとは言いがたいところがあります。それでは仕事ができないではと心配になりますが、そこは少しでも裏付け資料を集めて、自分の認識の危うさを補うよう努力しているのです。他方で、高齢による認知機能の低下への心配も忘れません。そのため、資料の補強は欠かせません。あるいは人の見方も大事です。

 

むろん松田さんが指摘する意味合いはより深いところにありますね。またこんな風にパロマー氏を評価しています。「様々な可能性に思考を巡らし、日常のワンダーを見つめるパロマー氏の態度には、対象への経緯が感じられる。」と。

 

そしてそこからさらに「人は経緯を払う対象には謙虚になる。彼のように世界に対して謙虚であることは、最も高度な見る技術に違いない。」と。

 

松田さんは、対象への敬意と、謙虚さを強調しています。自分自身への奢りを恐れ、他への敬意と謙虚さを大切にする心は、私たち日本人が長い間培ってきた精神かもしれません。私もつい置いてきぼりしてしまうことがあります。心したいものです。昨今のニュースで取り上げられる人たちにも心に刻んで欲しいと思うのです。

 

ところで、先のブログで紹介した作家・津村記久子さんは、アメリカの詩人・作家メイ・サートンによる『独り居の日記』について、「生活を語る人」の誠実さ、と述べてその魅力の一端を語っていました。

 

ここでは一人で生活する中でエピソードを語る内容に誠実さを、そして信頼できるかを明解に述べられています。

 

彼女の言葉を借りてみましょう。

 

「サートンの語りには、気取りも虚勢のない。暮らしの中の孤独と怒りを認めながらも、ひとりの生活の興味深さと満足についての実感を話してくれる。」というのです。

 

また「ちょっと間抜けなエピソード」とか、「普通の苦しみや反省が誠実に書かれることには価値がある。」とも指摘されています。

 

人は生きていく限り悩みや煩悩はなくなりませんね。それを楽しむことはできないとしても、考え方次第でうまくつきあっていけるのかもしれません。謙虚な心持ちで忍耐強くもろもろに対処することで。誠実さとユーモアの心持ちを忘れなければなんとかなるのかなと、ふと思ってしまいました。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


ミヤコワスレ <都忘れの花言葉>と<ゴーン前会長 不正送金>

2019-04-05 | 人間力

190405 ミヤコワスレ <都忘れの花言葉>と<ゴーン前会長 不正送金>

 

都忘れの花は、今年、2度手に入れました。すでに事務所に飾ってあるのを忘れてしまい、また買ってしまったのです。可憐な感じですが、温和しいせいか?ついその存在を気づかないこともあります。世の中にはそういう存在は結構ありますね。それは相対的な意味で、どこにでもあるように思うのです。私もそういう風にみられる場合もあるわけですし、誰もがありうるでしょうね。

 

都忘れの花言葉について<ミヤコワスレの花言葉>では、<「しばしの慰め」「別れ」>とのこと。その由来については、<承久の乱(1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱)にて佐渡へ流された順徳天皇がこの花を見ると都への思いを忘れられると話されたことに由来します。>というそうです。

 

でも品種としては、現在のものは鎌倉期のものではないようですね。まあ、花言葉自体、どこかから引っ張ってくるのでしょうから、それに感応すればいいわけですね。

 

で、承久の乱の首謀者(犯罪者みたいでよろしくないですね)としてだけでなく、歴代天皇の中でも、後鳥羽上皇といえば知らない人がいないほどですが、同じく遠島処分になった順徳天皇となるとあまりイメージがわかないですね。天皇といっても乱当時、20代初めでしたか、やはり上皇の権威で動かされていただけだったんでしょうね。なんとなくその存在も軽いイメージです。

 

後鳥羽上皇は隠岐の島、順徳天皇は佐渡島にそれぞれ別れさせられ、流罪となったのですね。当時は死刑がなく、遠島が一番の極刑だったようですね。そういえば法然と親鸞も同様に別々に遠島処分になりましたね。それを言い渡したのが後鳥羽上皇ですから、因果応報というわけでもないですが、なにか因縁を感じます。

 

ところで、順徳天皇が佐渡で、父・後鳥羽上皇を偲んで多くの和歌を詠んでいますね。この花言葉では、ミヤコワスレを見て<しばしの慰み>とか<別れ>を偲んだのが都のことだということですが、そんな歌があったのでしたか。

 

順徳天皇>ではその歌の一部が掲載されていますが、<『順徳院御百首』(1232年)>として<佐渡で自選した歌集。藤原定家と隠岐の後鳥羽院に送り、合点を求めた。定家の評が残っている。>というのですから、親鸞のように流罪となり俗人以下扱いとは明らかに違いますね。のどかとみるか、わが国の権力闘争にもたおやかさをかんじさせてくるものがあるのでしょうかね。

その一部、次のような歌には、深い思いがあるのでしょうか、私にはおぼろげにもみえてきそうにないのですが。でも孤高の香りを感じさせてくれるような、そんなところが日本人の心証形成に資してきたのかもしれません。

 

夢さめてまだ巻きあげぬ玉だれのひま求めてもにほふ梅が香

人ならぬ石木(いはき)もさらにかなしきはみつの小島の秋の夕暮

 

ところで、今朝の毎日記事<不正送金、ゴーン前会長側にメール報告 オマーンから 特捜部4度目逮捕>を見ると、ゴーン氏は世界的大企業を擁立してきた凄腕経営者と評価されていますが、なんとも情けないような心根を感じるのは私だけではないように思います。

 

むろん弘中弁護人という強力な弁護団がいますので、検察側も有罪に持ち込むのは大変でしょうね。だいたい、送金額が合計で16.9億円、不正送金が合計5.6億円と、その金額だけいえば巨額ですが、その具体的な使途は判然としません。たしかクルーザーも価格は15億円とかで、その一部に充てたとか、あるいは子どもの学費とか、その内容がいろいろで、どうも脈略がはっきりしません。

 

とはいえ、子会社、販売代理店、投資会社(ペーパーカンパニーですか)、さらに妻の経営する会社とかに資金が流れているなど、資金の流れがいかにもゴーン氏の多国籍という特殊性を自由に活用しているようです。それにしてもなにか超大企業群を率いていたカリスマ性はここには見えません。みっみちい感じがするのです。自分でこういう操作しなくても、そう命じた、あるいは少なくとも報告を受けていたでしょうから(それが不正かどうかは別にして)、あざといやり方だと思うのです。

 

そういったトップのいい加減な資金処理を放置する企業組織のあり方も問題でしょう。そういえば2000年代に入ってトップの杜撰な不正経理がなんども明らかにされましたね。その中で、個人の利益追求に走ったのは大王製紙のトップでしたか。本社、子会社いずれも取締役会など経営管理するべき組織が機能していませんでした。こんなひどい私的流用というか、会社資産の横領・背任といってよい事態を放置する組織がなぜ生まれたのかと思ってしまう状況でした。

 

それと同じことが日産でも起こったのでしょうか。少なくともわが国の会社法制度は企業トップをコントロールするようにはなかなかなり得ていないと思うのです。社外取締役を増やすことも一つの策ですが、それでも簡単には企業統治の意識が簡単には醸成できないのではないかと思うのです。

 

和歌には鮮烈な自己鍛錬と厳しい批判精神が必要なのだと思うのです。ところが、少なくとも戦後の会社制度では、そういった意識が生まれない中、巨大化したのではないかと思うのです。

 

ただ、日本人の経営者であれば、自己の報酬なり利益追求にひた走るという意識はあまりなかったように思うのです。たいてい同じ平の従業員から階段を一段ずつ登り、取締役、代表取締役になるわけで、一般社員や工場労働者の気持ちに心をくだき、自分の利益追求を図って会社の資産をどうこうしようといった考えは起こらないのが普通ではないかと思うのです。

 

しかし、ゴーン氏は、それが犯罪になるかどうかは別にして、そうではなかったように思えます。

 

後鳥羽上皇も、順徳天皇も権力掌握のために邁進しましたが、和歌のように澄んだ心根であったのではないかと勝手な解釈をしています。

 

今日はこれにておしまい。つまらない話におつきあいありがとうございます。また明日。


誠実さとは <馬酔木の花言葉>と<津村記久子さんの読書日記>

2019-04-04 | 心のやすらぎ・豊かさ

190404 誠実さとは <馬酔木の花言葉>と<津村記久子さんの読書日記>

 

アセビの花を見ても、特段の感慨がわいてくるほどの感受性をもちあわせていない身にとっては花言葉を知ってもぴんときません。

 

事務所の中にはいろいろな花が飾っていますが、たいていは二週間ないし四週間程度のおつきあいです。結構数が多いといった理由などで、その違いを感じる前にいなくなります。無骨者との批判は甘んじてうけます。それでブログのテーマを考えてもろくなものが浮かばないこのごろですので、短いおつきあいの花を紹介していこうかと思うようになりました。

 

今日はアセビです。花言葉は<アセビ(馬酔木)の花言葉と育て方は?>によれば

 

<アセビの英名は「Japanese Andromeda(ジャパニーズ・アンドロメダ)」です。アンドロメダとは、ギリシャ神話に登場するエチオピアの王女。>とのこと、えっ星空に大きく広がる女神とは知りませんでした。

 

ギリシア神話ではペルセウスが海神から王女を救い結婚するのでしたか。

 

<神々の怒りをかって岩にはりつけられていたところを英雄ペルセウスに救われた人物です。>映画では美しい王女と二枚目の英雄が登場しますか。

 

で、<このペルセウスとアンドロメダのエピソードに由来して、「犠牲」「献身」という花言葉がつけられました>

 

「犠牲」というのはアンドロメダのことでしょうか、ポセイドンの脅威に自ら生贄になって張り付けにされたのでしたか。「献身」というのはペルセウスの王女に対する愛情を自らの死を賭して海神ポセイドンに向かっていくのですから、そういってもいいのかもしれません。まあ、ストーリーは、昔々読んだものをなんとなく記憶している程度ですので曖昧ですけど。

 

アセビというとそれを食べた馬が酔っ払ったといった話を聞いた記憶がある程度で、とてもそういった美しい男女の愛を示すような話とはかけ離れていますね。

 

ところが、<「禁断の恋」を彩る和歌たち 古墳~奈良時代編>では、次のような万洋酒の歌を紹介しています。

 

磯の上に 生ふる馬酔木(あしび)を 手折らめど 見すべき君が 在りと言はなくに

大伯皇女

 

<大伯皇女の弟大津皇子は謀反の疑いで処刑されてしまいました。

大津皇子は処刑の前に、大伯皇女のいた伊勢に立ち寄るなど、とても仲の良い姉弟でした。

大津皇子死後、大伯皇女がうたった和歌です。馬酔木を折ってみたけれど、見せるべきあなたがいない―

大伯皇女は弟への哀傷を胸に抱いたまま、独身を貫き亡くなりました。>

 

大伯皇女(おおくのこうじょ)と大津皇子は、天武天皇と最初の妻である大田皇女(皇后にはなっていませんね)の間に生まれた姉弟ですね。大田皇女が早くなくなり、その妹が天武の妻・皇后、後の持統天皇となったわけです。天武天皇の跡継ぎにはその子、草壁皇子をとの強い思いが仲のよい姉弟に不幸な結果を招いたのでしょうか。

 

大伯皇女は、伊勢で斎宮となったのも、天武天皇の意思というより皇后の意思であったかもしれません。

 

それにしても同母の姉弟が愛情を抱いていたのだとすると、大伯皇女も叶わぬ恋と思い、斎宮になることを承知したのかもしれません。たしか母の父にあたる天智天皇も同母妹への愛情を隠さなかったとか。当時、恋愛は自由であったらしいですが、同母の場合は禁忌でしたか。でもそれだけ純粋に愛情抱きあっていたのかもしれません。

 

そんな大伯皇女がアセビを手にとって、弟への愛の歌をうたうのは、それだけアセビには誠実さのようなものが感じられたのかもしれません。

 

そういえば透き通ったように見えるアセビを見ていると、純粋さとか、誠実さとかをふと感じてしまいました。

 

ところで、津村記久子氏が昨夕の毎日記事で(ウェブにアップされていないので簡潔に紹介します)、メイ・サートン著『独り居の日記』を紹介して、「生活を語る人」の誠実さを感じて、「本書に救われる人はたくさんいるだろう。」とか、「実は独身者の必携の書だと思う。」とか語っています。その内容のいいところを引用していますが、少し長いのでタイピングが面倒なこともあり、カットします。

 

いつか読んで見たくなりました。今日はこれにておしまい。また明日。(ウェブ情報を見たら、どうやら契約をしているようです、いつ?かは覚えていませんが)


海と山と川と <ワカメ 鳴門の渦潮がアメとムチ>を読みながら

2019-04-03 | 紀ノ川の歴史・文化・地理など

190403 海と山と川と <ワカメ 鳴門の渦潮がアメとムチ>を読みながら

 

今日もブログが続いています。先月のいつ頃からでしょうか、わが家の前に立ち並ぶ桜並木が芽吹きそうになり、新しく買った65倍ズームのカメラを手ぶれ覚悟で練習の意味で毎日一枚くらいを撮ってきました。手ぶれがひどいのでとてもアップに耐えられません。今日は仕方なく、三脚を持ち出し撮影しました。ところが三脚でも被写体まで遠すぎるためかぶれてしまいます。シャッタースピードも解像度も値段相応ですし、いやいや、すばり腕のせいでうまくいきません。それでも現状を認識するためアップしておきます。

 

なぜ日本人が桜に惹かれるのか、西行があれほど詩のテーマにしたのか、私には両方とも謎の世界ですが、元号と同じように、不思議な現象と思う日本人も結構いるのではと思うのです。

 

とはいえ西行の

 

ねがはくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ

 

と歌った、そのことばどおりに生を全うした姿はやはり魅了されます(桜ではなく生き方として)。

 

といって忠臣蔵の浅野内匠頭のように桜が残っているとは思えない旧暦314日(新暦418日)に「風さそうはよりも・・・」と辞世の歌を告げたとかはどうでしょう。とりわけ劇ストーリーとして桜散る場が用意されたのもあまりに技巧的すぎるかと思うのです。明治以降の軍事国家体制の結末は、桜散るということで、わが国民性が偽装されたように思ってしまいます。それは西行を含め日本人の心を形成してきた歌人たちの思いとは背反するものであったと思うのです。

 

さて今日のテーマは毎日記事<美食地質学入門第13講 ワカメ 鳴門の渦潮がアメとムチ>です。

 

当地にやってきて何度も南海フェリーを使って、和歌山・徳島間を往復しました。フェリーから淡路島が遠くに見えるものの、友ケ島水道、鳴門海峡は狭い海の通り道がある程度にしか見えません。というか、普段はフェリーを利用するのは、横になって休むためですので、外を見ることはほとんどありません。車の運転が最近とみにきつくて1時間も走ると心身共に疲れてしまうので、フェリーで休むことでなんとか体がもっている感じです。

 

そんな私でもこの海はいつも気になっていました。だいたい東から吉野川、紀ノ川と西方に向いて流れ、海に出た後、次の陸地にはやはり吉野川が西方に流れています。しかもそれぞれ北方と南方に山が並行しています。なんだろうと思っていました。たしかに中央構造線が九州から四国、近畿を貫き、東海にまでほぼ一直線に続いています。それがなにか意味があるのかしらと思う程度でした。

 

その悩みの人とが少し謎解きしてもらい、その地形的特徴が美味しい魚介類を産んでいるとかという話で、美食談義をされるのも、まったくグルメとは関係の無い身でも見聞するだけで楽しいものです。

 

鳴門のワカメが美味とは知りませんでした。その理由が地形にあるそうです。

 

あのフィリピン海プレートの<斜め沈み込みによって淡路島が隆起した。同じ時期に、四国の讃岐山脈から淡路島南端、和泉山脈ときれいに並んだ山地も隆起した。>

 

たしかにこういった山脈群は見事なほど、川の北側で隆起している印象があります。川が四国では東方に流れ、近畿では西方に流れ、その一直線の北側に山が並んでいますね。

 

ワカメのおいしさについては大引さんが<「潮の流れが速い所で育つので、弱い部分が流されて強いワカメだけ残る。四国の川から流れ込む栄養分に加えて、渦潮で対流が生まれて海底がかき混ぜられ、酸素が行き渡るので環境は最高>とのこと。

 

なぜ海峡と水道が生まれたのか、ここでは説明がなかったのですが、海の養分は山から流れ出した有機物などが川を下って海にでるからでしょうかね。

 

紀ノ川という呼称がいつころからなのか、元はどうだったか、もしかしたら吉野川と呼ばれていたのではと思うのですが、そういう文献を見た記憶があります。絵図などでは「大川」との表示もありますが、おそらくは律令時代以前、紀氏が登場したころには紀ノ川と呼ばれていたのかもしれません。では吉野川はいつからでしょうか。飛鳥時代には吉野や吉野川は定着していたのでしょう。

 

といって書紀では神武天皇の東征でも、「吉野」が登場しても吉野川はなぜか出ていません。紀ノ川も。まあ、このあたりは8世紀に成立した歴史書ですので、あまり当てになりませんが。

 

ともかく吉野川、紀ノ川、吉野川の川や、その北方、南方の山脈は歴史時代はもちろん、縄文以前からすでに現在に近い地形であったのでしょうね(むろん一筋の川ではなかったでしょうけど)。

 

で、今日書こうと思ったのは、<マップみんなの海図>です。これは無料でアクセスでき、非常に便利です。この海図によると、大阪湾はやはり水深20mくらいがほとんどですが、なんと友ケ島水道と鳴門海峡のあの狭いところが、とても水深が深くなっているのです。前者は最大震度160m、後者が180m、狭い上に極端に掘り下がっているので、断崖絶壁のようにも感じられます。なぜこういった絶壁のような海の谷が生まれるのでしょう。それも狭い故に生まれる海流の速度によるものでしょうか。海流によって掘り削られてだんだん深くなったのでしょうか。潮の満ち引きと海峡地形がなせる技でしょうか。

 

海の表面だけを見ているとわからない、海底地形です。そこになにかまた秘密がありそうです。

 

そんなどうでもいい話をこの美食談義を見聞しながらつい考えてしまいました。今日はこれでおしまい。明日も続きそうです。


梅か桜か <岡目八目ならぬ和歌の素人読み>

2019-04-02 | 日本文化 観光 施設 ガイド

190402 梅か桜か <岡目八目ならぬ和歌の素人読み>

 

今日もブログが残っていますので、続けることにします。でもメールでは今日も契約終了の通知がきています。不思議な居心地です。

 

それはともかく、昨日決まった新元号、ちょっと遊び心である事件の期日請書に「令和」と使ってみました。5月施行ですので、勇み足ですが、まあ5月の期日でしたので、ご愛敬ということで特段、訂正もでませんでした。私は普段西暦表示をしていますので、今回もそちらはちゃんと書いています。

 

やはりというか「令和」の「令」についてはいろいろ異論もあるようです。どんな元号も賛否があって当然でしょう。ただ、典拠が万葉集と言うことで、この点は割合支持されているようです。典拠が中国書か和書かなんてことで議論するのもどうかと思いますね。ところで、典拠となった和歌では、梅の宴で読まれたとのことでしたか。奈良時代、ちょうど梅が遣唐使によってもたらされ、唐風文化とともに梅を愛でる和歌が流行ったとか。

 

それまではやはり桜だったのでしょうか。日本書紀の履中天皇3年冬11月、天皇が磐余の市磯池(いちしのいけ)で船を浮かべて酒宴を催したとき、桜の花びらが杯に散ったそうですね。それで天皇が「咲くべきでないときに散ってきた」といってその花を探させて、吉祥を喜び、宮の名、「磐余若桜宮」と名付けたそうですが、その後「稚桜宮」になったようです。

 

まあ、長々と書紀を取り上げましたが、「履中天皇陵」と宮内庁から治定されている日本で3番目に大きい陵墓がありますね。その履中天皇の業績というとわずか6年くらいの在位期間で上記の宴を開いて宮の名付けをしたなど、ほとんどないに等しいのですね。書紀の記述を信頼する人でも、この実態のなさと陵墓の大規模さとの釣り合いのなさをどう感じているのでしょうか。

 

また余分なことを書いてしまいました。今日は梅と桜の話をするつもりで書き出したのです。ともかく桜は日本固有種でしょうね。エドヒガンといった在来種があったようですね。それにあのNHKジオジャパンでビジュアル解説されたフィリピン海プレート端に並んだ火山島嶼群が次々と日本列島にぶつかり、伊豆半島がくっついた?ことで列島が形作られ、その結果、大島桜も固有種に参加したわけでしょうか。その後両者は混じり合ったのでしょうね。

 

で律令期に梅が到来するまでは、わが世の春を謳歌していたのかもしれません。8世紀は一時梅の時代と万葉開花で梅の歌がたくさん題材になったのでしょうか。その後平安期以降は桜に首座を奪われてしまったのでしょうかね。でも平安期以降に歌われ、業平や、定家、西行などが歌った桜は、私たちが見て親しんでいるソメイヨシノとは違うようですね。後者は江戸末期から明治初期に、江戸の染井村で育成された人工種のようです。

 

西行が奈良の吉野で歌った桜は別の品種の桜だそうです。

 

では梅はどうなんでしょうね。「令和」の典拠となった和歌では、大伴旅人が酒宴を催したとき参加していた歌人が詠んだのでしたか。旅人は、藤原家の興隆を受けて、武門の名誉も過去の話となり、杜甫などのように、酒と和歌詠みに明け暮れていたともいわれていますね。

 

異母妹の坂上郎女がいろんな恋愛遍歴を経て、家刀自(主婦と訳されるようですが、戸主に近いのではと思うのです)となって、旅人の子、家持の養育を買って出て、額田王と競い合う程(万葉集最多の歌を残す)の和歌の技量を伝授したのかもしれません。

 

その郎女、元号の典拠とした和歌と同時代に(少し後になるようです)、疫病等で禁酒令がでていたとき、梅の下で酒宴を催し、次の歌を残しています。昔、坂上郎女と旅人・家持親子の歌を解説した本を読んだ記憶があります。恋愛の情をときにユーモラスに歌いあげていたような記憶ですが、この歌は年齢を重ねた潔さも感じます。

 

酒坏(さかづき)に 梅の花浮け思ふどち 飲みての後は 散りぬともよし

 

これは律令時代ですが、平安時代もむろん梅の花が歌われています。なんといっても菅原道真のものが有名ですね。

 

こちふかば にほひよこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな

 

道真という人は不思議な人だと思うのです(まあ、別にいくつか彼に関する書籍を読んだ程度ですが)。宇多天皇の寵愛を受けて、藤原時代に右大臣まで上り詰めるすごい政治力もあったのでしょうか。それにしても自分の屋敷にたしか紅梅と白梅を植えていましたが、なぜ梅だったか不思議なのです。そして紅梅殿といった名前の塾で優秀な塾生を育てていたようです。

 

不比等以来の天下採りを狙う藤原に刃向かうと、当然左遷の憂き目に遭ったわけですね。旅人も家持も同じような運命ですね。梅となにかひっかかるのは余計な勘ぐりでしょうか。

 

でも旅人も家持も神にはなれませんでした。なぜ道真は天神様と祭られ、各地で天満宮が建てられたのでしょう。藤原一族や関係者が災難にあい、飢饉・災害が多発したからでしょうか。それならそれまでも結構有りましたし、左遷や冤罪に問われて惨死した貴人は大勢いました。そういった人の罪を赦したり、死後官位を与えたりでだいたい片が付いているようです。

 

でも道真は天神様になっただけでではなく、今は学問の神様になっていますね。驚くべき推移でしょうか。

 

今読んでいる澤田瞳子著『腐れ梅』は、ちょうどその当たりの不思議に迫る内容です。偶然、「令和」で典拠となった梅の話がでて、なにかこじつけのようでもありますが、道真の天神様への御成の不思議がわかったような、新たな不思議の世界に迷い込むかもしれない話となっています。

 

さて写真は「寒梅」を以前、撮影していたのをトリミングしてアップしました。元々手ぶれがあって、さらに拡大したので、ピンぼけもいいところです。まあ下手の横好きとお笑いください。

 

今日はこれまで。明日はこのブログが残っていればまた続きます。