白夜の炎

原発の問題・世界の出来事・本・映画

宮柊二「山西省」より

2015-04-03 18:51:33 | 軍事
 宮柊二は日本を代表する歌人の一人。北原白秋の弟子である。

 彼は昭和十四年から十八年まで徴兵されて中国山西省で一兵士として従軍した。

 その頃詠んだ歌を戦後発表したのが歌集『山西省』である。

 冒頭におかれているのは以下の歌。

 「夜の電話 新潟県長岡駅において招集下令を知る。昭和十四年八月上浣、故郷へ向かフ旅上也。

  遠くより伝はりきつつふるさとの夜の電話に低き姉の声」

 そして戦地での歌が続く。

 昭和十六年

 「帯剣の手入れをなしつ血の曇り落ちねど告ぐべきことにもあらず」

 昭和十七年 中原攻勢の後の歌

 「左前頸部左セツジュ部穿透性貫通銃創と既に意識なき君がこと記す

  胸元に銃剣受けし捕虜二人青深き谿に姿を呑まる」

 「断片」より

 「費孝通著「支那の農民生活』 此処に述べし開弦弓村も今は亡し戦火を浴びて亡しと結べり」

 昭和十八年 展望の見えない戦場の情景に、中国共産党の姿が浮かび上がる。

 「浮かびくる中共論理の言語群、春耕、犠牲・統一累進税」

 敗戦後出版した歌集への「続後記』より

 「昭和十六年十二月八日アメリカと戦争状態に入った、という部隊電報があった。私たちは息をのんだ。

 髪の中に秘めた連絡報を発見されて捕らえられて来た二十歳位の女の密偵は『私は中共軍の兵士です』とだけしかいわなかった。その短い言葉は氏のような美しさに張っていた。そしてその夜自ら死を選んでいった。

 炎昼の喝に堪へ難いであろうと、既に人影を見ぬ農家の庭から梨をもいで捕虜に与えようとしたが、「私たちは老百姓の作物を無償でもらってはいけぬことになっている』と答えて見向くことをしなかったとき、その青年は静かな目をしていた。そして舌を噛み切って死んでいった。

 中国ははっきりとした将来の自信に立って、犠牲を見守り見送っていた。・・・」

 

大学改革と大学における「資格」取得ブームについて

2015-04-03 16:34:30 | 教育
 安倍政権の元で大学改革が進められつつある。その一つは職業訓練的性格を首都した大学軍を、従来のものとは区別して作ろう、というものである。経営競争基盤CEOの冨山和彦氏によって提言されたこの方向性は、どうやら実現に向かいそうです。

 さらにいえば既に低偏差値の大学では-地方の小規模大学はまさにその底辺を形成して、ドンピシャで該当する訳ですが-すでに高等教育機関ではなく、高校までの学習の保管と、世の中に出て行って就職できる人材の育成機関になっています。ある意味で富山氏の提言は、日本の大学の実態を整理してみせたにすぎないという部分があります。

 そのような職業訓練的大学では今資格取得が大流行りです。経済・経営系であれば、簿記、経済学や経営学検定、そしてエクセルやワードなど。それから英検やトフル。

 そしてもう一つ就職に関して次のような実態もあります。学歴、ということがよくいわれますが、それは大学卒についていえば、大学卒か否かではなく、どこの大学を出たか、ということを意味します。そして大学生が就職を希望するランキング上位の大学への就職は、旧帝大、一橋、東工大、外大、そして私立では早慶あたりがやはり圧倒的に有利です。実際地方の小規模大の学生は、そもそも希望しませんし、希望しても面接にたどり着ける学生はまずいないといっていいでしょう。

 このことは有名企業に入るには、特定大学に入学し、卒業することが一種の「資格」になっている、と考えるとよく理解できます。各種の資格が世の中にあふれていますが、それは特定の能力に関する資格です。しかし企業が求めるのは、総合的に考えて自分の会社の将来を背負っていけるような人間が欲しいのです。そのような人間であるとの判断のまず第一条件が、有名大卒、という「資格」なのです。

 そして職業訓練的企業で流行する資格取得ブームは、まさに有名企業就職の「資格」がないため、あらかじめそこを目指すこと自体から排除された学生たちが、地域の中小・あるいは中堅企業を目指す際の差別化の道具として求めるものなのです。

 そして今の大学改革が目指すのは、そのような地域の需要と、それに応じるのが精一杯の学生のマッチングを制度化しようということに他なりません。しかし、このようなすぐ目に見える能力・資格は、すぐに役に立つ代わりに、すぐに役に立たなくなるという性格も併せ持っています。そこが有名大学卒という「資格」との違いです(この資格の妥当性についてはここでは一旦議論はおきます)。また少子化の中で有名大学への入学辞退が簡単になりつつある中、有名大学のレベル低下、必然的にし各大学か、ということも懸念されます。そしてこれは今更なのですが、高等教育機関-初等・中等もですが-における市民教育の欠如という問題があります。市民的権利をきちんと理解し身につけることのない卒業生は、ただただ奴隷のように働くだけの「労働者」、社会のありようを批判できない「社会人」になってしまいかねません。

 この大学改革については、まず市民教育の充実と実質化。そして高校までの各段階での学力の担保が必要不可欠です。出なければその場限りの資格取得に追われ、底辺労働をうろつくだけの労働者を送り続けるだけの機関に、大学を転換することになりかねないと思います。