ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
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忘れること

2014-04-13 16:11:51 | 日々の暮らし・思い出
このタイトルはなんだかお馴染みだね~

テレビを見てそこに出ている女優とかの名前が出てこない、そういう忘れることと、

さっき使ってた鋏をどこに置いたか忘れることは同じ『忘れる』だろうか、

ということが、さっき夫と話題になった。

夫からは違うんじゃないか・・という見解。

どこがどう違うのか分からない私は考えようとこうしている。

上に書いた鋏のような忘れでこの頃よく思うこと・・・

今、待ち針を針山に戻した、とか、ペンキ塗りの刷毛をシンナー液が入っている缶に入れた、とか、

その瞬間に「コレコレこの行為をした」と、

意識的に確認した時はやはり覚えているようだ。

行為を無意識にしてると、忘れやすい。

最近の自分を観察するとそんな感じ。

若い頃は無意識的にしていてもそんなふうではなかった・・んじゃないか・・・

わからない。忘れた。


車の運転で、スタートの時はギアをローに入れるとか、

スピードを上げる時はアクセルペダルを踏むとか無意識的に身体が動く。

そのつど今アクセルペダルを踏む、なんて意識してない。

いわば、自然にやっている。

で、認知症がひどくなると車の運転の仕方も忘れてしまうのかなと思う。


事故を起こしたくないから、この頃は発進、バックの時はかなり意識的にやってる。

意識的にやる、ことが自然にできるようになれればいいな、と思ってる。

炊飯器の蓋の開け方閉め方がわからない、という、

アルツハイマーの人の場面をテレビで見たことがある。

鋏をどこに置いたか忘れたというのと同じようなものか・・・?

どちらも自分がしたことのある行為を忘れてしまうということだろう。

けれど、鋏云々の場合、どこかに置いたということはわかっているということだ。

炊飯器の蓋の開け方について、どこかをいじれば開くというような、

開け方閉め方が存在するということはその時期のアルツハイマーの人は覚えているんだろうか。

開け方閉め方はあることはわかっているけど、

どういうふうにやるのか忘れた、という感じなのか・・・?

その人は炊飯器の前で呆然としていた。

症状が進むと、炊飯器を開けてと言われても何を言っているのかわからなくなるのかもしれない。


この前のNHKの「人体ミクロの大冒険」で、

細胞から出るオキシトシンというホルモン物質を自閉症の人の体内に入れると、

心が変わったというのがあった。

忘れるということも何かの物質(薬的なもの?)を体内に入れると

忘れにくくなるというような発見がこれから出てくるかもしれない。

そういう、物(薬・ホルモン物質)が心に作用する事とは逆の、

心の働きが身体という自然物に作用する例として、

“行為を自覚して行う”ことは、

物である脳の働きに影響を与えるのではないかと思った。


だけど、テレビで見る女優の名前についてはどういうプロセスで忘れるんだろう??

自分の行為がそれには関わってないからか・・・

受験勉強で覚えた知識も自分の行為と関わってないと忘れやすいし、

女優の名前は忘れても日常生活が不自由になるわけじゃないし、

それに、誰でも過去の記憶をどれでも取り出せるわけじゃないし・・・

ま、いいか。

でも、そういうことも忘れない、という現象に自分もなってみたい気もする。

86歳で亡くなった義母はそういうことをよく覚えていた。

どうしてなんだろう?

晩年、身体が不自由になって、テレビをほとんど一日中見ていた。

それもぼーっと見ていたんじゃなくて、関心を持って見ていたのだと思う。

新しい知識として入れ続けた、そういう記憶があったのかもしれない。

そういう新しい知識を義母より入れないでいる私は

年をとって脳の何かの細胞、神経電気信号とかの動きが緩慢になっているんだろうと思う。

旺盛な知識欲や研究欲があると、

年とっても細胞は活発に動くことになるのかもしれない。


子どもをたくさん産んだ人が100歳近くなって、

何人子供を産んだか覚えてないという話しを聞いたことがある。

それは日常生活に影響しない。

そういうことを忘れるのは神さまからのプレゼント、そんな気もする。


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