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「道徳感情論」スミス経済学の正確な理解のために (2) /アマルティア・セン

2015-07-25 14:34:20 | 
「 スミスは、広くは経済のシステム、狭くは市場の機能が利己心以外の動機にいかに大きく依存するかを論じている。スミスの主張は大きく2つに分けられる。第1は認識論的な主張で、人間は自己の利益にのみ導かれるのではないし、思慮にのみ導かれるものでもないという事実に基づいている。

 第2は現実的な主張で、剥き出しの利己心にせよ世慣れた思慮にせよ、いずれも自己の利益に資するものだが、倫理的あるいは実際的に考えれば、それ以外の動機に促される理由は十分にあるとする。事実、スミスは「思慮」を「自分にとって最も役立つ徳」とみなす一方で、「他人にとってたいへん有用なのは、慈悲、正義、寛容、公共心といった資質」だと述べている。これら2点をはっきりと主張しているにもかかわらず、残念ながら現代の経済学の大半は、スミスの解釈においてどちらも正しく理解していない。

 最近の経済危機の性質を見ると、まっとうな社会をつくるには、野放図な自己利益の追求をやめる必要があることははっきりしている。2008年にアメリカ大統領候補に選ばれた共和党のジョン・マケインでさえ、選挙演説の中で「ウォール街の強欲」をたびたび非難した。スミスはこうした傾向を認識しており、利益を追い求めて過剰なリスクを仕掛ける連中を「浪費家と謀略家」と名付けた。

 ちなみにこの呼称は、最近のクレジット・スワップやサブプライムローンを仕組んだ手合いの多くにじつによく当てはまる。スミスが使った謀略家(projector)という言葉は、本来の「計画立案者」という意味ではなく、1616年頃から一般的だった軽蔑的な意味合いで使われており、ザ・ショーター・オックスフォード英語辞典によると「バブル会社の仕掛人、投機家、詐欺師」といった意味がある。

 『国富論』より50年早い1726年に出版されたジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』には「謀略家」の姿が辛辣に描かれており、スミスが念頭においていたものにごく近い。規制がいっさいない市場経済に完全に依存するなら、スミスの悲惨な予想を的中させることになろう。スミスは「国内の資本のうちかなりの部分」が「利益を生む有利な用途に使うとみられる人には貸し出されなくなり、浪費し破壊する可能性がとくに高い人に貸し出されることになる」と書いているのである。

 規制のない市場経済に対するスミスの批判は、さっそく反論を受けた。ジェレミー・ベンサムが1787年3月に長い手紙を書き、市場は放っておくべきだとスミスを叱ったことは、歴史としてなかなか興味深い出来事である。

 手っ取り早く儲けようとあれこれ画策する「謀略家」とスミスが決めつけた手合いは、変革と進歩を担う革新者であり先駆者だとベンサムは主張した。スミスは批判に上機嫌に応じている。謀略家と革新者のちがいぐらいスミスもよくわきまえており、ベンサムの期待もむなしく、規制の必要性に関する自分の主張を修正しようと考えた形跡は見当たらない。

 一国の金融安定性がどういうものかを理解するには、ぜひともスミスの次の主張に注意を払わねばならない。ちなみにこれは、昨今の経済危機にも直接当てはまる。

 「ある国の国民がある銀行家の資産状態、誠実さ、慎重さを信頼していて、その人の約束手形ならいつ提示してもただちに支払ってもらえると信じていれば、そうした手形はいつでも金貨や銀貨と交換できるとの信頼感から、金貨や銀貨と変わらないほど通用するようになる」(『国富論』より)

 このような信頼はもともと存在するわけではないし、放っておいて維持されるわけでもないとスミスは主張する。相互に信頼する土壌は、耕し育てなければならない。多くの経済書で金科玉条のごとく奉られている肉屋・酒屋・パン屋の一節の信奉者は、最近の経済危機をどう理解すべきか、途方に暮れていることだろう(儲けを手にする機会)が激減した危機のさなかでさえ、人々はなお取引を探し求める立派な理由を持っていたのだから)。だが相互の信頼関係が崩壊し不信がはびこったときの悲惨な結末は、スミスにとってすこしも驚きではなかったはずだ。

市場と他の制度の必要性

 スミスをいわゆる純粋な資本主義の擁護者とみなす試みがさかんに行われてきた。純粋な資本主義とは、利益追求の動機のみに導かれた市場メカニズムに全面的に依存する資本主義である。だがこうした試みは完全に誤りだ。スミスは「資本主義」という言葉を使ったこともない(実際に一例も発見できなかった)。

 さらに重要なのは、利益のみに基づく市場メカニズムを礼賛するつもりもなければ、市場以外の経済制度の重要性に異論を唱えてもいないことである。スミスは適切に機能する市場経済の必要性を認識してはいたが、それで十分だとは考えていなかった。

 市場経済のおぞましい「作為」を巡る多くの誤解に対してスミスは強く反論したが、だからといって市場経済が重大な「不作為」を伴うことはけっして否定していない。たしかにスミスは、<市場を除外する>介入には反対した。だが、市場では解決できない重大事の場合に、<市場を含めた>介入をすることには反対していないのである。

 スミスは、政治経済学には「2つの明確な目的」があるとし、「第1は、国民に収入または生活必需品を豊富に提供すること、もっと適切に表現するなら、国民がみずからの力で収入と生活必需品を豊富に確保できるようにすることである。第2は、国が公共サービスを提供するのに必要な歳入を確保できるようにすることである」と述べている。

 そして無料の教育、貧民の救済などを公共サービスとして支持すると同時に、支援を受ける貧困者には、当時の懲罰的な救貧法が認める以上の自由を与えるよう求めている。スミスは、適切に機能する市場システムの構成要素と責任(たとえば信用と説明責任)に注意を払ったが、しかしそれ以上に、仮に市場経済が成功してもなお根絶できない不平等と貧困を深く懸念していた。このため、市場を制限する規制を設けてでも、貧困者と社会的弱者のための介入を行う重要性を認めていたのである。

 そして、ときには誤解の余地のないような単刀直入な物言いをした。「このため、労働者の利益になる規定はつねに公正なものだが、雇い主の利益になる規定はそうとはかぎらない」。スミスは多様な制度構造の支持者であり、理論としても現実の到達目標としても、利益追求動機を超える社会的価値の信奉者だった。

倫理、徳、結果

 このあたりで、『道徳感情論』とスミスの経済分析の関連性から、倫理学および政治哲学における同書の重要性に目を向けることにしたい。

 スミスは、物事が実際にどのように作用するかに興味を持ち続け、とるべき行動やルールを提言する際には、それがどのような世界を出現させるかということに、とくに注意を払っていた。また徳とは何かを検討するにあたっては、最終的に起きたことだけでなく、行動自体の性質やその背後にある動機が重要であることも認識していた。

 現にスミスが行った広範な倫理的評価では、実際に起きたことと、そうした結果を得るためにとられた行動の両方について徳を論じている。つまり、功利主義的倫理観(最終的にもたらされる功利性のみに直接的な意味があるとする)をはじめとする実践理性説によって広まった単純な「結果主義」の枠組みから、大きくはみ出していた。

 私たちは「最高点」での結果にだけ注意を向けるのではなく、なされた行動と、その行動を導いた意思決定の倫理性の両方に注意を払うべきである。なぜなら、どちらも「実際に起きたこと」の一部を成すからだ。スミスは徳と義務のみならず、この世界で現実に起きていることにも同時に関心を抱いており、それらはスミスの中で無理なく統合されていたと言えよう。

 スミスの徳の概念では、称賛と「称賛に値すること」との間に重要な区別を設け、行動の正当な根拠として後者に注目している。言うまでもなく、称賛に値する行動が現実に称賛を獲得することは多いし、それは誉められた当人にとって喜ばしいことであるだろう。だがスミスが言いたかったのは、たとえ称賛そのものが当人に満足をもたらすとしても、どうすれば称賛が得られるかではなく、その行動が称賛に値するかどうかをよく考えなさい、ということだった。

 スミスは「徳の本質に関する説明」を取り上げて、3つの見方を区別している。第1は「適切さ」、第2は「自分の利益と幸福」、第3は「他人の幸福」を基準とする見方である。しかしこの3つは統合することが可能だとスミスは説く。そして、論理的思考によってこれらを統合し、徳と称賛に値することとのバランスを実現することについて、次のように論じた。

 「したがって、正邪に関する最も確実な判断が原則や観念に縛られ、その原則や観念は理性が帰納によって導き出したのだとすれば、徳が理性に従うことにあると考えるのは、まことに適切と言えよう。この限りにおいて、理性は是認の可否の判断の源泉であり原動力であるとみなすことができる」」

http://business.nikkeibp.co.jp/article/book/20140422/263337/?P=1


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