「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

ヘルシング 第8巻

2006年08月01日 23時44分02秒 | 書評
HELLSING 8 (8)

少年画報社

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 いやあ佳境ですねえ。

 って言ってもこのマンガ始まってからずっと佳境の繰り返し出来てるんですけどね。
 
 なんと言っても今回からのメインはアンデルセン神父ですなあ、かれが聖遺物管理局(通称マタイ三課)から持ち出した失われたローマの最後の遺物である「聖なる釘」を持ち出すところですな。

 アンデルセンがこの釘を使うときのアーカードの表情がまたたまりませんね。

 そして今回は加筆したのかアーカードがなぜドラキュラになったのかの場面も意味深に描かれていますので見逃せません。

 なんと言ってももう一〇年近く連載してるのにまだ八巻という根気強さが読者に求められるマンガです。

しゃがむ親子  ジベタリアンについて考える

2006年08月01日 18時26分08秒 | 日記
 世の中はすっかり夏休みです。

 コンビニにお昼を買いに行ったときの話。

 店内に入ると雑誌のコーナーがあり、長時間の立ち読みはご遠慮下さいとかいてある。

 それに対抗したわけではないでしょうが、見事にしゃがみ込んでいる親子を発見した。

 女の子は5歳ぐらいだろうか、母親も25歳を超えていないかと思われる若い人である。

 親子の座り方にまったく遜色はない。

 5歳の娘さんが大人っぽいしゃがみかたをしているのではない。母親の座り方が5歳の娘さんと変わらない無防備さと幼さを表現しているといって良い。

 女性が女の子化している。

 かわいらしさを追求していることが幼さに繋がっているのではないかと思ったことは以前に書いた。

 もう一つは女性の立ち居振る舞いに恥ずかしさが無くなってきているように感じるのは僕が嫌味なおじさん化している証拠なのであろうか。

 ミニスカートは今にはじまったことではない。僕の母親の時代にも流行して、「恥ずかしくてこんな流行早くなくなれと思った」と僕の母親に言わしめた時代がある。だから下着をみられないように極力努力したんではないかと思う。

 今ほどあけすけにスカート翻したりしなかった。もちろん見せ下着なんか無かった。かといって平気で足を拡げて座ったり地面に座り込んでものを食べているのはどうかと思った。

 そう思いながら家に帰ってくると田舎の僕の家のそばでは、畑や田んぼの畦に座り込んで、いかにもくつろいだ恰好でお祖母ちゃん達が話し込んでいる。

 僕は今時の女性達が幼児化してると書いたが、ひょっとすると東京も大阪も京都も傍若無人な田舎人の感覚をもった日本古代からの田舎人の感覚に占領されているのではないかという戦慄する事実に気付いたのかもしれないと疑っているのです。