読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

崩壊しかけたファンタージー、「ネバーエンディング・ストーリー」(西独、英/1984年)と迷宮

2008-03-15 09:31:06 | 映画;洋画
原題;THE NEVERENDING STORY/DIE UNENDLICHE GESCHICHTE
監督:ウォルフガング・ペーターゼン
製作:ベルント・アイヒンガー、ディーター・ガイスラー
脚本:ウォルフガング・ペーターゼン、ヘルマン・ヴァイゲル
音楽:ジョルジオ・モロダー、クラウス・ドルディンガー
主題歌:リマール (Limahl) 『The Neverending Story』(邦題:『ネバーエンディング・ストーリーのテーマ』)
撮影:ヨスト・ヴァカーノ
出演:バレット・オリヴァー、ノア・ハザウェイ、タミー・ストロナッハ

「大まかに分けると二部構成となっており、前半では本の中の登場人物であるアトレーユの視点からバスチアン(Bastian)が本の中の世界、『ファンタージエン』の崩壊を救い、後半ではバスチアン自身がファンタージエン国に呼ばれ、本当の自分を探す物語となっている」。

本作の原作「はてしない物語」は、ドイツの作家ミヒャエル・エンデによるファンタジー児童文学。その後、作品としては3までが映画化されていますね。しかし、原作のおもむきがあるのは1作目だけで、その1作目もオリジナルの話とは終わりかたが異なっているといいます。そこには原作者と製作者サイドの軋轢があったことを知りました。

「映画化され、『ネバーエンディング・ストーリー』というシリーズになったが、シリーズ第1作のラストは、原作者のミヒャエル・エンデの意図に沿わないものであった。彼はこれを嫌い訴訟までおこした。また、2作目以降は原作のストーリーとはほとんど関係ないストーリーになっている」。

「原作者との裁判騒動は有名で、発端は契約書の見落としが原因と言われている。当初監督は黒澤明、役者はドイツ人、幼ごころの君は日本の和服少女、ファルコンは中国の龍と要望があったと言われているが、契約の失敗で原作者であるミヒャエル・エンデはスタジオ見学も許されぬ不遇を受ける事となる」。

「決定的だったのがラストシーンであり、本の世界の力で主人公が現実の人間に復讐するオリジナルストーリーの部分である。ここにきて原作者の怒りが頂点を迎え、このシーンをカットして欲しいと告訴に踏み切る事となる。結果は敗訴となり、「ミヒャエル・エンデ」の名前をオープニングから外す事で和解した」。

「後にミヒャエル・エンデは『ファンタージェンを破壊するために悪の人狼が脚本を書き、映画にした』『原作の前半だけを映画にしても意味がない』等と多くの批判を残すのだが、その割りには2・3と原作とかけ離れた続編を支援するなど不可解な行動も多い」。(ウィキペディア)

ミヒャエル・エンデ(Michael Ende, 1929年11月12日 - 1995年 8月29日)は、「メルヘンのお膝元、ドイツの児童文学作家。ドイツ南部のガルミッシュ=パルテンキルヒェンで生まれた。父はシュールレアリスム画家のエドガー・エンデ。日本と関わりが深く、1989年に『はてしない物語』の翻訳者佐藤真理子と結婚している。又、日本の黒姫童話館にはエンデに関わる多くの資料が収集されている」。

「1929年 11月12日、バイエルン州ガルミッシュで生まれる。この頃からナチスが台頭し、ミヒャエルが小学校に入学する頃、父エトガーが『退廃芸術家』の烙印を押され、生活が苦しくなった。1941年 ギムナジウムを落第。1945年 16歳の時、疎開した14~15歳の少年が軍に徴兵され、一日訓練を受けた後、前線に送られ、初日に学友3名が戦死する」。

「ミヒャエルにも召集令状が来たが、彼は令状を破り捨て、ミュンヘンまでシュヴァルツヴァルトの森の中を夜間のみ80km歩いて、疎開していた母の所へ逃亡。その後、近所に住むイエズス会神父の依頼でレジスタンス組織『バイエルン自由行動』の反ナチス運動を手伝い、伝令としてミュンヒェンを自転車で駆け回った」。

1948年 戦後に転入したシュタイナー学校を退学、演劇学校に入学。
1950年 演劇学校卒業。1シーズンだけ舞台に立つ。
1951年 女優インゲボルク・ホフマンと知り合う。
1953年 父、息子とほぼ同年の愛人と同棲。ミヒャエルは絶望した母を精神的、経済的に支える。
1961年 『ジム・ボタンの機関車大旅行』がドイツ児童文学賞をとり、生活が安定。
1964年 インゲボルク・ホフマンと結婚。イタリア移住。
1972年 『モモ』完成。

1977年 日本訪問。能・歌舞伎を鑑賞。禅僧と対談する。
1979年 『はてしない物語』完成。
1985年 妻インゲボルク・ホフマン死亡。ミュンヘンに戻る。周囲にドイツ語を話す人がいなくなったことが帰国理由。
1989年 「エンデ父子展」のため再来日。『はてしない物語』の翻訳者佐藤真理子と結婚。
1995年 8月28日、胃癌により66歳で死去。葬儀はミュンヘンのキリスト者共同体で執り行われた。

ところで、ミヒャエル・エンデの作品に「鏡のなかの鏡―迷宮」という作品があります。私はまだ読んでいませんが、「鮮烈なイメージと豊かなストーリーで織りなされる,30の連作短編集.ひとつずつ順番に,前の話を鏡のように映し出し,最後の話が最初の話へとつながっていく.このめくるめく迷宮世界で読者が出会うのは,人間存在の神秘と不可思議さである.『モモ』『はてしない物語』とならぶ,大人のためのエンデの代表作」だとあります。

解決しない難事件のことを「迷宮入り」と呼びますが、その原典は、世界最古のものと思われるクレタ島のクノッソスの迷宮にたどり着きます。ギリシャ神話ではミノタウロスが閉じこめられた場所とされているそうです。迷宮の設計図はクノッソスの貨幣の意匠にもなりますが、この図にあるように実は分岐のない極く単純な迷路であったといいます。

このミノタウロス(英語:Minotaur)は牛頭人身の怪物。ウィキペディアには次のような解説があります。

「ギリシア神話においてはクレタ島のミノス王の妻パシパエの子である。ミノス王は、後で返すという約束でポセイドンに願って海から美しい白い雄牛(一説では黄金)を得る。しかし、雄牛の美しさに夢中になった王は、ポセイドンとの約束を違え、白い雄牛を生け贄に捧げず、代わりの雄牛を生け贄として捧げ、白い雄牛を自分の物にしてしまう」。

「これに激怒したポセイドンはミノス王の妻に呪いをかけ、后は白い雄牛に性的な欲望を抱くようになる。ダイダロスに命じて雌牛の模型を作らせた彼女は、自ら模型の中へと入り雄牛の身近へと訪れた。結果、パシパエはミノタウロスを産むこととなった。星、雷光を意味するアステリオス(Asterios)と名づけられるが,「ミノス王の牛」を意味するミノタウロスの呼び名のほうが有名」。

「ミノタウロスは成長するにしたがい乱暴になり、手におえなくなったミノス王はダイダロスに命じて迷宮(ラビュリントス)を建造し、そこに彼を閉じ込めた。ミノス王はミノタウロスの食料としてアテナイから9年毎に7人の少年、7人の少女を送らせることとした。3度目の生け贄にアテナイの英雄テセウスが混ざり、ラビュリントスに侵入しミノタウロスを倒した。脱出不可能と言われたラビュリントスはミノス王の娘アリアドネからもらった糸玉によって脱出することができた」。


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