宮柊二は日本を代表する歌人の一人。北原白秋の弟子である。
彼は昭和十四年から十八年まで徴兵されて中国山西省で一兵士として従軍した。
その頃詠んだ歌を戦後発表したのが歌集『山西省』である。
冒頭におかれているのは以下の歌。
「夜の電話 新潟県長岡駅において招集下令を知る。昭和十四年八月上浣、故郷へ向かフ旅上也。
遠くより伝はりきつつふるさとの夜の電話に低き姉の声」
そして戦地での歌が続く。
昭和十六年
「帯剣の手入れをなしつ血の曇り落ちねど告ぐべきことにもあらず」
昭和十七年 中原攻勢の後の歌
「左前頸部左セツジュ部穿透性貫通銃創と既に意識なき君がこと記す
胸元に銃剣受けし捕虜二人青深き谿に姿を呑まる」
「断片」より
「費孝通著「支那の農民生活』 此処に述べし開弦弓村も今は亡し戦火を浴びて亡しと結べり」
昭和十八年 展望の見えない戦場の情景に、中国共産党の姿が浮かび上がる。
「浮かびくる中共論理の言語群、春耕、犠牲・統一累進税」
敗戦後出版した歌集への「続後記』より
「昭和十六年十二月八日アメリカと戦争状態に入った、という部隊電報があった。私たちは息をのんだ。
髪の中に秘めた連絡報を発見されて捕らえられて来た二十歳位の女の密偵は『私は中共軍の兵士です』とだけしかいわなかった。その短い言葉は氏のような美しさに張っていた。そしてその夜自ら死を選んでいった。
炎昼の喝に堪へ難いであろうと、既に人影を見ぬ農家の庭から梨をもいで捕虜に与えようとしたが、「私たちは老百姓の作物を無償でもらってはいけぬことになっている』と答えて見向くことをしなかったとき、その青年は静かな目をしていた。そして舌を噛み切って死んでいった。
中国ははっきりとした将来の自信に立って、犠牲を見守り見送っていた。・・・」
彼は昭和十四年から十八年まで徴兵されて中国山西省で一兵士として従軍した。
その頃詠んだ歌を戦後発表したのが歌集『山西省』である。
冒頭におかれているのは以下の歌。
「夜の電話 新潟県長岡駅において招集下令を知る。昭和十四年八月上浣、故郷へ向かフ旅上也。
遠くより伝はりきつつふるさとの夜の電話に低き姉の声」
そして戦地での歌が続く。
昭和十六年
「帯剣の手入れをなしつ血の曇り落ちねど告ぐべきことにもあらず」
昭和十七年 中原攻勢の後の歌
「左前頸部左セツジュ部穿透性貫通銃創と既に意識なき君がこと記す
胸元に銃剣受けし捕虜二人青深き谿に姿を呑まる」
「断片」より
「費孝通著「支那の農民生活』 此処に述べし開弦弓村も今は亡し戦火を浴びて亡しと結べり」
昭和十八年 展望の見えない戦場の情景に、中国共産党の姿が浮かび上がる。
「浮かびくる中共論理の言語群、春耕、犠牲・統一累進税」
敗戦後出版した歌集への「続後記』より
「昭和十六年十二月八日アメリカと戦争状態に入った、という部隊電報があった。私たちは息をのんだ。
髪の中に秘めた連絡報を発見されて捕らえられて来た二十歳位の女の密偵は『私は中共軍の兵士です』とだけしかいわなかった。その短い言葉は氏のような美しさに張っていた。そしてその夜自ら死を選んでいった。
炎昼の喝に堪へ難いであろうと、既に人影を見ぬ農家の庭から梨をもいで捕虜に与えようとしたが、「私たちは老百姓の作物を無償でもらってはいけぬことになっている』と答えて見向くことをしなかったとき、その青年は静かな目をしていた。そして舌を噛み切って死んでいった。
中国ははっきりとした将来の自信に立って、犠牲を見守り見送っていた。・・・」