白夜の炎

原発の問題・世界の出来事・本・映画

劉育新

2012-05-18 16:10:27 | 国際
「教育者・劉育新氏 一家三代にわたる中日の絆

発信時間: 2008-03-11 | チャイナネット

教育者・劉育新氏を偲んで、吉林人民出版社が『劉育新記念文集』を出版する。この文集は、劉育新氏の教育事業への貢献と同氏の高尚な人柄を讃えるとともに、一家三代にわたる中日の絆にも言及している。

劉育新氏は1915年、黒龍江省ハルビン市に生まれ、1936年、ハルビン留日学生教育所でずば抜けた成績を収め奨学金を獲得、日本の早稲田大学で政治経済を専攻した。彼は同大学入学後、苦労しつつ研さんを積み、競争率の高い文化奨学金を獲得した。1946年以降は中国で教べんをとるとともに中国共産党が指導する地下革命闘争に参加。

解放後は、吉林省立高級中学校校長、長春市教育局局長、吉林大学外国語学部主任、吉林省人民政府教育顧問などを歴任するとともに、長春市人民代表大会代表に何度も選ばれた。日本留学によって得たものを教育事業に生かした彼の教育理念は、社会から高く評価され、吉林省の各界から高潔な人格と高い名声を認められた教育者であった。

劉育新氏は日本への留学経験があったため、文革中はつらい目にあったが、同氏はかえって中日友好にこだわり続け、中日関係の将来に自信を持っていた。彼は、中日関係の正常化が生易しいことではないことをますます強く感じ、中日間の長期的友好のためには子々孫々にわたってバトンタッチしていく必要があると考え、常に後に続く世代が中日友好のために橋渡しの役割を発揮できるよう励ましてきた。

中日関係が正常化される前の1964年、早くも彼は次男の劉光宇氏が北京大学東語学部の日本語専攻課程を受験するよう励ました。劉光宇氏は北京大学卒業後、吉林省外事弁公室や吉林大学日本研究所、東北師範大学外国語学部で中日交流と日本文学の研究および日本語教育に携わるとともに、日本映画『男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎』を翻訳し、日本の著名な映画を中国の銀幕の上に持ち込んだ。さらに、1987年および1996年には、それぞれ客員研究員と客員教授の肩書きで関西学院大学において日本近現代文学研究に従事し、数多くの日本の文学作品を翻訳し、現在は中国作家協会の会員となっている。

1978年、劉育新氏の激励のもと、四男の劉幸宇氏と三女の劉光赤氏がそれぞれ吉林大学、東北師範大学で日本語を専攻した。彼らは卒業後、幸宇氏は北京の国家機関で中日科学技術交流に従事し、光赤氏は長春の大学で日本語教育に携わった。幸宇氏は1989年、日本に留学し、1992年に修士課程を修了後、日本の商社で中日の経済交流の仕事に就き、1994年から学校法人神戸学院で中日の大学間交流や中国人留学生の指導業務に従事するとともに中国語を教えてきた。

10数年来、幸宇氏は中日両国の教育、科学技術、著名人などをテーマに両国の新聞、雑誌、学術誌に20篇以上の文章を発表し、さらに徐悲鴻の研究者として名高い松谷省三氏に協力して中日文化交流を展開している。光赤氏は1985年に日本に移り住んでからずっと大学で中国語を教え、中国文化を伝えてきた。現在は上智大学、明治大学などで講師として勤務している。20数年来、彼女は日本の中国語教育の教壇に立ち、多くの中国語の人材を育成するとともに、辞典や教材の編纂にかかわったり中国語教育の研究活動を行ったりしている。さらに、彼女は在日中国人としてたびたび国際友好交流の座談会に出席したり、取材を受けたりもしている。

劉育新氏の孫娘で光宇氏の息女である劉芳菲氏は、幼少の頃から家庭の文化的雰囲気の影響を受け、日本語に親しんでいた。成績が優秀であったため、彼女は長春外国語学校から吉林大学外国語学部日本語専攻課程に推薦入学し、全国日本語弁論大会で何度も賞を受けた。1998年12月、彼女は招待に応じて中国青年の代表として日本へ行き友愛国際青年会議に参加。2000年3月には、日本の著名な反戦人士・東史郎氏に日本語でインタビューした。劉芳菲氏は、現在は中央電視台(CCTV)の著名な司会者である。07年9月、中曽根康弘元首相が率いる日中青年世代友好代表団が北京を訪問した際、彼女は人民大会堂で日中世代友好フォーラムの司会を日本語で行った。劉育新氏の外孫で劉光赤氏の息女である林夏名氏は外祖父一族の影響で、小さい頃から日本で暮らしたが、中国語をしっかり学び続け、在校中は中日交流や国際交流の活動に積極的に参加し、03年12月には日本の外務省が派遣した日本青年交流代表団のメンバーとして、北京、上海、桂林などを友好訪問した。04年1月には日本の内閣府が派遣する第16回世界青年の船の一員として、東南アジアおよびアフリカ各国で国際青年交流に参加した。05年3月には、東京青年会議所が主催した黄河両岸緑化のための植林活動に参加し、河南省霊宝市で植林するとともに中国語力を発揮して、現地の小学校の教壇に立ち、中日青少年友好交流の生きた授業を行った。林夏名氏は、今はすでに大学を卒業し、母校の獨協大学国際交流センターに勤務している。

劉育新氏は晩年、青春時代を過ごした東京を懐かしんで3度日本を訪れたが、その都度息子や娘を伴い、昔の留学の足跡を辿るのが常だった。早稲田大学では感に堪えないように大隈講堂の前にたたずみ、銀座では和光の時計台をじっと見つめ続け、日比谷公園では昔の野外音楽堂のあたりを、時間をかけてゆっくりと歩き、今の様子から昔を偲び、思いを馳せる……そんな彼が息子や娘たちに世の移ろいへの思いを語るときは、いつも後に続く世代が中日両国人民の長期にわたる友好を引き継ぎ、将来に道を開くよう繰り返し言い含めるのだった。

劉育新氏はすでにこの世を旅立たれたが、同氏が数多い子孫のなかに蒔(ま)いた中日友好の心の種はすでにあでやかな花をほころばせている。「青は藍より出でて藍より青し」の言葉通り、劉育新氏の子孫は先達を輝かしい手本として、中日友好交流の各分野で活躍中であり、両国の長期にわたる友好のために傑出した貢献をしている。

「北京週報日本語版」 2008年3月11日」


最新の画像もっと見る

コメントを投稿