Annabel's Private Cooking Classあなべるお菓子教室 ~ ” こころ豊かな暮らし ”

あなべるお菓子教室はコロナで終了となりましたが、これからも体に良い食べ物を紹介していくつもりです。どうぞご期待ください。

ダマスクローズ 82

2020年07月10日 | ダマスクローズをさがして — Ⅱ

健康全書(Tacuinum Sanitatis、Taqwim al-Sihhah)についてヨーロッパから見たお話をしました。今まで書いたところと一部分重複するところがありますが、ここからはイスラム側から眺めたお話をしていこうと思います。

 

ヨーロッパではローマ帝国滅亡後、長く社会全体が著しく停滞しました。特に政治は無政府の状態でした。ただひとつキリスト教組織は無傷のまま残っていましたので、これが政治機能をも果たす事になります。このことが、不運な結果を産むあらゆる事象の発端になっていると思うのですが。そのことはともかく、西ヨーロッパでは三圃制と重量有輪犂※の普及で耕地化が広がります。

             

       https://ja.wikipedia.org/wiki/ ベリー公のいとも豪華なる時祷書 から

※重量有輪犂 11~12世紀のヨーロッパでは、アルプス以北のしめった重い土地を深く耕す為に重い犂に車輪を付けて牛に引かせる方法が考え出されました。重量有輪犂は重く大きいので方向転換が難しく、耕地は細長い形態をとるようになり、これと細長い耕地をいかした三圃制農業が普及したことで農業生産力は向上しました。

そのことがさらに、農村の共同体の形成を促します。当然生産性も向上するわけで、余剰生産物を市場で売りさばく事になります。初期商業主義の勃発です。領主は市場の使用許可、ある程度の自治を認めたときはそれに対する課税を、河川の通行、道路の通行、あらゆる場所で税金を課し始めます。それでも市場は拡大を止めません。儲かった商人は教会への献金を始めました。あちこちで城は建て替えられ、教会は大きく建て替えられるようになります。当然意識も変わるわけで、社会全体で十字軍遠征機運が盛り上がります。

 

ヨーロッパの荘園は、法的・経済的な権力が領主(貴族、司教、修道院)に集中していました。領主の経済生活は、自らが保有する直営地からの収入と、支配下にある農奴※からの貢納(労役、生産物、金銭)によって支えられていました。

農奴は自由民ではないですが、奴隷だったわけでもなく、地域の慣習に従い、法廷料を支払えば訴訟に訴えることもできました。農奴が保有財産を転貸することは珍しくなく、下で述べるように余剰農産物が市場で捌かれるようになると(13世紀頃からは)領地での労役の代わりに金銭納入が行われるようになります。

    

※農奴 D'après une miniature figurant sur le manuscrit de la Sainte-Chapelle (Bibliothèque Nationale) -12世紀の労働者-サント・シャペル写本のミニチュア(国立図書館)から

 

上で述べた7行の内容は末期ローマ帝国の状態とほぼ同じです。ヨーロッパの国々は農奴制を何故か古代ローマから引き継いだようです。労働を奴隷に頼る世界は、どのような最期を迎えるかは、古代ローマ帝国の例をしっかりと見てきた、あるいは学んできたはずなのですが、1000年、2000年のスパンで歴史を眺めることができないのか、あるいは目先の金に目が眩むのか、今なお同じことを繰り返しているのは、皆様よくご存じのとおりです。農奴に道具と、機会を与えればどのように社会に好影響を与えるかは、以降のヨーロッパ社会の変革をみれば、納得できるはずなのですが。

       

民衆、兵士を先導する隠者ピエール(生年不詳 – 1115/7/8、11世紀末にフランス北部のアミアンにいた司祭で、第1回十字軍における重要人物。十字軍本隊に先立ち、民衆十字軍を率いてエルサレムを目指しました。イーガートンコレクション(大英図書館に所蔵の歴史的写本集)から。

Miniature of Peter the Hermit leading the People's Crusade (Egerton 1500, Avignon, 14th century)

 

力が体の中に蓄えられてくると、それを使いたくなるのは個人の場合でも、団体の場合でも同じことで、外に向かって吐き出されるようになります。十字軍遠征の始まりです。西暦1000年は、西ヨーロッパは未だほとんど100%キリスト教組織世界ですから、その人たちが武器を取って向かえば、死ねば殉教することになるわけですから、これほど恐ろしい事はありません。遂に十字軍を先導するキリストが登場します。戦争の度にキリスト教の教義は大きく変節してゆきます。

   

十字軍を戦いに導くキリスト。“クイーンメアリー黙示録”から。14世紀初頭f. 37(大英図書館蔵)Christ leading crusaders into battle, detail from an Apocalypse, with commentary (The “Queen Mary Apocalypse”), early 14th century, f. 37 (British Library)

 

結果はともかく、このことがきっかけで、ヨーロッパ人がアラビアと接触をします。

自分たちとは全く異なる、次元のかけ離れた文化に西ヨーロッパ人は接することになります。格段の差のある、優れたものに接すると、人は見境無く飛びつくようで、アラビアの医学を、自らの教義との違いなど全く気にせず、次第にヨーロッパに取り入れてゆきます。

サレルノ医科大学の教師コンスタンティヌス・アフリカヌス(1017–1087)らが翻訳した、アル ラージーやイブン・スィーナーの医学書がヨーロッパに入ってきます。12世紀になると、イタリアなどで大学が設立され、医学部ではアラビアの医学書を教科書とした専門教育が行われるようになります。15~16世紀まで、医学部では主にユナニ医学が教えられ、18世紀までイブン・スィーナーの『医学典範』が教科書として使われます。16世紀には、アンドレアス ヴェサリウス※((Andreas Vesalius、1514/12/31- 1564/10/15、解剖学者、医師。人体解剖で最も影響力のある“De humani corporis fabrica”(人体の構造)の著者。現代人体解剖の創始者。)がガレノス解剖学の誤りを証明し、19世紀になると西洋医学は伝統医学的思考から自然科学へと方向を転じますが、ユナニ医学の体液病理説(四体液説)は、ヴィルヒョー※(Rudolf Ludwig Karl Virchow、1821/10/13 -1902/9/5、ドイツの医師、病理学者、白血病の発見者として知られ、「全ての細胞は細胞から生じる」と述べ、細胞病理説を唱えました。)まで引き継がれます。

        

          ※アンドレアス・ヴェサリウス(1514/12/31- 1564/10/15)

 

            

               ※ ヴィルヒョー(1821/10/13 -1902/9/5)

 

 


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