あざみ野荘つれづれgooブログ

おもに、サッカー関連のコメントを掲載していきたいです。
’78年のW杯アルゼンチン大会以来のサッカーファンです。

「ゲド戦記」追記

2006-08-04 01:29:43 | 映画・ドラマ
 映画「ゲド戦記」と、その現時点での評価について、少しだけ。
 批判票のほうが圧倒的に多い(主にジブリファンと原作ファンだと思う)感じなのですが、私は原作ファンに入ると思うので、原作ファンたちの批判と意見については、尤もだと思うし共感もできます。でも、ジブリアニメファンたちの、ジブリと宮崎駿アニメを愛する彼らの批判については正直よくわからない。私は、アニメファンでもジブリファンでもないので、ナウシカとかラピュタとかと比べて、絵や音楽、キャラクターがどうとかこうとかというアニメファンのマニアックな批判は、ぴんと来ないのです。ただ、私が好きなジブリ作品が「千と千尋」や「ハウル」などのジブリファンにはあまり人気がないらしい作品なので、彼らとは作品を評価する観点は大分違うかなとは思う。そして、今回の「ゲド」の絵の評判があまりよくないらしいのですが、私も最初の竜の出てくる海のシーンやテナーが出てくるシーンでは、「何か”ハイジ”みたいやなあ」と感じましたが、これが意図なのかなとも思ったし、物語がよければ、そんなことは”どうでもいいか”と思っていました。(多くの人が指摘していた「テルーの唄」の場面は、唄はよいのですが、長過ぎて、やはり少し冗長だったと思いましたが。)
 よかったのは、ホート・タウンの街、建物の描写で、お父さんにはない絵の魅力、実力を感じました。
 そして多くの人の不評を買っているらしいキャラクターの魅力の無さですが、原作「ゲド戦記」の世界観、哲学を表現するのに、この映画で彼らが目指した方向(作画部分)は、私はそんなに悪くはないと思います。(アレンのイメージは、私的には幼すぎましたが―原作のアレンは、最初からあれほど屈折してはいません。彼は最初から、若く、未熟ながらも王子然とした高貴さを備えて私たちの前に登場します。)
 それに「テルーの唄」はなかなかよかったし、お父さんの駿さんだと、どうしても良くも悪くも華やかな”駿ワールド”になってしまうと思うので、原作「ゲド戦記」の世界を表現するのにはこっちのほうが合っているとも思いました。成功しているかどうかは別にして。
 でも、私にとって「ゲド戦記」は、あくまでも”ゲドとテナーの物語”なので、アレンとテルーに比重が置かれた映画は、やはり違和感があるし、映画だけを観たひとにも「?」な部分が(ゲドがなぜ大賢人と呼ばれているのか、ゲドとテナーの関係等)あったことと思います。テルーは原作でも重要な役ですが、原作の設定を大幅に変えて、何故あのような形でアレンとからませたのか?原作「さいはての島へ」の、ゲドとアレンの男ふたりの旅では、殺風景すぎて客を呼べないと思ったからなのか?そんな風にも考えてしまいます。何か、その辺りに、安直さを感じてしまう。テルーの「命を大切にしない奴なんて大嫌いだ」というセリフにも同じことを感じました。「命」は大事なことはそのとおりなのですが、映画のアレンの悩みは、そんなひと言によって簡単に変わってしまうほど単純なものだったのでしょうか。テルーという少女を物語のヒロインとして前面に出してきたために、(本来はゲドの戦いであった)アレンの「影との戦い」の物語も、ゲドとアレンの(命をかけた世界の均衡を回復するための)旅も中途半端なものになってしまって、私たちに、彼らの戦いや旅の困難さが伝わって来ないし、ラストの「クモ」との闘いも、原作第四巻「帰還」の邪悪な魔法使いアスペンの話が合成されているので、映画でのゲドの役回りが中途半端なものになってしまって、多くのひとが、映画のゲドに対して物足りなさを感じてしまうことになってしまっていると思う。
 そして、「二兎を追う者は一兎をもえず」という映画になってしまったというのが、原作ファンの感想なのではないでしょうか。やはり、細かいエピソードの積み重ねによってしか描けないものがあると思います。

 ※※参考記事


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1 コメント

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TBとコメントありがとうございました (きつね)
2006-08-07 23:47:47
こんばんは。

TBとコメントありがとうございました。

ジブリというか宮崎駿作品の技術的なクォリティの高さは、世界に誇れるものなので、その部分に対する思い入れや不満はある程度は理解できるのですが、巷の「ゲド戦記」批判は少し行き過ぎているように思いました。



原作は一巻を読み終え、二巻に入ったところです。

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