白夜の炎

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吉田調書 第3章 2 智慧の慢心

2014-06-05 14:08:40 | 原発
「 2011年3月11日午後2時46分、日本のはるか東方の太平洋の海底で超巨大地震が発生した。東電福島第一原発所長、吉田昌郎は、発電所の敷地のほぼ中央に位置する事務本館2階の自室で書類に目を通していた。揺れはだんだん大きくなり、棚の上のものが落ち、テレビがひっくり返った。

 机にしがみつき、下に潜ろうとしたが潜れなかった。所長室を出て事務室に入ると天井の化粧板が落ちていた。本棚の書類が散乱し、ほこりが白く舞っていた。

 原子炉を冷やすのになくてはならない電源がどこからも得られないという、「AM」すなわち過酷事故時の対応を定めたアクシデント・マネジメント策が想定していない事故の始まりだった。

――― 電源喪失ですと、電源融通を受ける先である隣も一緒にべしゃっとつぶれるということは考えていないという状況がどうもあったようなんです。その点に関しては、所長におかれては、AM策を整備する上で、複数のプラントが同時に故障するという事態を想定していたかとか、していなかったとか、もしくは全然考えが及んでいなかったか、その辺りはいかがでしょうか。

吉田「一言で言うと、設計ベースの議論がされていたのはわかっていますけれども、設計の中でも、今、言ったみたいに、定説としてという言い方はおかしいんですけれども、我々の基本的な考え方は内部事象優先で考えていたということです。私は入社してから今まで、あまりタッチしていないんですけれども、ようするに、原子力の設計の考え方はそういう考え方だということは承知していた。今度、運用側に回った際に、運用側で同時に今回のような事象が起こるかということをあなたは考えていましたかという質問に対して言うと、残念ながら、3月11日までは私も考えていなかった」
――― 今後に生かすという観点からなんですけれども、どうしてそういう考え方になってしまったのだろうか。

吉田「一つは、同時にいったという意味で言うと、柏崎の中越沖地震は同時にいったんです。同時にいったんですけれども、我々としては、プラントが止まって、えらい被害だったんですけれども、ようするに、無事に安全に止まってくれたわけですよ。安全屋から言うと、次のステップはどうあれ、安全に止まってくれればいいという観点からすると、あれだけの地震が来ても、ちゃんと止まったではないの、なおかつ、後で点検したら、設計の地震を大きく超えていたんですけれども、それでも安全機器はほとんど無傷でいたわけです。逆に言うと、地震は一気に来て、全プラントを止める力を持っているけれども、それは止まるまでの話であって、それ以上に、今回のように冷却源が全部なくなるだとか、そういうことには地震でもならなかった。設計用地震動を大きく何倍も超えている地震でそれがある意味で実証されたんで、やはり日本の設計は正しかったと、逆にそういう発想になってしまったところがありますね」

 吉田は地震直後、「GM」すなわちグループマネージャーに安否確認をするよう指示を出し、午後3時ごろには、ユニット所長、発電部長、保全部長らとともに、免震重要棟2階の緊急時対策室に入った。

 すると、まず、運転中の1号機、2号機、3号機が無事スクラムしたとの報告が上がってきた。スクラムとは、核分裂反応を抑える働きがある制御棒が一斉に核燃料の間に挿入される動作のことだ。大きな揺れを感じると自動的に挿入される仕組みで、これがうまくいったとの知らせだ。核分裂反応はとりあえず収まり、原子炉は核分裂反応が連続して起きる臨界状態から脱する。原子炉は最初の手続きを正常に終えた。
――「3月11日までは私も考えていなかった」

 一方、発電所への外部からの電源供給が途絶えたらしく、バックアップの非常用ディーゼル発電機が起動したとの報告が入った。後に送電線の鉄塔が地震で倒壊したのが原因とわかるが、その瞬間は、非常用の発電機が動いたのだから外部電源はどこかでいかれたのだろう、というぐらいのことしかわからなかった。

 続いて、福島第一原発を大津波が襲った。免震重要棟は海岸線から少し離れた丘の上にあるため、吉田はこれも何が起きたのかすぐには状況をつかめなかった。

 「1号機の非常用ディーゼル発電機が止まり、すべての交流電源が失われた」。「続いて3号機でも」。「今度は2号機です」。情報はぽつりぽつりと舞い込んだ。それらがつなぎ合わされ「ということは発電所全体が津波に襲われたのではないか」と推察された。

 発電所内のすべての電源が失われることもありうる。吉田は、ここでようやく大変なことになったと気付いた。

 東電の「安全屋」すなわちアクシデント・マネジメントの策定者は、すべての事象や条件を網羅していると錯覚させるぐらい細かい想定をし、対応策を作り上げている。しかし、対策として打つ手のほとんどは電源があって初めて有効に働くものだ。すべての電源が失われることはない、という前提がそこにはある。

 「はっきり言って、まいってしまっていた」という吉田は、アクシデント・マネジメント策にない方法をこれから編み出すことにした。


――― 最終的には電源融通が受けられるという前提であったようですけれども、そのもう一つ先、電源融通元もだめになる場合ということは想定していらっしゃいましたか。

吉田「だから、確率の問題だと思うんです。極論しますと、これは経験の範囲の議論になってしまうんです。ようするに、インターナショナルで、全世界で原子力発電所は400とか500とかありますね。実験炉は別にして、商業炉でも昭和四十数年ぐらいから動き始めまして、炉年で言えば、ものすごい、400基で平均で20年運転していれば、世界じゅうで8,000炉年ぐらいの運転経験があるわけです。そこでいろんなトラブルを経験しているわけですけれども、今、おっしゃったように、今回のような、電源が全部、あて先も涸れてしまうということが起こっていないわけです。そこが我々の一つの思い込みだったのかもわからないですけれども、逆に自信を持っていたというか」 (中略)

――― 今回、振り返ってみたときなんですけれども、まず、消防車を水源とする代替注水というのは、ちゃんと文字で、AMとして整備しておけばよかったなとは思われますか。

吉田「今からだったら思いますよ。だけれども、私自身も、賭けだと思ったのは、本当にFPラインで入るんだろうかというのは、最後の最後までわからなかった。減圧してFPが入るような炉圧にまで下げないといけないではないですか。ということは、水位が下がるではないですか。そこでFPで水を入れるわけでしょう。だけれども、FPのラインがどこかで地震でたたき切れていたら、いくら入れても入らないですね」

――― 建屋の中のFPは大丈夫だろうという見込みの下に期待はされていた。

吉田「もちろんありましたよ。私も柏崎の地震のときに、あの地震でも、タービン建屋、リアクタービルのFPのライン、私は全部見て回りましたけれども、一部変形していますけれども、たたき切れているところはなかったですから、ある意味、現実的には、たぶん、もってくれるだろうなと思っていましたけれども、わからないですからね。実際、あの地震が来て、建屋の中は。最後は賭けですよ。FPのラインが健全かどうかというのは。でも、それしかないですから、そこを使って入れたということです」


 吉田が賭けたのは、原子炉に張り巡らされた消火ラインだった。アクシデント・マネジメント策には、D/DFPすなわちディーゼルエンジン駆動消火ポンプを使って、この消火ライン経由で原子炉に水を注ぎ込む策までは記されていた。
 しかし、吉田はこのディーゼルエンジン駆動のポンプでは圧力が弱過ぎて原子炉の圧力が高くなってくると水が入らなくなるので、より圧力の強い水を吐き出せる消防車をこの消火ラインにつなぎ込む策を思いついた。併せて、水は淡水に限らず、海水も使って原子炉を冷やそうと決めた。

 消火ラインは原子炉周辺の重要機器に比べると耐震性が低く、地震で壊れている可能性があった。しかし、東電本店の原子力設備管理部長として2007年7月の新潟県中越沖地震での柏崎刈羽原発の傷み具合をつぶさに観察していた吉田は、これは使えると踏んだ。

 水の方も、中越沖地震の際、変圧器が燃えてなかなか消し止められなかったことが批判され、各原発で防火水槽を増設してあったが、それだけではとても足りないと思い、早いうちから海水の利用を決心していた。


――― 夏のヒアリングでも、南明興産とか、協力の方々との関係で、当然、業務内容は火を消すという内容だったんで、代替注水として協力するという話になっていなかったということもあって、協力を得るのがなかなか大変だったとか、あと、消防車を水源とする代替注水の話、動き出しが遅れるような状況も、あらかじめ文字で書いておけば、もう少し、その状況は。

吉田「今から思えばそうでしょうと思いますけれども、前の段階に返ったときに、AMのいろいろな仕組みを考えた人たちがそこまで考えていたかというと、まったく考えていなかっただろうと言いたいだけの話です。AMの連中は、後からがやがや言うんですよ。私はこの会社の安全屋は全然信用していない」 (中略)

――― 頭では海水を入れるという可能性も認識していることはしていたけれども、実際に、本当に海の水を最後に入れることになるというふうに考えていない?

吉田「ないですよ。もしも考えていれば、それこそ海の水を吸い上げるようなラインを別に設計しておくべきです。3号機のバルブピットのところにたまった津波の海水をまず水源として使うだとか、現場の工夫だけでやってきたわけですから、事前のアクシデント・マネジメントをデザインして決めた人は誰も考えていないですよ。私から言わせれば、形だけ検討しているんですよ。私だって、大元を決めていないけれども、それに従って発電所の運営して、所長もやっているわけですから、そこに思い至らなかった自分は非常に恥ずかしいと思いますけれども、最初にそれを想定していろんな仕組みを考えた連中の中に、本当にそこまで覚悟を決めて検討した人がいるかどうかというと、いないと思います」


 消防車を使うこと、および海水を使うこと。吉田のこの二つの創意について、政府事故調はあまり評価していないことが、聴取の流れから読み取れる。

 事故調としてはやはりアクシデント・マネジメント策に従うことが最善で、それができないのはアクシデント・マネジメント策が不備だったからだという整理をしているように見える。

 しかし、実際、過酷事故と向き合った吉田にとっては、そんなことはどうでもよかったようだ。
 吉田は、アクシデント・マネジメント・ガイドを開いて見たとか参考にしたことはあるか、との質問に「まったくないです」「私は開いていません」と答え、逆に人による事前の想定などいかに役に立たないものであるかを説いた。
 吉田はまた、日本の原発は、故障に関しては内部事象優先で設計されており、津波や竜巻、飛行機の墜落、テロといった外部事象によって複数の原発が同時に故障するとは考えていなかったと説明した。

 こうした考え方は、2007年の新潟県中越沖地震で柏崎刈羽原発において複数の原発が同時にやられるという事象が起きた際に改められる機会を得たが、原子炉がすべてうまく冷却できたことで、逆に「正しかった」とされてしまったと主張した。

 人がおこなう想定は「経験の範囲」でしかできないとし、きちんと想定してあらかじめ文字にしておけばうまくいったのではないか、などというのは後からだから言える話だ、とも主張した。

 吉田が述べたこれらの観点は、将来に向けた議論に資すると思えるが、政府事故調査・検証委員会の報告書からは読み取ることはできない。(文中敬称略)」

http://digital.asahi.com/special/yoshida_report/3-2m.html


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