以前僕は静岡市の有東というところに3年ほど住んでいた。イノシシ料理が出る「十枚荘」という旅館?の隣にあるマンションだった。
3DKという間取りは当時新婚だった僕らにとってはちょうど良い広さだった。日曜日になると僕は、カミさんが部屋の掃除をするため外に追い出された。持ち家になった今は二階と風呂の掃除が担当になっていることを思うと昔日の感がある。
で、運動不足解消をかねて自転車で静岡の街中を走るのを習慣にしていた。カミさんが掃除を終わるまでの一時間半あまりで何処まで行って帰ってこれるかを試していた。また時々一眼レフを持って出かけることもあった。
路地という路地に入り込んで発見を楽しむのが好きだった。当時まだ僕らの家のすぐ南側には、SBS通りより北側であったにもかかわらず、田んぼがあったし、隣の南八幡には果樹園があって花を咲かせ、季節になると紙の袋が実にかけられていた。
その南八幡より少し西に静岡駅から南に下る石田街道があって、その道路とSBS通りが交差するところにセントラルスクエア静岡アピタがある。
僕がその存在を気にかけている池田ボクシングジムはバス停で言うと城南静岡入り口になっているはずで、僕が住んでいた当時は静岡女子校だった。
その城南静岡高校は石田街道を静岡駅から向かうと左に折れるが、池田ボクシングジムは右に折れて、比較的安くておいしいコース料理が食べられる「じゃがいも」の過ぎて珈琲屋さんの角を右手に折れると見えてくる。
一通の多い静岡で自転車で稼いだポイントの一つだ。
最初発見したときはかなり一人で興奮してたのを覚えている。だって「あしたのジョー」みたいな、「丹下拳闘倶楽部」みたいな木造の空色のペンキ塗りのボクシングジムが平成5年の、静岡の中田に残っていることが到底信じられなかったからである。僕は中の様子を窺ったが入り口に丹下段平というよりエディタウンゼントに似た頑固そうな爺さんがストーブあたりながら威圧感のある目で睨んだので後ずさりして退散した。あの爺さんはきっとトレーナーに違いないと思った。
その後僕は仕事仲間をつれて「静岡食い倒れツアーを」企画し、腹ごなしのアトラクションとして、「昭和の散歩、古本屋と丹下段平探せ!」と、ツアーの一部に盛り込んだことがある。
しかしその地域は再開発のまっただ中にあり、今はどうなっているか分からない。周りを全て取り壊され、一軒だけ残った昔ながらの古本屋のお祖母ちゃんは、まあ先は長くないから終わりまでここに居るよといっていたが元気なのだろうか。
3DKという間取りは当時新婚だった僕らにとってはちょうど良い広さだった。日曜日になると僕は、カミさんが部屋の掃除をするため外に追い出された。持ち家になった今は二階と風呂の掃除が担当になっていることを思うと昔日の感がある。
で、運動不足解消をかねて自転車で静岡の街中を走るのを習慣にしていた。カミさんが掃除を終わるまでの一時間半あまりで何処まで行って帰ってこれるかを試していた。また時々一眼レフを持って出かけることもあった。
路地という路地に入り込んで発見を楽しむのが好きだった。当時まだ僕らの家のすぐ南側には、SBS通りより北側であったにもかかわらず、田んぼがあったし、隣の南八幡には果樹園があって花を咲かせ、季節になると紙の袋が実にかけられていた。
その南八幡より少し西に静岡駅から南に下る石田街道があって、その道路とSBS通りが交差するところにセントラルスクエア静岡アピタがある。
僕がその存在を気にかけている池田ボクシングジムはバス停で言うと城南静岡入り口になっているはずで、僕が住んでいた当時は静岡女子校だった。
その城南静岡高校は石田街道を静岡駅から向かうと左に折れるが、池田ボクシングジムは右に折れて、比較的安くておいしいコース料理が食べられる「じゃがいも」の過ぎて珈琲屋さんの角を右手に折れると見えてくる。
一通の多い静岡で自転車で稼いだポイントの一つだ。
最初発見したときはかなり一人で興奮してたのを覚えている。だって「あしたのジョー」みたいな、「丹下拳闘倶楽部」みたいな木造の空色のペンキ塗りのボクシングジムが平成5年の、静岡の中田に残っていることが到底信じられなかったからである。僕は中の様子を窺ったが入り口に丹下段平というよりエディタウンゼントに似た頑固そうな爺さんがストーブあたりながら威圧感のある目で睨んだので後ずさりして退散した。あの爺さんはきっとトレーナーに違いないと思った。
その後僕は仕事仲間をつれて「静岡食い倒れツアーを」企画し、腹ごなしのアトラクションとして、「昭和の散歩、古本屋と丹下段平探せ!」と、ツアーの一部に盛り込んだことがある。
しかしその地域は再開発のまっただ中にあり、今はどうなっているか分からない。周りを全て取り壊され、一軒だけ残った昔ながらの古本屋のお祖母ちゃんは、まあ先は長くないから終わりまでここに居るよといっていたが元気なのだろうか。
それはともかく、昔('60年ごろまでのことです。)は、静岡駅に近い地域を別にすれば、今のように家が建てこんでいるという風景は見られませんでした。
有東も、久能街道(静岡にはめずらしい「くねくね道」なのは、今は暗渠となっている川沿いの道だったからなのでしょう。)沿い以外は家がなく、裏手は一面の田んぼでした。
小さな小川には、夏になればホタルが乱舞する姿もごく当たり前に見られました。
市立商業のあたりから南は何もなく、あの辺りから海岸の松林が見えました。
現在のSBSの社屋のあたりは、田んぼのなかに「ラジオ静岡」の送信アンテナ(社屋は紺屋町の駿府博物館となっているところにあった。)だけがぽつんと建っていました。
(当時はNHKがやっと静岡でもテレビ放送を開始したころで、テレビという存在自体知りませんでした。)
そこには、係りのおじさんが一人だけ常駐していました。
おじさんに見えたのは、実際は機械の監視をする技術者の若いお兄さんだったのでしょう。(今では、送信所のなかへ簡単に入れてくれるなんてことは、考えられないでしょう。)
幼少のころの、あの辺りの風景はなつかしいかといえばそのとおりなのですが、ボクは駅の北側に育ったせいか、七間町の扇子屋で100円の板チョコ(初任給が1万円に満たない当時は高級菓子だった)を買ってもらったり、呉服町の木造であった「すみや」でグッドバイの歌のレコード(SP)を買ってもらい、入口に置いてあったビクターの大きなニッパー犬を見たりした思い出の方がどうもしっくりきます。
父の自転車に乗っけられて宝台橋を渡った先は、いつまでたっても「よその町」といった感じなのです。
いつも、昔のことばかりで恐縮です。
城下町の特長と言えるのかもしれませんが、いわゆる御城下とそうでないところを厳密に線引きしていたような感じがあるのではないでしょうか。
僕の親戚が安東にいて住宅がいっぱいという印象でした。
父親は旧静大でそのあたりが市街の限界なのかなとも想像しますが違うのでしょうね。
これもずっと昔ですが西から東海道線で静岡駅に入る直前に列車が減速を始めるあたりだったっかと思いますが、道路が線路の上をまたぐ場所があったかと思います。そのコンクリートの欄干が印象的でこの道を越えていくと何処に行くんだろうって思ってました。
想像ばかりですみません。
その後そこに2度ほど行ったんですが、いずれも抜き足差し足でした。
→これは気質の違いと言うより、ひとえに地理的条件と言った方がいいと思います。
旧静岡市は平坦地がきわめて少なく、旧浜松市と比べれば「実質的な面積」は半分以下でしょう。
そのため、地価が高く、静岡市民からすると浜松市の土地はうそのように安く思われます。
旧静岡市は'70年ころから、人口の社会減となったのですが、その原因の多くは、安い土地を求めて焼津、藤枝市等へ転出した人の分だと思われます。
また、もともとの地場産業であった事業所なども条件のいい土地を求めてかなりの事業所が焼津、藤枝市等へ転出しました。
つまり、浜松市での郊外の役割を焼津、藤枝市等が果たしてきたということでしょう。
> これもずっと昔ですが西から東海道線で静岡駅に入る直前に列車が減速を始めるあたりだったっかと思いますが、道路が線路の上をまたぐ場所があったかと思います。そのコンクリートの欄干が印象的でこの道を越えていくと何処に行くんだろうって思ってました。
→これは、先にボクが言った「宝台橋」のことではないでしょうか。
宝台院(この橋ができた'36年当時、宝台院は広大な境内を有する大きなお寺であったため、寺の名前を橋につけるのに何の違和感もなかったのでしょう。)横の常磐町二丁目交差点と馬渕一丁目(ヤマダ電機横へ通じている道)を結んでいました。
'79年に国鉄の前面高架化により廃止になったのですが、それこそ駅南への入口でした。
浜松って三方原台地に駆け上がるように街がひろがっていますね。
でも曳馬のあたりには田んぼとかも残っていて、旧浜北市との街的境界があったように思えます。
でも姫街道方面はずうっと街が伸びていくんですね。
雄踏街道沿いも伸びている。
で、曳馬から浜北方面とか浜名湖方面が地価の安さとかアクセスのしやすさで郊外店が建ち並び駅前が地盤沈下してる状況を見れば、静岡のコンパクトさの再評価も頷けますね。
丹下健三という人を思い出しました僕。
この人は静岡新聞・静岡放送本社とか、
静岡新聞・静岡放送の東京支社の建物、
駿府会館などを設計した人ですけどね、
他にもね、東京都庁舎、広島平和公園、
フジテレビ本社ビル、代々木競技場等、
そうそうたる建築物を設計してるのね。
つうか、『他にも』っていうか、それ、
そっちの方が有名だろ!って話ですが。
この人が設計した物は以下のところで。
http://www.ktaweb.com/works/index2.html
静岡新聞の時計をみるたびに『丹下!』
と思い出すのです。2005年03月22日没。
SBSの東京支社って新幹線が減速するくらいのとこの右手にみえる、丸太に椎茸はやしたようなビルでしょ。
凄い空間利用だと思うと同時に東京で肩身の狭い思いしながらも頑張っているんだなあと勝手に感慨にふけってました。
そこで、卒業式かなにかをやったように記憶しています。
東京駅近くの静岡新聞、静岡放送と書いてあるビルも丹下健三さんだったのですね。
あれは非常に気になっており、いつも新幹線から写真を撮ろうとするのですが、一度も成功していません。
そして、多くのマスコミ関係も同氏に高い評価を与えているようです。
ただ、駿府会館はいくらなんでも失敗作です。
デザインの斬新さから来るものなのでしょうが、建設当初から雨漏りになやまされたようです。
内部構造の関係で冷暖房設備もできず、耐震強度も劣り、大きな地震がきたら真っ先に倒壊するだろうとも言われ、静岡市の鉄筋の公共施設のなかでは真っ先に取り壊されてしまいました。
その先進的デザインは認めつつも、何でも評判だけで飛びつくと高いものにつくという教訓でもあったと思われます。