歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

「是や─これや─こりゃ」。

2006年07月28日 | 気になることば
いま手軽に手にはいる文庫本では、漱石の小説の本文がどういうふうに表記されているか、ということにこのところ関心を持っていて、おもに新潮文庫とちくま文庫の夏目漱石全集とで、ときたま比較してみているわけです。でも今日は、古本で買ったまま本棚の奥にしまいっぱなしの新書判の漱石全集を引っ張り出して、まづこれから見てみることにします。ネタは『吾輩は猫である』十一、水島寒月が郷里ではじめて自分のバイオリンを手に入れたときの、ながい話の一節。それでは新書判『漱石全集 第二巻 吾輩は猫である 下』から。ただし漢字は新字体で。

 「丁度十一月の天長節の前の晩でした。国のものは揃つて泊りがけに温泉に行きましたから、一人も居ません。私は病気だと云つて、其日は学校も休んで寐て居ました。今晩こそ一つ出て行つて兼て望みのワ゛イオリンを手に入れ様と、床の中で其事ばかり考へて居ました」
 「偽病をつかつて学校迄休んだのかい」
 「全くさうです」
 「成程少し天才だね、是や」と迷亭君も少々恐れ入つた様子である。

「偽病」は「けびやう」とルビ。表記上の注目点は「ワ゛イオリン」と「是や」。つぎに新潮文庫『吾輩は猫である』の同一箇所を見てください。

「丁度十一月の天長節の前の晩でした。国のものは揃って泊りがけに温泉に行きましたから、一人も居ません。私は病気だと云って、その日は学校も休んで寐ていました。今晩こそ一つ出て行って兼て望みのヴァイオリンを手に入れようと、床の中でその事ばかり考えていました」
「偽病をつかって学校まで休んだのかい」
「全くそうです」
「成程少し天才だね、これや」と迷亭君も少々恐れ入った様子である。

いろいろ面白い。新書判全集の「是や」が、新潮では「これや」で、つまり「是」をかなに開いただけの処理ですね。新潮は「コレヤ」と発音するものと解釈してるんでしょうか? それから、「ワ゛イオリン」と「ヴァイオリン」ぢゃ、文字づらからうける印象がかなりちがいます。

最後にちくま文庫『夏目漱石全集1』。

「ちょうど十一月の天長節の前の晩でした。国のものは揃って泊りがけに温泉に行きましたから、一人もいません。私は病気だと云って、その日は学校も休んで寝ていました。今晩こそ一つ出て行って兼て望みのヴァイオリンを手に入れようと、床の中でその事ばかり考えていました」
「偽病をつかって学校まで休んだのかい」
「全くそうです」
「なるほど少し天才だね、こりゃ」と迷亭君も少々恐れ入った様子である。

「是や」が「こりゃ」になっている。新潮の「これや」とみっつ並べてみると、旧カナで書かれた文章を新カナに書き直すのってめんどくさい作業だなあとしみじみ思いますね。ここはちくまのように「こりゃ」とすべきかなあ。しかしそれはそれとして、ちくま文庫は漢字をひらがなに開きすぎです。