11月6日(月)
棒ノ嶺に登った翌朝の駐車場。

▲ 平日の朝、こんなところにいるのは当然ボクのクルマだけで。
きょうもいい天気。よく眠れた♪
散歩に行こう。

▲ 道ばたの桜に白い花が、ちょぼちょぼと咲いている。
この桜の樹、四月にも花を付けていたと思うが・・

▲ 調べてみると、十月桜というらしい。
11月から12月上旬に咲く。
もちろん春にも咲く。

▲ 駐車場の隣の原っぱに、きのうから大きなテントが張ってあった。
見ると今日だれかが、もうひとつのテントを張っていた。
尋ねると

▲ ここに、複数のテントを設置するようだ。
有料で泊まれる施設にする計画らしい。
グループで手軽にアウトドアを楽しめるようなサイトにするとか。
来年の夏までに本格営業を目指すということだ。
Camping with Soul Japan株式会社
。。。。
散策の他には、

▲ クルマの中で、
窓を少し開けて風が少し入ってくるようにして、午前、午後この本を読んでいた。
(ほんとうは、これが
キャンピングカーライフで一番やりたいこと)

▲ どちらも話題の新刊本。
午前中には 「生きていくあなたへ 105歳どうしても遺したかった言葉」 を読了。
午後には 「孤独のすすめ 人生後半の行き方」 を中途まで読んでいた。
「生きていく」はご存知、聖路加国際病院の日野原先生の本。先生は今年7月に逝去。
「孤独の」はこれまた人生論教祖感のある85歳五木寛之の本。「下山の思想」の続編だ。
二人のメッセージは、好対照。
日野原の結びは、「感謝に満ちた気持ちで、キープオンゴーイングを続けましょう」。
五木のそれは、「高齢期になれば、シフトダウンしてひとり孤独を楽しみましょう」。
具体的には、前者はあくまで人生での他者との出会いを大切にして、後者は一人でも本との出合いで、回想の中での充実した孤独は捨てたものではない、と説く。
この二人の違いは
前者が師と仰ぐのはもちろんイエスキリスト・キリスト教。後者は他力本願の親鸞・仏教。根ざす宗教が異なることにもよる。
しかし、二人の違いは根本的には幼児体験の違いから来ているのだろう。
日野原は牧師、クリスチャンの尊敬してやまない両親との生活をへて。対して、敗戦時朝鮮で父と子供の前でソ連兵に乱暴される母を座視した過酷体験(「大河の一滴」)を持つ五木。人生観が異なってくるのは当然であろう。
自分はどちらの考え方を取るべきか、または別になるのか・・・
自然の中でじっくり思索するのに、この二つの本は大いに参考になった。
おお、もう4時だ。
この山間(やまあい)では、日が落ちるのも早い。
そろそろ帰らなくては。
棒ノ嶺に登った翌朝の駐車場。

▲ 平日の朝、こんなところにいるのは当然ボクのクルマだけで。
きょうもいい天気。よく眠れた♪
散歩に行こう。

▲ 道ばたの桜に白い花が、ちょぼちょぼと咲いている。
この桜の樹、四月にも花を付けていたと思うが・・

▲ 調べてみると、十月桜というらしい。
11月から12月上旬に咲く。
もちろん春にも咲く。


▲ 駐車場の隣の原っぱに、きのうから大きなテントが張ってあった。
見ると今日だれかが、もうひとつのテントを張っていた。
尋ねると

▲ ここに、複数のテントを設置するようだ。
有料で泊まれる施設にする計画らしい。
グループで手軽にアウトドアを楽しめるようなサイトにするとか。
来年の夏までに本格営業を目指すということだ。
Camping with Soul Japan株式会社

散策の他には、

▲ クルマの中で、
窓を少し開けて風が少し入ってくるようにして、午前、午後この本を読んでいた。
(ほんとうは、これが


▲ どちらも話題の新刊本。
午前中には 「生きていくあなたへ 105歳どうしても遺したかった言葉」 を読了。
午後には 「孤独のすすめ 人生後半の行き方」 を中途まで読んでいた。
「生きていく」はご存知、聖路加国際病院の日野原先生の本。先生は今年7月に逝去。
「孤独の」はこれまた人生論教祖感のある85歳五木寛之の本。「下山の思想」の続編だ。
二人のメッセージは、好対照。
日野原の結びは、「感謝に満ちた気持ちで、キープオンゴーイングを続けましょう」。
五木のそれは、「高齢期になれば、シフトダウンしてひとり孤独を楽しみましょう」。
具体的には、前者はあくまで人生での他者との出会いを大切にして、後者は一人でも本との出合いで、回想の中での充実した孤独は捨てたものではない、と説く。
この二人の違いは
前者が師と仰ぐのはもちろんイエスキリスト・キリスト教。後者は他力本願の親鸞・仏教。根ざす宗教が異なることにもよる。
しかし、二人の違いは根本的には幼児体験の違いから来ているのだろう。
日野原は牧師、クリスチャンの尊敬してやまない両親との生活をへて。対して、敗戦時朝鮮で父と子供の前でソ連兵に乱暴される母を座視した過酷体験(「大河の一滴」)を持つ五木。人生観が異なってくるのは当然であろう。
自分はどちらの考え方を取るべきか、または別になるのか・・・
自然の中でじっくり思索するのに、この二つの本は大いに参考になった。
おお、もう4時だ。

この山間(やまあい)では、日が落ちるのも早い。
そろそろ帰らなくては。
僕は一人でいるのは結構好きなんですけど、実際はいつも集団の中にいるからで、「孤独」となるとそれは寂しいような気もします。
でも、必死に突っ走ってきたSoraさんはシフトダウンでしょうかね?僕には「シフトダウン」どころか、「キープオン」どころか、「シフトアップ」「パワーアップ」しているのがSoraさんのような気がします♪
自然の中での読書と思索、素敵な時間ですね。
確かにそうですよね。ただ高齢になると現実的に孤独と向きあわざるを得ない環境になる、それでも豊かに生きられるはずだ、という考え方でしょうね(^^)。
>「シフトアップ」「パワーアップ」しているのがSoraさんのような気がします♪
ははは、そうありたいですよ。しかし、Harmonyがまた故障しまして今クルマドックに預けてあるように、私もいつエンストするかわかりませんので、もう少しこれからのことを広く考えたいですね。コメントありがとうございます。
最近よく10月桜や不断桜などを耳にすることが
有ります、京都の三千院の近くの実光院と言うお寺に
不断桜有り行きをかぶりながら花が咲いてる時が
有ります。
一人静かに読書にふける、至福の時間ですね、
人それぞれに生きて来た過程で物の見方も
違って来るんでしょうか、
行きをかぶり→雪をかぶりに、
>人それぞれに生きて来た過程で物の見方も違って来るんでしょうか~
そうであって当然でしょうね。五木寛之もTVインタビューで、「孤独のすすめ」といっても読者にすすめようということではなくて(編集者が「すすめ」の題にした)、自分はこう思うが読者はそれを参考にしてもらえばいい、と言ってました。本の副題に「人生後半は十人十色」と書いてあるように。
でも、日野原さんの言う通り「感謝に満ちた気持ち」は、持ち続けたいと思います。
母は、今、孤独です。五木さんのいう孤独とは違いますが、それを楽しむ事は出来ません。私に暴言を吐く毎日です。病気(認知症)が言わせていると思う様にしていますが、辛い毎日です。人の脳の海馬が収縮すると感謝するという感情が失われていくそうです。あんなに仲良しの母娘だったのに、認知症とは残酷な病いですね。施設の方々は、「娘さんだから言うんです。働きかけは拒否しますが、スタッフには酷い言葉は言いません。」と、おっしゃいます。親を施設へ入れた代償だと思い甘んじて暴言を受け入れています。淡々と。
人生100歳時代だそうですね。私は、夫や娘たちに嫌な思いをさせないようにしたいと、母を見ていて、つくづく思います。感謝の気持ちを持てるうちに、終活しないといけませんね。
愚痴りました(笑)
そうなんですか。だとすれば、私なんかはずいぶんもう収縮しているのですね(^^;。おそらく自分が本格的に認知症になれば、メチャクチャ暴言をわめきはじめると思います。それは病気なんだから許してください。許すというか聞き流すしかないでしょう。
もし暴言の内容が施設へ入れたことを憤るものであれば辛いでしょうね。私であったらケンカになってしまいますが、junさんならこれでもなんとか聞き流せるでしょう。お母さまは、翌日にはもう暴言のことは忘れているのでしょ。そうであれば、面会の回数を減らすのも現実的な対応だと思います。いずれ悲しいことではありますが、暴言を吐く気力も無くなりますから。
その間、愚痴を聞いてくれそうなかたには、愚痴ってバランスをとることですよ。