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<韓日中共同歴史教科書・論戦2>可能でもなく、望ましくもない

2013-11-27 16:15:21 | アジア
 私は2のイム・ジヒョン教授に賛成です。

 実際民間の団体が作ったものがありますが、決して満足なものではありませんでした。

 それより自由な議論の活性化と、日本では教科書の自由な選択を可能にすることが重要です。
 
 イム教授の各国の歴史を副教材として利用し、客観的なものの見方を身につける、というのは大変好ましいと思います。


「<韓日中共同歴史教科書・論戦1>3国が共に未来を描く土台だ

2013年11月26日15時03分

[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版] comment86hatena0

最近、朴槿恵(パク・クネ)大統領が対立と不信の根源である歴史問題の壁を崩すために北東アジア諸国で共同の歴史教科書を発刊しようと提案した。この提案をめぐって「対話と協力のきっかけになる」という見解と「実現の可能性がない」という反論が互角に交錯している。2人の声を聞いてみた。

▼オ・ビョンス東北アジア歴史財団研究委員

14日、大統領が提案した「北東アジア共同歴史教科書制作」論が関心を引いている。「北東アジア平和協力のために、まず領域内国家が北東アジア未来に対する認識を共有」する必要があり、「ドイツとフランス、ドイツとポーランドがしたように北東アジア共同の歴史教科書を発刊することによって、東・西欧のように協力と対話の慣行を積み上げることができる」という趣旨であった。共同の歴史認識を通じて北東アジアの望ましい未来を引き出そうということであり、「歴史対話」を通じて現在のこう着状態にある北東アジアの国際関係を主導的に解決しようとする意味と解説されている。

ある者はこれに対して首をひねるかもしれない。歴史問題を外交レベルからアプローチすることは別にしても「東アジア共同の歴史教科書」というものがそんなに簡単に作ることはできないとの常識のためだ。戦後の東アジアにおける日本の位置はドイツ・欧州間の関係とは脈絡が違うし、東アジアという空間的範ちゅうや地域としてのアイデンティティさえ明瞭ではない。今のところ共同の教科書を記述できる国際的な条件が成熟しているのかも見回すことになる。教科書を「教室の授業で使うために政府の承認を受けた教材」として理解するならば、果たして北東アジア3カ国の教育過程と個別の国家社会の要求を全て満足させる教材をつくることができるだろうか。またドイツ・フランス、ドイツ・ポーランドの教科書は50年、30年の長い歴史対話を経て成り立っており、それも副教材として開発されたものだった。韓日、日中間の歴史対話はまだ10年しかたっていない。共同教科書を語ること自体が時期尚早ではないだろうかと思う見解もありうる。

歴史の意義は、単純な過去についての記憶ではなく、望ましい未来を展望するところにある。東アジア共同の歴史は、東アジアが共同で夢見る未来を展望するための基礎だ。このような点で、現在私たちがこれを提起しなければならない現実的な事情もある。領域内の国家間の歴史観のかい離による不信や一部の領土問題をめぐる対立・衝突の素地が大きくなっているためだ。すでに帝国的慣性を伴った中国の進める「大国崛起」(大国が立ち上がるという意)や、韓半島に直接的に焦点を合わせた日本の「集団自衛権」議論などは、韓国が未来を展望する時に考慮しなければならない定数となっている。もちろんこうした問題の背後には自国中心の歴史認識が内在している。このすき間で韓国は自尊と生存を模索しなければならない。近代以来、各国が追求してきたいわゆる「強国の夢」に強迫された帝国的・国家的暴力を反省して省察できる新しい歴史認識が必要な理由だ。それは実現されにくいだけに切実であり、すべき事でもある。

かつて韓国は、東アジア周辺国家を侵略したことがなく、東アジアで韓国の主導的役割を前提にする時にのみ地域的な平和が可能だったというのは歴史的教訓だ。

「周辺」の見解で「中心」を相対化し、「周辺」の立場で「周辺」を理解できる見解も韓国だけの潜在的な資産だ。すでに韓国は、地域平和のための歴史研究機関で東北アジア歴史財団を置いている。

今こそ韓国がすべきことは、長期的な時間をかけて経験や遺産を生かし関係部署や学界、研究機関の協力を通じて周辺国を説得する作業に着手することだ。「ユーラシアと太平洋地域が連係できる北東アジア平和協力地帯の構成」は韓国の夢であり、生存戦略であるからだ。

http://japanese.joins.com/article/740/178740.html?servcode=A00§code=A30


<韓日中共同歴史教科書・論戦2>可能でもなく、望ましくもない

▼イム・ジヒョン漢陽(ハンヤン)大学史学科教授

歴史に対する権力の関心がこの1カ月で急に高まっている。青瓦台(チョンワデ、大統領府)が国史の修能(日本の大学入試センター試験に相当)の必修課目化を議題化したことを始め、政権与党の「国政国史教科書」の公論化に続いて再び青瓦台が北東アジア共同歴史教科書編さんを提案した。お金と開発に向いていた李明博(イ・ミョンバク)政権の物神主義に比べれば、朴槿恵(パク・クネ)政権の歴史に対する関心と教養は明らかに引き立って見える。韓国史や中国史、日本史のような個別の「国史」の境界を跳び越える共同歴史教科書を通じて、東アジアの平和と協力を指向するという意志にも感心する。しかし、首をかしげてしまうのは仕方がない。

認識論的次元でこの提案は、歴史には1つの「正解」だけがありその「正解」は国家が公認しなければならないという発想から出発している。国家が主導して北東アジア共同歴史教科書を作ろうという提案は、「国政」教科書を通じて正解を教えて選択回答型の修能試験で正解をとれば良いという発想が東アジアレベルへと拡大した結果だ。正解コンプレックスをあおって国家が歴史解釈を独占するという発想こそ、全体主義時代の経験の遺産にすぎない。

実際にそれは、可能なことでも望ましいことでもない。金星出版社の教科書や教学社の教科書論争であらわれたように、国内ですら皆が納得できる歴史の正解を探すことはほとんど不可能だ。まして偏狭な国粋主義的歴史解釈が民族主義的対立の根源となっている東アジアの現実で、当事国のだれもが同意する共同教科書をつくろうという提案は、とても純真な発想か、非常に軽薄な政治工学の産物だと見なされるしかない。

さらに一方では、修能必修課目化と国定教科書回帰など国史教育強化を議題化しながら東アジア共同教科書だとは、少々あきれてしまう。さらに高句麗史、日本軍慰安婦などをめぐる過去の歴史論争だけでなく独島(ドクト、日本名・竹島)や尖閣諸島(中国名・釣魚島)などの領土紛争は、国家が正解だと公認する東アジア共同歴史教科書を作るからといって解決できる性質のものではない。

これに関連して、バルカンの歴史家たちの作業は非常に示唆的だ。旧ユーゴ内戦が残酷な民族浄化で幕を下ろした直後、彼らは自民族中心主義の偏狭な見解で隣民族に対する偏見をあおった「国史」教科書を作った歴史家自身たちこそが戦犯だという骨にしみた反省から、歴史教育を考え直し始めた。

彼らが行った初めての作業は、共同教科書ではなく互いに違う立場で書かれた資料と読み物を中心に、共通の歴史副教材を作るというものだった。自民族中心的な国史記述を相対化して、バルカン地域共通の歴史的経験を教えるという意志の表現だった。

同時に、歴史教師の年数方式に斬新な変化を呼び起こした。例えばギリシャ・ブルガリア・クロアチア・トルコの専門歴史家が、アルバニアの歴史教師の研修に参加してアルバニアの国家形成についての隣国の歴史的見解を講義するという形だった。韓国の歴史教師の研修に、日本と中国の専門歴史家が参加するようなものだ。

問題は、歴史解釈が同じなのか違うのかではない。その違いが敵対的か、非敵対的なのかだ。「国史」の民族主義的な呪術から解放されれば、歴史解釈の差は対立の原因ではなく思想的・政治的多様性の表現になるのだ。大切なのは、共同教科書ではない。トランスナショナルな歴史認識が「国史」の鋳型を代える時、東アジア共同教科書はなくても良いのであり、またないからこそ良いのだ。」

http://japanese.joins.com/article/742/178742.html?servcode=A00§code=A10


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