子の権現から竹寺へ
日時:2006年10月28日
集合:西吾野駅AM9:00
行程:西吾野駅9:10⇒11:00子の権現11:30⇒11:45竹寺への鞍部(昼食)⇒13:00竹寺14:00⇒15:00中沢バス停⇒16:10原市場バス停16:10⇒16:40飯能駅16:46⇒浦安18:30
万歩計20161歩
山の会10月例会は参加者4名。私は会社の仲間と4月29日みどりの日に歩いて以来10年ぶりの「子の権現から竹寺」の関東ふれあいの道である。季節も変え日時も経つと全く新しいコースを歩くに等しい。
奥武蔵はハイキングに手ごろなコースが沢山あり、下車駅には必ず最寄の「奥武蔵ハイキングマップ」が置かれているので大変親切である。
多くのハイカーが高山不動へ向かう中、私たちだけが反対方向に。いつでもコースの入り口を見極めるのが大事で、うっかりすると皆が行く後を付いて行ってしまいそうになる。お天気も予報ほど良くなく、秋の紅葉にはまだ早いので今日は静かな山歩きが出来そうだ。小床橋で高麗川を渡る。橋の袂にまだ咲き残るセンニンソウ(日本のクレマチス)があった。
←子の権現への参道。以前に比べると道程がとても長く感じる。途中お地蔵さんや墓の数々を沿道に見て登る。桃色の秋明菊、初冬に咲くヤクシソウ、白花のゲンノショウコ・ノコンギク・白嫁菜など少なくなった秋の野草を探して行く。キッコウハグマが咲き残りの小さな白い3枚の花弁を一輪、マメヅタの中から顔を出しており、初めて見る花かと戸惑った。こんな寂しい一輪がその存在を主張して可愛らしく改めてその花美しさを再認識した。
←子の権現天龍寺黒門。そう思い出した二本杉(埼玉県天然記念物)の近くで、前回は酒盛りになったのであった。当寺の門前にある二本杉は、今は一本が枯れてしまっていた。樹齢およそ千年と言われている。ここにお土産屋さんが一軒ある。途中の山道で土を掘り繰り返した跡があちこちで見られたので見せの奥さんに聞いて見たらイノシシの仕業だという。今年の秋は熊や猪が人里に出て畑を荒らす悪さが報じられている。
←黒門にたちはだかる仁王像。昭和11年花井探嶺氏によって造像された尊像で、勇壮な姿は邪悪な者を退治し、仏法を護持しようとする意味が込められている。今まで人っ子一人会わなかったのが、山道を抜け出ると林道を2台の中型バスが上がってきた。講中参詣し護摩供に参加される方たちであった。当山には百を越える講中(気のあった同志でニ、三十人の集まりから三百人の団体まで)があると言う。
←本坊。子の権現(天龍寺)略縁起によれば、当山は911年6月13日、子の聖が初めてこの地に十一面観音をお祀りし、天龍寺を創建されたことに始まる。子の聖は、生来才知するどく仏教に通じ、生まれた時が子年子月子日子刻であったため、人々に子の聖と呼ばれ当地を終焉の地として参られ、その際「我、化縁につきぬれば寂光の本土に帰るべし。然れども、この山に跡を垂れて永く衆生を守らん。我登山の折、魔火のため腰と足を傷め悩めることあり。故に腰より下を病める者、一心に祈らば、その験しを得せしめん。」と誓いを立てられました。以来、足腰守護の神仏として信仰されている。
←鉄の大わらじ。往古より本尊さまへ履物を奉納し、願をかける習わしがあり、境内にある日本一の鉄のワラジは、その信仰のシンボルとなっている。信者が奉納したワラジ、履物などは加持祈祷されて、足腰の悪い参詣の方に持ち帰ってもらっている。霊験あると信じられている。
←本殿。講中の皆さんの護摩が順次始まっていた。
←おみくじ。ご宝前において、読経後、悩み事について、旅行、転居、縁談などの吉凶をはじめ、その年や月の指針などを仏さんにおうかがいする。
←子の権現の森。竹寺への途中から振り返る。昼食した所は、草地の鞍部で明るく南北が開けている。生憎の曇り空であったが、ご飯を食べている私たちの真向かいに、うっすらと尖った特徴のある伊豆ガ岳(標高851m)がシルエットになって現われた。標高は小床橋240m、子の権現640m。西吾野駅から歩程3.7キロ・標準タイム75分。紅葉には早いオフシーズン靄った今日のような日が静かで気持ちも休まる。
竹寺の
青黛刷ける
紅葉かな 桂子