カフェテラス

テラスの片隅で一人心に呟くように

夕日地蔵と北山十八間戸

2010年10月19日 | ☆ ふるさと・大和

夕日地蔵
般若寺近くを散策した。
最初に行ったのが「夕日地蔵」だ。
3枚の画像をコラージュした。
このお地蔵様の表情が良い。
泣いているのか笑っているのか、見る人の心によって受け取り方が変わるようだ。
お相撲さんに、このような表情の人がいる。(名前がすぐ出てこない)

この辺り一帯は中世「般若野」と呼ばれた三味地(墓)で、その入り口に立つお迎え地蔵として1509年造立されているそうだ。
(般若寺発行・般若寺への道より)

ならざか の いし の ほとけ の おとがひ に こさめ ながるる はる は き に けり 
(奈良坂の石の仏の頤に小雨流るる春は来にけり)・奈良の仏をこよなく愛した歌人 会津八一の短歌があり感動した。




道路からの北山十八間戸
道路に沿ってびっくりするほどの長い漆喰壁と木の板塀のような建物がある。

鎌倉時代に忍性上人によって建てられた、唯一最古のハンセン病などの重病者を保護・救済した福祉施設。
大正10年3月3日、国の史跡に指定された。



北山十八間戸についての説明板
各板塀に「北山十八間戸」と書かれているので、板塀ではなく板戸なのだと分かった。

東西約37メートルあり、内部は18室に区切られている。
1室の広さは2畳ほど(1室のみ4畳ほど)で収容者に衣食住を提供した。
その数はのべ1万8千人といわれる。(ウィキペディア フリー百科事典)



北山十八間戸の内側
管理人さんに言って建物の内側に入れてもらった。
部屋は閉じられていたが、18の部屋に区切られた空間であることが内側からだとよく分かる。
奈良の福祉施設の発祥の地であるのではないかとふと思う。



庭から見える大仏殿の屋根
この建物から、街の屋根の遥か向こうに大仏殿の屋根が見える。
鎌倉時代だと遮る物がもっと少なかったに違いない。
想像に過ぎないが、当時は治癒の希望もなく体を病んだ人が、
大仏様にすがるような思いで、この屋根に向かっていたのではなかろうか。

日野~八王子
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9 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ポン太)
2010-10-19 19:25:39
北山十八間戸のこと知りませんでした。
こんな施設があったのですね。感動です。

昨日はありがとうございました。
ダリアはアルバムにするつもりなくて、他のものと一緒に写真を縮小したのですがどうにもまとまらなくて結局アルバムになりました。
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ポン太さんへ (anikobe)
2010-10-19 20:19:58
車で目的地まで走っていては、こんな知らない所があるのですよね。
般若寺には、数え切れないほど行っているのに・・・
「やはり足で見る」こともプラスにしなければと反省しています。

昨日はお疲れ様でした。今日のお天気具合と大違いでしたね。

ダリアはアルバムで生かされていると思いましたよ。
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北山18間堂 (東京老人)
2010-10-20 09:42:50
ずいぶん立派な建物です、
現代にまで見ることの出来る病院をたてた、
人たち、立派ですね、

奈良にはまだ知らないよきものが、
多いような気がします。
返信する
東京老人さんへ (anikobe)
2010-10-20 10:21:31
はじめて見て驚きました。
建物にも、そしてこれを造った、救済の実施にもです。

まだ知らない所もう少し歩いてみます。
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北山十八間戸 2 (hirom)
2010-10-20 14:27:17
先陣の慈愛の心、本当に凄いと思います。国の史跡に指定と言うことは、元の形に忠実に再現していることでしょうね。

奈良の福祉施設の発祥の地と言うより、日本でr最初ではないでしょうか?たぶん、鎌倉時代以前から このような施設が継承されたものと思われます。

相撲取り 最近はあまりTVも見なくなっていますが、高見盛 でしょうか? 好きな力士の一人です。
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訂正 (hirom)
2010-10-20 14:31:20
いつものことですが、訂正です。

先陣 → 先人 の誤りです。

日本でr → rは不要です。
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hiromさんへ (anikobe)
2010-10-20 15:17:24
私もここを訪れた時、そして庭から大仏殿が見えたとき、hiromさんと同じようなことを思いました。

それは光明皇后様のことです。

『光明皇后は篤く仏教に帰依したまいその御慈悲の心は施薬、悲田両院の御施設となってあらわれるなど、今日の社会福祉事業の御先駆となられた』

現在の福祉事業、医療の理念が、すでにここから始まったように思ったのです。

お地蔵様のお顔、高見盛 の土俵の上の顔、頑張り、嬉しい、悔しい、それらの表情にとても似ているように思えました。
「すぐ出てこない」最近こんなことが良くあります。hiromさんが、書いてくださって「あっ!そうや、そうやった。」といった具合です。
ありがとうございました。

誤字、脱字、変換ミスは私もいつもやらかしています。
どうかお気遣いありませんように。
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ハンセン病 (マオママ)
2010-10-20 22:24:46
長い間、世間から見放されつい最近まで隔離されていましたね~
奈良にも隔離施設があったのですね
負の遺産かもしれません

隔離された方々も1300年前と同じように大きな大仏にすがったのかもしれませんね
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マオママさんへ (anikobe)
2010-10-21 06:21:46
この施設の内側に立った時、先ず目に付いたのは遠くの大仏殿の屋根でした。
崖の上に建つ地の利は、難病の隔離といった目的を果たしたでしょうが、大仏殿の見える土地と言うことに、施策の何かが見えるようです。
負の遺産は、福祉への道の魁として制定されたのでしょうね。
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