青梅石灰と宮ノ平
青梅は中世より森林資源の供給地として重要視され、江戸時代になると石灰(いしばい)が注目されるようになった。家康は1606年から江戸城の大改築に取り掛かり、この時必要だったのが白壁の材料となる石灰だったのです。青梅の石灰は日光東照宮、名古屋城、二条城白壁にも使われました。
石灰上納の命ごとに、何千両もの代金が支払われ、成木地方の貴重な収入源でありました。江戸に石灰を運ぶ石灰の道は青梅街道をはじめ、幾つもの街道を作り、伝馬制度による多摩地方の発展に大いに寄与しました。石灰焼きは石灰石を掘り出し、薪の準備など多くの人々により、70日~80日かけてやっと出来上がったそうです。
先ず三方と底を石で囲み、薪を積み、その上に石灰石を積み、火をつけ、石灰石が焼けたら(900℃以上)上から水をかけると石が粉々になり石灰が出来ると言う。
青梅線と石灰石
明治時代半ばになると、石灰の輸送手段として鉄道が注目され、1891年(明治24年)日向和田石灰山の開発のために「青梅鉄道創立願」が小沢太平初め、16名により提出され1894年1月には工事が始まりました。
立川駅を起点とし、拝島・福生・羽村・小作の5ヶ所を停車場として、青梅までが11月に開通。
翌年日向和田(現宮ノ平)間も開通し、総延長20km余となりました。
当時の鉄道は線路幅69cmの軽便鉄道で、貨車も客車も小さく、子供が走って汽車を追い抜いたというエピソードがあるほどです。
「青梅線、石より人が安く見え」という川柳があるほど石灰優先の鉄道でありました。
大正時代の「筒井商工石灰窯跡」が宮ノ平で見られます。(抜粋)
永山丘陵ハキングコース
梅岩寺:幹周り2.65mの「しだれざくら」は市の天然記念物に指定され有名
旧稲葉家住宅:青梅が市場集落であったことを示す代表的な家屋で、屋号は「稲葉店」と言い、江戸時代、青梅宿の町年寄を務めた家柄で、材木問屋や「青梅縞」の仲買問屋として活躍した青梅有数の豪商でした。
18世紀後半の建築と推定され、デコボコのガラス戸は大正時代のものです。井戸も当時のものです。
1981年東京都有形民俗文化財に指定されました。
金剛寺:市名「青梅」発祥の地として有名な古刹。
明治4年多摩郡は神奈川県に属し、12年に東西南北の4郡に分割され、東は東京府に編入、残りの3郡は神奈川県に属していました。「三多摩」の呼び名はこの時生まれました。
青梅は西多摩郡に属し、金剛寺内に西多摩郡役所が設けられ、そして明治26年(1893)東京府に編入されました。
山門・将門誓いの梅・しだれ桜(梅岩寺のと兄弟にあたる。根元の石碑は松尾芭蕉の句「梅の香(うめがか)にのっと日の出る山路かな」を彫ったもの)・鐘楼(漢文16年1666の銘がある高さ106㌢直径69.2㌢の鐘で青梅の由来が刻まれている)
郷土博物館:石器づくりの実験考古学の第一人者であられる久保田正寿先生(立正大学講師・郷土博物館室長)による「打製石斧」を多摩川の河原で実地に作る実験講義を受けました。
縄文時代人の矢じりや斧などを作る二つの方法を教えて下さり「目からうろこ」の理解が出来ました。
万歩会は身近でありながら、或いは身近であるために、反って知らない事柄・地理・歴史・民俗文化・建物・自然などを歩き訪ねている会です。1日1万歩を超えて歩いてくると、その夜は疲れてよく眠れます。
何時も例会は毎月、1回実施されます。2月例会は28日、越生梅郷周辺散策の予定です。