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智恵子の生家

2016年10月12日 21時28分48秒 | 文芸・アート
10月12日(火)

昨晩は、奥岳登山口近くの道の駅つちゆにて車中泊。

午前中はゆっくりしたあと、午後より下山。
二本松市内の安達町へ向かった。

この町には智恵子の生家が保存されている。




▲ 智恵子の生家は裕福な造り酒屋だった。

屋号は「米屋」、酒銘は「花霞」。
智恵子の部屋はこの二階にあったという。




▲ 母屋の裏口。




生家の裏庭には、「智恵子記念館」がある。

ここには、晩年病に侵された智恵子が制作した紙絵を中心に、当初の油絵等が展示してある。

パンフレットから智恵子の生涯をたどると

1886年(明治19年)1歳 長沼今朝吉、せんの長女として生まれる。
1903年(明治36年)18歳 日本女子大学高に入学。油絵に引かれる。
1907年(明治40年)22歳 卒業。洋画家の道を選んで東京に残る。
1911年(明治44年)26歳 青鞜が創刊されその表紙画を描く。光太郎のアトリエを訪ねる。交流始まる
1914年(大正3年)29歳 光太郎詩集「道程」刊行。駒込のアトリエで光太郎との生活を始める。

1914年


1915年(大正4年)30歳 窮乏の中での充実した二人の制作生活が続く。


 大正15年アトリエにて

しかし病気がちで1年に3,4カ月は郷里で過ごす。

1929年(昭和4年)44歳 長沼家が破産、一家は離散する。
1931年(昭和6年)46歳 統合失調症の最初の兆候が現れる。

転地療養を繰り返す。

1935年(昭和10年)50歳 南品川のゼームス坂病院に入院する。
1938年(昭和13年)53歳 没。死因は久しく蝕んでいた栗粒性肺結核。
1941年(昭和16年)光太郎が詩集「智恵子抄」を刊行する。


智恵子の生家の後ろの鞍石山には、「智恵子の杜公園」が整備されている。

光太郎と智恵子はこの丘をよく散策したという。



▲ 詩碑の丘。

階段を上がっていくと



▲ 智恵子抄からの「樹下の二人」の有名詩碑がある。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点々があなたのうちの酒蔵。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡った北国の木の香に満ちた
空気を吸おう。

あなたそのものの様な此のひんやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
私は又あした遠く去る、

ここはあなたの生れたふるさと、
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。



うむー、光太郎の智恵子個人を深く理解し、愛する心情がにじみ出ている・・。




▲ 同じくこの丘からは、安達太良山が望まれる。

真ん中のポチだよ。もう分かるねキミも。

時間がもう遅いこともあるが、残念ながら今日も青い空は見れなかったが。

静かに燃える純愛の世界をここで見たような気がした。