アラカン新米ママの東京ぐうたら日記

45歳でできちゃった婚、46歳でいきなりシドニー移住&出産、東京に戻り、右往左往のままはや娘は10歳を過ぎ・・・。

タンゴの日に旅立った108歳。

2020-12-17 18:25:55 | 日記

次の日12日に「子どものアトリエ」でちょうどキャンドルを作ったので、その夜灯しました。

12月11日、タンゴの日(カルロス・ガルデルとフリオ・デ・カロの誕生日らしいです)に、108歳の祖母がこの世から旅立ちました。
「タンゴが一番好き。ラ・クンパルシータを聞くと、踊りたくてムズムズしちゃう」と言っていた祖母が、密かにこの日を
選んでいたのかもしれません。


「大きいおばあちゃんがキャンドルのところにす〜っと入ってきた」と娘。

素晴らしい生命力の持ち主で、11月に1泊だけの入院で、「病院はいやだ、自宅で死にたい」という本人の意志を尊重した叔母が退院させ、自宅で看病始めてから、なんども危篤状態を乗り切り、その度に「奇跡的回復」と主治医を始め、周りの私たちを驚かせ、でも苦痛も激しくなり、それでも最後の最後はとても穏やかに息を引き取りました。



最後の1ヶ月弱だけ病気だったけれど、あとはずっと元気で、いつも主治医が往診のたびに「おたくはおばあちゃんが一番元気ですね」とおっしゃっていました。


去年のビギリア(クリスマスイブ)、大好きなロゼのスパークリングで乾杯!

お肉や揚げ物が大好きで、85歳くらいまでずっとタバコも吸っていたし、お酒も結構いけるクチでした。

禁煙したのは、風邪をひいて、喉がいがらっぽいのでタバコをやめてみたら、平気だったのでそのままやめたらしい。
でも食欲が増えて、体重が5キロくらい増え、膝が痛み出し、叔母達が心配して「またタバコ吸った方がいいんじゃない?」と勧めて見たりして(笑)。でも、禁煙したままでしたが・・・。

95歳だか96歳だか、とにかく90代後半の頃、毎年夏を過ごす山荘で、叔母達がヒレステーキ、祖母と私がサーロインステーキをいただき、次の日電車で帰る私を見送りがてら駅の近くのお店でお昼を注文したら、叔母達も私も胃がもたれてお蕎麦でいい、と言っていたのに、祖母は「カキフライ」と食欲全開だったこと、よく覚えています(笑)。


お花がいっぱいでいい香りがするお祭壇

お骨拾いをするときに、「108歳でこんなに立派で丈夫なお骨は見たことがありません!若い人並みです!」と係の方が驚いて
ました。あまりにしっかりしているので、骨壷にあふれそうになり、途中でトントンと「ならして」残りのお骨を入れるスペースを作るほど!
「お歳の方ですと、全部お粉になっちゃって、この半分にもならない量の方もたくさんいらっしゃいます」とこれまた係の方。


去年、イースターで集まったあと、ひ孫たちと。

最後まで私たちを驚かせて天に昇っていった祖母は、結核を患って戦争から戻った祖父を看病したり、事故で全身麻痺になった3女を看取ったり、もちろん苦労もしたようですが、私が話を聞いた限り、好きなように人生を生きた幸せな人だと思います。


去年のビギリアで。

大正元年生まれの、9人兄弟だかの末っ子の祖母は、山梨の小渕沢でかなり甘やかされて育ったようです。

お祭りの日だか、いろんな人の家の外に干してあるお団子を差しては食べながら、歩いた、というおとぎ話みたいな、どういう状況だか私もよく覚えていない話から、女学校は「1日一本しかない電車に乗って行くから、乗り遅れたらその日はお休み」という呑気さ。冬に凍る諏訪湖で、袴に下駄(といっても下駄に刃をつけたスケート靴らしい)でスケートしたことや、北海道の学校でお裁縫の先生の免許をもらったけれど、学校の先生になるのが怖くて、せっかく長兄が決めてきた就職先の学校をけって、実家の山梨に戻ってきたこと。でも、いい年をして嫁に行かない娘に実家は居心地悪くて、東京に嫁いだ姉が一時帰省した後、東京まで見送るという話でついていき、そのまま戻らなかったこと。東京で高島屋の経理部に入り(お顔は良くないけれど、そろばんは上手だったから、と本人談)、銀座でコティの白粉などお買い物するのが大好きだった、という「モガ」だった話。下宿人で苦学生だった祖父と結婚したのは、「何も持ってない人だったから、きっと親兄弟は嫌がっていたと思うけど、ハンサムだったから」という話。


5歳と3歳のひ孫、娘二人に囲まれて。

戦争中、お姑さんのいる宮城に疎開したけれど、馬が合わず、さっさと実家の山梨に移動し「おじいちゃんは、やっぱりそうなると思っていた、と言っていたわ」と可笑しそうに話していたこと。


祖父の33回忌、叔母の23回忌の法事旅行先で、ハッピーバースデーをイギリスのホストマザーに
歌った時


社交ダンスが大好きで、ダンス仲間の近所の奥様達と夜密かに家を抜け出し、ダンスホールに行っていた話。
「ダンスシューズをカバンに入れて、お勝手口から声をかけるのが合図で、こっそり出かけて、楽しかったわ〜。特にタンゴが好きだったわ。特にラ・クンパルシータが、ズッチャッ、チャッチャッチャ、ってかかるともういてもたってもいられなくて、山崎さんのおばさんと二人で踊り出したのよね」

こんな話を小さいうちから散々聞かされていたので、30歳も半ばくらいに私もアルゼンチンタンゴにハマったのかもしれません(笑)。


義妹の法事で、ひ孫に車椅子を押してもらう。(杖をついて歩けるのですよ)


ここ最近1、2年は白髪のままでしたが、そしてここ20年くらいはお洋服ですが、その前は、ずっと金髪で和服でした。
なんで金髪なの、と聞いたら「白髪を染めたいけれど、黒髪だと白髪がないふりしてるみたいで嫌だから、髪を染めてますってはっきり分かるように金髪にするの。」



青鞜に参加していた生田花世先生を自宅にお呼びして、数人集めて、源氏物語の講義をしていただいたそうです。もしかしたら悩み相談もしていたのでしょうか、「気持ちを切り替えなさい、切り替えることが大切です」とよく先生に言われた、と話していました。
「だから切り替えが早んだな、おばあちゃんは」というところで私は止まっていたのですが、今振り返っていると、わざわざ青鞜に寄稿していた人をお願いするとは、もしかしたらフェミニストだったのかな、なんて遅ればせながら思います。



人生で一番嫌いだったお習字を、90歳過ぎてから初めて、毎日暇だから練習するので、しっかり上達して、毎年区の展覧会には
最高齢ということ(だけで)一番手前に展示されている、と聞いた時には「何事も始めるには遅くない」と実感したものでした。
短歌も60代から初めて、自費出版で何冊も出していました。でもお習字の先生も短歌の先生も先に亡くなってしまいました。
「うんと若いお友達を作りなさいね。10歳なんて近すぎる、20歳も30歳も、うんと若い方がいい」いつもいつも見送る立場
というのも、寂しいことかもしれません。



何十年もお世話になった主治医の先生は、最後の往診の後、つまり祖母の死亡を確認した後、ティッシュをたくさん抜き取って
廊下に出て声を出して泣かれていたそうな。いつも見てくださっていた看護婦さんも、最後の夜には、涙を流していました。
20年以上お世話になったヘルパーさんは、最後の方、夜中を見てもらう家政婦さんを頼んだときには、心配だからと何度も
監督に来てくださいました。


六義園。


「何度お見合いさせても嫁に行かない」と文句を言っていた未婚の叔母二人がいたからこそ、「最後に自宅で死にたい」という
望みを叶えてもらえたのだと思います。75歳と80歳、見た目は若いですが、主治医もヘルパーさんも心配するほど頑張って
看病していました。

わがままを言っても、なんとなくそうなってしまう、そうさせてくれる人たちを引き付ける力が祖母にあったんだと思います。


お葬式が終わった後、こんな空でした。

108歳まで元気に生きたんだから、大往生です。
でもね、人間って欲張りですね、主治医の先生も、一緒に住んでいた叔母も、私も夫も娘も「120歳まで生きる、ギネス記録を
更新するって本人が言っていたし、ものすごく生命力があったから、どこかでそれを信じていたし、少なくとも110歳までは生きると思っていた」のです。


六義園の紅葉。

お通夜では平静でいた私ですが、お葬式では大泣きしてしまいました。マスクの中に鼻水が溜まるので、
読経中にも関わらずブーブーと何度も鼻をかみ、娘に驚かれました。「あんなに泣いたママを見たのは初めて!面白かった」などとほざいています(笑)。


同じく六義園。カモがものすごくたくさんいました

気持ちの切り替えが早い祖母は、もうさっさとこの世を忘れて、あの世の再会を喜んでいるのかもしれません。
おばあちゃん、とても長い間本当にお疲れ様でした。
ゆっくり休んで、おじいちゃんをはじめ、そちらにたくさんいる家族や親戚、お友達との再開を楽しんでくださいね。

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