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朝日カルチャーセンター☆ブログ

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●「エッセー・随筆教室」年間賞の作品発表(後編)【中之島】

2019年02月02日 10時00分00秒 | 中之島教室
昨日の前編に引き続き、「エッセー・随筆教室」講座で年間賞を獲得した小嶋裕さんの作品をご紹介します。本日は後編です。


映画 ああ栄冠は君に輝く
小嶋 裕

昭和16年、執筆する義雄。
語り「義雄は毎日原稿を書き続けました。ありとあらゆる様々な新聞、雑誌に応募し、ささやかな賞金や商品を得るという〝投稿生活〟を始めたのです。そして本名の中村義雄のほか、いくつものペンネームを使い分けました」

 昭和18年、義雄の部屋に短歌会のメンバーが集まる。
語り「この頃、義雄は『加賀野短歌会』を始めました。集まったのは学校教師、町役場の職員、農家の主婦、地元九谷焼の職員ら、年齢も、職業もさまざまでした」
昭和20年8月15日、玉音放送が流れる。
語り「戦争が終わって、日本は大きく変わった。民主主義の時代が幕を開けた」

 昭和22年、高橋道子22歳が加賀野短歌会へ入会した。
語り「ある日また一人、加賀野短歌会に新しい会員がやってきました。それは加賀大介にとって、運命の女性でした」

 大介は芥川賞か直木賞を取って東京に出て
小説家になろうと思っている、その時一緒に来てくれるかと道子に語る。道子は「…わかったわ…」と答える。
昭和23年、道子が朝日新聞6月20日付けの記事、全国高等学校野球大会歌の募集要項を大介に届ける。締め切りまで1週間しかない。少年たちの懸命に野球する姿を頭に描きながら大介は徹夜して「栄冠は君に輝く」を書き上げる。が、その作詞者名は加賀道子となっていた。

 大介は道子に、「あんたの名前を使わせてもらった。賞金目当てやと思われるのが嫌なんや」といった。賞金は5万円。(当時は公務員の平均給与の10倍以上の価値があった)

 そして、当選作が決まる。道子の勤める金沢貯金局にも新聞社の人が来て、道子はフラ
シュを浴びる。応募作品5252編中から最優秀作品として選ばれた。作曲者は古関裕而
と決まった。

 夏の甲子園球場、第30回(昭和23年)高等学校野球選手権大会ではこの「栄冠は君に輝く」が流れる。
 やがて大介は道子に結婚を申し込む。道子も「芥川賞を取るまで待っていることは出来ない」と、申し込みを受け入れる。

 昭和30年、大介は必死で原稿を書いて、投稿生活を続けた。
語り「その後も、芥川賞をめざして来る日も来る日も原稿を書き続けた」

 昭和33年、第34回芥川賞受賞作品は、石原慎太郎の「太陽の季節」と決まる。大介は書き溜めた原稿を燃やしている。

 昭和42年、第56回直木賞は五木寛之の「青ざめた馬を見よ」と決まる。大介は自分の書いた小説「手取川」を書き直す。何度も書き直すが、満足できない。
語り「その後も大介は悩み苦しみ、結果を出せなかった。やがて執筆活動は徐々に弱っていった」

 昭和43年、2月、道子は朝日新聞大阪本社運動部長の訪問を受け、夏の高校野球50周年に際し、「栄冠は君に輝く」作詞当時の
応募のきっかけや思いを聞かれる。道子は遂にそこで、あれは夫の大介の作品であったことを明かす。あとで大介も道子に「長い間すまなかった」と頭を下げる。その日の夕刊には「作詞者は夫でした」「加賀さん20年ぶりの真相」という見出しが出た。

 昭和47年、執筆中の大介、突然腹を抱えて苦しみだし、原稿用紙の上に吐血。

 大介の助言もあり、教師の道を目指すことになった娘の淑恵は東京学芸大学に合格、その知らせは大介に電話でつながる。その3カ月後、看病する淑恵に「何も悲しむことは、ねぇ、土にもどる…たった、それだけのこっちゃ…」と言葉をかける。
語り「それは娘 淑恵が聞いた父の最後の言葉だった」

 昭和48年6月21日、加賀大介、永眠。
享年58歳。

 大介の遺影が飾られた画面と歌碑の画面が出て、娘淑恵の声が流れる。
「父の人生は、栄冠から程遠いものだったかもしれません。でも、この歌は勝った者(側)
にも、負けた者(側)にも、心の底からエールを送るように、父が自分自身をふるいたたせるために作った歌なんじゃないかって……私、そんな気がしてなりません……」(淑恵はその後、自分と大介や、あの松井秀喜の出身校である根上町の能美市立浜小学校の校長を勤めた)
歌碑の画像を背景に「栄冠は君に輝く」が流れる。
 

雲はわき 光あふれて 天たかく
 純白のたま きょうぞ飛ぶ ……


 少年時代の大介が、フルスイング、打球は青空高く舞い上がる。少年は力いっぱい走っている、その画面に続いて、歌碑から球場俯瞰、広い田園風景が広がる画面を背景に、仲代達矢の次の語りでこの映画が終わる。
「加賀大介が私たちに残したもの。それは『栄冠は君に輝く』という言葉。そこには今を生きるすべての人々に贈るメッセージがあります。毎日を懸命に生きるみなさんには、誇るべきものが必ずある。みなさんにとって『栄冠は君に輝く』という大介の思い。それが、
昭和23年から現在に至るまで、長く愛され、歌い継がれてきた理由なのです」

 私は、昭和23年の第30回高校野球大会の開会式で甲子園から流れるこの歌の放送を、聞いたことを覚えている。その3年前、戦時中の8月7日、動員中の中学生の私は、西宮空襲直後の甲子園球場に入り、内野席を覆う銀傘もなく、外野席の木造の椅子もなく、一部芋畑になっていた廃墟のような球場に一面に突き刺さっていた油脂焼夷弾の林を見て呆然としていた。その時、もうここで野球大会などできそうにないと思っていたその甲子園球場から、若人が集まり歓呼にこたえ、純白の球がきょうぞ飛ぶという「栄冠は君に輝く」の歌が流れてきたのである。

 私はこの歌を聞いた時は、「平和」が遂に甲子園に戻ってきたことを実感して胸が熱くなった。そして「いさぎよし 微笑む希望」「青春の賛歌をつづれ」「美しくにおえる健康」「感激をまぶたにえがけ」などの歌の言葉が頭を駆け巡って、気持ちが大いに高ぶった。

 この映画は、この大会の歌の作者の夢と挫折、そして家族の物語を克明に描いて、歌とは別に人生の感動を引き出すことに成功している。私もこの物語により、この歌が作られた背景を興味深く知ることが出来た。「栄冠は君に輝く」の「君」は勿論大会に出場する選手を指すものであるが、同時に歌の作者は、芥川賞に挑戦する自分自身を「君」として自ら励ましながら、生き抜いたに違いないと、私は今思っている。

 今年、平成30年8月5日、第100回全国高等学校野球選手権大会開会式。報道によれば、妻の加賀道子は甲子園球場に足を運び、「栄冠は君に輝く」を合唱と共に口ずさんだ。そして地元、石川星稜の開幕試合も観戦。同郷の松井秀喜が始球式に立つと「鳥肌が立つような思いで、二重の喜びだった」とほほえんだ。この日は作曲した古関裕而の長男、正裕(72歳)も訪れ「100回大会で聴くのが楽しみだった。200回、300回でも歌い継がれてほしい」と語った。

(平成30年9月8日)
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いかがでしたか?
「栄冠は君に輝く」の稲塚秀孝監督からこのエッセーにメッセージをいただきました。
明日のブログで発表します。
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