一昨日,近所で不幸があり,葬儀に参列していました。一切が終わり寺を出ようとした時,お世話をしていた葬儀社の若者から声をかけられました。
「先生,分かりますか?」と問いかけられ,顔と胸に付けた名札を交互に見ながら,誰だったか思い出そうとしました。確かにかって担任した子どもだったようで,その面影が頭をよぎったものの,名前が出てきません。この私の戸惑いを汲み取り,その若者は笑顔で名前を語ってくれました。こういった茶目気のあるところは,確かにあのS君に間違いない。瞬時に20年前に1年を担任していた頃の自分にもどり,あの頃の彼の姿と今の姿を比較し,その成長振りに熱くなつかしい思いがこみ上げてきました。てきぱきと動き,さわやかに葬儀の進行をサポートする仕事ぶりに,なかなかしっかりした若者だなあという印象を受けていたものですから,なおさらその姿に人間としての大きな成長を感じ取ることが出来たように思います。短い時間の会話でしたが,私にとっては心からうれしく感じた幸せなひとときでした。
S君のことで今でも心に残っている作文があります。ひらがなの指導がひと通り終わり,子どもたちが文章を書けるようになった頃,作文の指導に力を入れていました。一日の中の時間を切り取り,その中での出来事を時間の経過に沿って書くこと(例えば,家の夕食の「いただきます」から「ごちそうさま」までの間にあったことを思い出して書いてみたり,朝「行ってきます」と言って家を出てから学校に着くまでにあったことを思い出して書いてみたりしていました)をしていた時のことです。その日は,学校を出てから家に着くまでの間のことを切り取って作文にすることを宿題にしたように思います。次の日,S君が 次のような作文を書いてきたのです。
がっこうのかえり,バス(スクールバス)をおりてから はなをつみながら かえりました。
きいろや ぴんくや むらさきの ちいさいはなを つみました。
てに いっぱいになりました。
うちについてから,ぎゅうにゅうのびんを あらって,みずをいれました。
はなをいれて,みせにかざりました。
おかあさんに,「きれいだね。」 と いわれて,うれしくなりました。
この作文で,ふだんは腕白で元気いっぱいのS君の,意外な一面を知ることができました。道端に咲く小さな花の美しさに気づき,摘んだ花を牛乳びんに入れて飾ったところに,S君の豊かな感性とやさしさを感じたことを思い出します。子どもがもっているみずみずしい感性のすばらしさを実感した作文でした。社会人として大きく成長した現在の姿の向こうに,20年前の姿がピッタリと重なります。
教師としての仕事には,教えること・育てることの他にその子の人生を見守っていくことも含まれているように思います。その子と一緒に同じ時間を生き,共に過ごした者として願うことは,その子が将来にわたって幸せな人生を送ってほしいということです。社会人として働く姿,結婚式での晴れ姿,親となった喜びをかみしめる姿等,子どもたちの成長する姿やその幸せな笑顔に接することができた時が,教師としての喜びを感じるひとときです。
私の責任(見守るということ)はこれからも続くことになります。改めて頑張りたいと思います。
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