読書と映画をめぐるプロムナード

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アラビアのロレンスと満州のロレンス、その光と影

2008-05-19 16:55:10 | 映画;洋画
まずは、あまりにも有名な次の名作を。

「アラビアのロレンス」(イギリス/1962年)
監督:デヴィッド・リーン
原作:トーマス・エドワード・ロレンス(『智恵の七柱』平凡社[東洋文庫])
脚本:ロバート・ボルト
音楽:モーリス・ジャール
撮影:フレデリック・A・ヤング、ニコラス・ローグ
出演:ピーター・オトゥール、アレック・ギネス、アンソニー・クイン

「アラビアのロレンス」、この映画を初めて観たのは小学校のとき体育館で、だったように思います。記憶違いかもしれませんが、当時体育館でごくたまに映画の放映がありました。もし、私の記憶が正しいとして、なぜこの映画を見せられたのか、ひとつの英雄伝記としてだったのか、としても今思うとかなり疑問が残ります。上映時間が4時間弱であるとこを考えると、きっと記憶違いですね。

「アラビアのロレンス」は、欧米諸国にとっては英雄なんでしょう。そして名作と謳われる。一方、「満州のロレンス」、あるいは「東洋のロレンス」といえば、怖れられたり、憎まれたりしている、いわゆる悪漢と評され、日本でさえその名を知ったのが今日です。第二次世界大戦に敗れたことが、この二人の実在の人物のその後の評価を固めてしまいました。

トーマス・エドワード・ロレンス(Thomas Edward Lawrence、1888年8月16日-1935年5月19日)は、「アラビアのロレンスとして知られているイギリスの軍人・考古学者。オスマン帝国(トルコ)に対するアラブ人の反乱(アラブ反乱)を支援し、その成功に貢献した。ウェールズのトレマドックに生まれる。父はトーマス・ロバート・タイ・チャップマン(ロレンス)、母はセアラ・ロレンス。ロレンスは母方の姓で、1927年にはショーに改姓した」。

「1907年にはオックスフォード大学ジーザス・コレッジへ進学する。オックスフォード在学中から中近東を訪れて、1906年7月にはレバノンを旅して十字軍遺跡などを調査している。在学時代の恩師にもあたるデイビット・ホガース博士と1911年の卒業後にも大英博物館の調査隊に参加してトルコへ渡っており、若い頃からアラブ人と接触し、アラビア語も習得していた。1913年には帰国するが、シナイ半島の測量のため再びエジプト・トルコへ渡る。この時期のロレンスの活動には不明点が多く、測量以外の情報収集にも従事していることから、英国特務機関のメンバーであったとも考えられている。同年6月に帰国」。

「翌1914年7月に第一次世界大戦が勃発し、イギリスも参戦する。10月に召集されイギリス陸軍省作戦部地図課に勤務することになる。臨時陸軍中尉に任官され、同年12月にはカイロの陸軍情報部に転属となり、軍用地図の作成に従事する一方で、語学を活かした連絡係なども務める。1916年10月には、新設された外務省管轄下のアラブ局(局長はホガース)に転属され、同年3月には大尉に昇進。この間の休暇にアラビア半島へ旅行しているが、これはオスマン帝国に対するアラブの反乱の指導者を選定する非公式任務であったと言われる」。

「メソポタミアのクトで籠城中の英軍を救援するため、オスマン帝国軍の買収工作に参加し、10月にはハーシム家当主、フサイン・イブン・アリーの3男ファイサル・イブン・フサインと会見。この年から1918年までは情報将校としてアラブの反乱を支援し、ヒジャーズ鉄道の破壊などを行う。1921年1月には植民省中東局・アラブ問題の顧問としてウィンストン・チャーチル(後の首相)から招聘されるが、1922年には偽名『ジョン・ヒューム・ロス』で空軍に二等兵として入隊し、1923年1月には除隊。同年2月には偽名『T・E・ショー』で陸軍戦車隊に入隊する」。

「1925年には空軍に復帰する。そして、1935年5月13日、オートバイを運転中の交通事故で意識不明となり、5月19日に死去、46歳。墓所はドーセット州モートンの教会」。


土肥原 賢二(どいはら けんじ、明治16年(1883年)8月8日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、「大日本帝国陸軍大将。謀略部門のトップとして満州国建国及び華北工作で暗躍。極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり死刑判決を受ける。1978年に靖国神社に合祀される。岡山県岡山市出身。青山小学校、仙台陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、明治37年(1904年)10月に陸軍士官学校、大正元年(1912年)11月に陸軍大学卒業。大正元年(1912年)、陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の板西機関で対中国工作を開始。板西機関長補佐官、天津特務機関長と出世」。

「昭和6年(1931年)夏、奉天特務機関長に就任。満州事変の際、奉天臨時市長となる。同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇帝溥儀を隠棲先の天津から脱出させるが、このとき諸外国にその事実が露顕した際には、溥儀もろともその乗船を沈没させる予定だったとも言われる」。

「その後、華北分離工作を推進し、土肥原・秦徳純協定を締結。この結果河北省に冀東防共自治政府を成立させた。土肥原は、謀略をも辞さない強硬な対中政策の推進者として昇進を重ね、『満州のローレンス』と畏怖された。特務機関畑を中心に要職を歴任し、陸軍士官学校長も務めた」。

「欧米からは、『東洋のロレンス』と呼ばれ、中国からは、『土匪原』と憎しみを込めて呼ばれ、蒋介石が独自に作成し連合軍に送ろうとしていた日本軍戦犯順位の資料で1番に上げられていたが、性格は温厚で、小事にこだわらず、私欲の無いお人好しだったと言われる。20年余りを中国で勤務したため、中国語が堪能で知己も多くいたと言われる」。

「満州事変の後、市長の居なくなった奉天(現在の瀋陽)の臨時市長となり、運営経費を個人名義で借り入れた事もあった(後にこの借金の返済を巡って苦労することとなり、本人を含む家族は、二間ほどの借家での非常に貧しい生活を強いられることとなる)。また、中国人の相談によく乗ったため、一部の中国人には慕われていた」。

「そして、軍規には特に厳しく、『誠心を以って中国民衆に臨め』『中国民衆から徴発するな、を焼くな、女を犯すな』を末端まで徹底させた。そのため土肥原の部隊の後方には、難民が付き従っていたと言う。また得意とした謀略については、『謀略はテクニックでは無く、それはすべて《誠》の心で事にあたるべきである。小手先で相手を牛耳り、圧迫するのでは無く徹頭徹尾《誠》をもって赤心を人の腹中に置けば、結局は人と人とのつながりで、我が意は相手の心に響き、通じるものである』と言っていた」。(ウィキペディア)


本作の俳優陣ことも押さえておきましょう。まずは主役のロレンスに扮したのは「おしゃれ泥棒」(1966)、「ラ・マンチャの男」(1972)でもお馴染みのピーター・オトゥール。

ピーター・オトゥール(Peter O'Toole、本名:Peter Seamus O'Toole 、1932年8月2日 - )は、「イギリスのアイルランド系俳優。シリアスで濃厚なドラマから軽妙なコメディまでこなす演技派として知られる。アイルランドのゴルウェイ州のコネマラ生まれ。リーズで新聞社に勤めていたが、アマチュア劇団に参加して1949年に初舞台を踏む。海軍除隊後、奨学金を得て王立演劇学校に入学。1955年プロ・デビュー。当初は舞台俳優としてシェークスピア劇を中心に活躍した」。

「1960年の『海賊船』で映画デビュー。1962年、『アラビアのロレンス』で監督デヴィッド・リーンに抜擢され、主役を演じる。188cmの長身と緑青色の眼が印象的なロレンスが話題を呼び、アカデミー主演男優賞候補となる。その後も数々の名作に出演し、計7回も同賞にノミネートされながら、一度も受賞していない。2003年にアカデミー名誉賞を受賞。1959年に舞台女優のシアン・フィリップスと結婚、二人の娘をもうけるが1979年に離婚。長女ケイトは女優。1975年には腹部の悪性腫瘍のため余命幾ばくもないと告知を受けたが、手術を受けて奇跡的に回復した」。

トルコに対して反乱を起しつつあるアラブ民族反乱軍の指揮者ファイサル王子を演じたのは、アレック・ギネス。

サー・アレック・ギネス CH, CBE(Sir Alec Guinness de Cuffe CH CBE, 1914年4月2日 - 2000年8月5日)は、「イギリス・ロンドン出身の俳優である。広告の仕事をしていたが演技に興味を持つようになり、オールド・ヴィック・シアターの舞台に立つようになった。第二次世界大戦後に本格的に映画に出演し始め、イギリスきっての名優として知られるようになった」。

「『戦場にかける橋』でアカデミー主演男優賞を受賞。1980年には名誉賞も受賞している。また、『アラビアのロレンス』のファイサル王子や『スターウォーズ』旧3部作(エピソード4~6)でオビ=ワン・ケノービ役を演じたことでも知られている。本人は出演を後々まで後悔していたようである(特にライトセーバーを使った殺陣のシーンは、彼がジェダイ・マスターであるとは到底思えない最低の演技だったと言える)。ファンからサインを頼まれた際には、2度とスターウォーズを観ない事を約束させた上で書いた、というエピソードがあるほど」。

「1959年に大英帝国勲章を受章し、同年ナイトになった。また1994年に舞台での長年の功績が称えられ、CHになった。2000年に肝臓癌で死去。晩年は病により殆ど映画には出演しなかった」。

ホウエイタット族の首長アウダ・アブ・タイを演じたのはこれも名優アンソニー・クイン。

アンソニー・クイン(Anthony Quinn、1915年4月21日 - 2001年6月3日)は、「アメリカで活躍した俳優、画家及び作家。彼の俳優としての経歴は1936年にデビュー作の『Parole』や『The Milky Way』を含むの幾つかの作品に出演したことから始まる。短期間の劇場出演の後、セシル・B・デミルの目にとまり、1940年代にパラマウント映画の幾つかの作品で様々な人種の悪人を演じることを依頼された」。

「1947年には彼は50本以上の作品でインディアン、マフィアのドン、ハワイの酋長、中国人ゲリラ、滑稽なアラブ人など様々な役を演じたが、大物俳優ではなかった。彼は劇場に戻り、ブロードウェーで三年間を過ごし、『欲望という名の電車』のスタンリー・コワルスキー役などで成功を収める。1952年の『革命児サパタ』と1956年の『炎の人ゴッホ』でアカデミー賞助演男優賞を受賞。また、1986年にはゴールデングローブ賞の生涯功労賞(セシル・B・デミル賞)を受賞している」。

ハリス族首長アリに扮したのは、オマー・シャリフ。

オマー・シャリフ(Omar El-Sharif、1932年4月10日-)は、「エジプト出身の俳優。本名マイケル・シャルフーブ(Michel Shalhoub)。材木商の家庭に生まれる。カイロの大学を卒業後、イギリスへ留学、ロンドンの王立演劇アカデミーで演技を学ぶ。帰国後、1955年にエジプト映画でデビュー。アラブ映画界の人気を確実なものにする。同年エジプト人女優ファーティン・ハママと結婚(66年離婚)」。

「1962年、『アラビアのロレンス』のベドウィン族長アリを演じ、ハリウッドデビュー。アカデミー助演男優賞候補にもなり一躍知名度を上げ国際俳優になる。その後『ドクトル・ジバゴ』など出演作が続いたが、ここ最近は映画から遠ざかっていた。2003年、イブラヒムおじさんとコーランの花たちでセザール賞最優秀男優賞受賞。『オーシャン・オブ・ファイヤー』などにも出演し、俳優として再活動している。また、世界選手権に出るほどのコントラクトブリッジの腕前で、本も何冊か書いている。英語、アラビア語、ギリシャ語、フランス語を話す」。(以上、ウィキペディア)

私がプロデューサーなら、土肥原賢二氏没後60年を記念して滝田栄さんで「満州のロレンス」を映画化したいですね。


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