雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 4月16日(金) 前の特殊車両に写ったマイカー

2010年04月20日 05時25分02秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 4月16日(金) 前の特殊車両に写ったマイカー

 別になんということもないのですが、運転していて、前の特殊車両の後部が鏡のようになっていて、自分のマイカー(スズキ・アルト)がきれいに写っていたので止まった時にデジカメで写真を撮りました。

 なお、浜松の大企業スズキの軽自動車アルトを買ったのは、別に、スズキが好きなわけでも、スズキの会長さん・鈴木修(おさむ)さんを応援しているわけでもありません。
 ただ、たんに、いろんな軽自動車を比較したら、定価48万円で、いちばん安かったというだけです。
 もちろん「安かろう,悪かろう」ということはありますが「車は動けばいいのだ」という自分のポリシーで、月賦で月2万円づつ支払い、60万円になりました。(もう終わっています)。
 早く太陽電池自動車にしたいです(まだ普及していませんが)。

 鈴木修さんは、浜松市の行革審を牛耳っていましたが、公開の「行革審」とは別に,市民には非公開で、しかも行革審委員には、日当を支払う事前の検討会議があるのを知って,浜松市におかしいじゃないですか、日当を支払うなら公開するべきで、非公開なら日当は支払うべきではないのでは、と質問したことがあります。

 つまり、公開の浜松市行革審は、非公開の行革審で念入りにリハーサルをした、公開の演劇なんだと思います。
 浜松市は、そうではありませんというなら、すべて公開すべきです。



 

遠州の遺跡・寺社8 「井」の国、引佐町の支配者・井伊氏の謎

2010年04月19日 05時15分17秒 | 遠州古代史
遠州の遺跡・寺社8 「井」の国、引佐町の支配者・井伊氏の謎

 引佐町の龍湛寺の駐車場から南へ出ると、道は道なりに西へ曲がっていて,西へ曲がったすぐのところに「井伊氏の井戸」の看板が出ていました。

 初めて来たボクは、運転している車を慌てて、左折して細い道へ入りました。すぐ左側にその「井伊氏の井戸」がありました。
 
 井伊氏の始祖は、1010年(寛弘7年)に、この井戸で生まれたという井伊氏祖・備中守共保です。

 井伊共資さんという人が、渭伊社参詣時に 井戸脇に常人に見えぬ神童を発見して、我が子とし、一女と婚せしめたのが井伊家始祖共保という伝説があります。

 井戸のところに書いてあった解説では「又、史説として、天日槍命(あめのひほこのみこと)三十二代三宅好用、醍醐天皇の延喜年間奈良より荘司として着任、この井戸の傍に居を構え、それより三代目の井端谷(いはたや)篤茂の娘が共資公に嫁し共保を生誕したとも伝えられます。三宅の家紋は橘であります」とあり、びっくりしました。

 天日槍命なら日本に渡来した新羅の王子で、明らかに、古代朝鮮の新羅系の人です。
 そうすると、もしかしたら、「橘諸兄」など「橘」氏は、新羅系でしょうか?

 思い出しましたが、引佐町の西隣りの三ヶ日町は、橘諸兄の子孫の橘逸勢が、伊豆国への護送中に、遠江国板築(浜松市三ヶ日町本坂)で病没しました。
 これも何か、井伊氏と関係あるんでしょうか?

 そこで病没したということは、そこで熱心に看病してくれた人たちがいるということだと思います。

 もうすこし「橘」氏のことも調べます。

 

本と映像の森30 マンガ版「風の谷のナウシカ 上」徳間書店

2010年04月17日 22時26分34秒 | 本と映像の森
本と映像の森30 宮崎駿さん著、マンガ版「風の谷のナウシカ 上」徳間書店

 大好きな「ナウシカ」のマンガ版です。徳間書店からマンガ版はB5版で2種類あって、5巻のソフトカバー版(1冊 円)と、2巻のハードカバー上製版()があります。

 月刊「アニメージュ」の1982年2月号から延々13年も断続的に連載された「風の谷のナウシカ」です。

 巨大産業文明(たぶん現代地球の)が「火の7日間」戦争で自壊し、地球には有毒物質がまき散らされ、地上の多くが有毒ガスを発する「腐海(ふかい)」に覆われている時代です。

 腐海のほとりの、海からの風で腐海からの汚染に守られている人口500人の小さな王国「風の谷」で、物語は始まります。

 「風の谷」の族長ジルのただ一人の子、ナウシカは、ジェットエンジンつきのグライダー(凧)「メーヴェ」を操って、腐海の脇に降り立ち、腐海の森に入っていきます。

 マンガ版でも、アニメ版と同じナウシカ・アスベル・ユパ・クシャナ・クロトワ・王虫(虫3つのムシ)・巨神兵が登場しますが、その性格も役割も運命も微妙に違っていたり、まったく違っていたりします。
 違わないのは、トリウマのクイやカイ、キツネリスのテトくらいでしょうか。
 
 ボクの好きなのは、マンガ版のほうです。とくに、アニメ版のナウシカは脳天気であんまり好きではないし、アニメ版のクシャナより、マンガ版のクシャナのほうが好きです。

 最初の出だしくらいはまったく同じですが、何よりも、物語の深みと性質がまるで違います。

 アニメ版ではまったく出てこない土鬼(どるく)王国が、マンガ版では、トルメキア帝国と対立する大きな極として登場して、舞台も、クシャナたちの南下で土鬼内で展開していきます。

 アニメ版では、巨大な生体ロボットに過ぎなかった巨神兵(きょしんへい)が、個性と自我をもって、ここでは違った役割を意味を演じています。
 
 マンガ版での新しい配役である、土鬼皇帝、土鬼皇弟ナムリス、マニ族の僧正さま、マニ族の娘ケチャ、トルメキアのヴ王、ヴ王に仕える道化、少年チククなども、それぞれすごくいいですね。

 善とか悪とかではないんですね、それぞれがそれぞれの目的や生き方を追求していて、それが戦争という悲惨を起こし、さらに最終的に破局となるか、ナウシカや多くの人がそれにかかわっていき・・・・。

 ボクはときどき、何年かに1回、ナウシカの世界に立ち返って、そこからまた現実世界に帰ってきているような気がします。

 ナウシカが、下巻で、王虫の精神世界・「バーチャル腐海」に入り込み、そこから地上に帰ってくるかどうか、みんながやきもきする場面があります。

 現実の人生は、たぶん誰にとっても、そういう「非現実世界」や、心の中の自分を成り立たせる「物語」が必要なような気がします。

 蛇足1
 腐海の清浄な底で、王虫がアスベルに、ナウシカのことを「小さき者が殺すなと願っているから、おまえを殺さぬ」というのは、その淵源は、清少納言が『枕草子』で「ちいさきもの」というのから来ているのかもしれません。
 
 蛇足2
 「王虫(おうむ)」の原形は、たぶん宮崎駿さんが子どもの頃に見た「ダンゴムシ」だろうと確信しています。
 物語にするなら、巨大産業文明の末期に、この「ダンゴムシ」を誰かが遺伝子改造して、集団的知性を与え、有毒物質を浄化する「腐海」の守り手にした、というストーリーはどうでしょうか。
 
 蛇足3
 アニメ版の最後で、ナウシカを自分を犠牲にして風の谷を救う「救世主」のような終わり方にしたのは、宮崎駿さんは後悔しているみたいな話があります。
 それはそうでしょうね。
 マンガ版は、アニメ版のエピソードを拾って自分の物語にしていますが、ナウシカは、みんなを救えません。
 救えるはずもありません。
 
 蛇足4
 マンガ版でも,最初はナウシカと恋し合うのは「ペジテのアスベル」なのに、途中からナウシカの恋の相手を「森の人」の王子に変えたのは、ファンダムサイトですごく不評でした。
 ぼくも「不評」です。
 
 「蛇足5」は姫さまから抗議が来そうなので自主検閲で削除しました。




雨宮日記 4月15日(木) 感激の対面!「バン」と「オオバン」

2010年04月16日 05時30分23秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 4月15日(木) 感激の対面!「バン」と「オオバン」

 午後の1時過ぎ、眠りから起きて、台所で仕事をしているN子さんに「おはよう」とあいさつしました。
 (とにかく、我が家でいちばん大事なのは(ボクが大事だと思うのは)あいさつです。帰ってきて子どもがそこに居たら「ただいま」、N子さんがお茶を入れてくれたら「ありがとう」、他に特別、会話がなくてもいいんです)。

 シャワーを浴びて、ヒゲを剃って「行ってきます!」と歩いて仕事に行きました。三浦橋でヒドリガモの群れを見ると、あれ?真っ黒い小さな鳥がいっしょに泳いでる!
 あれって、真っ黒で、くちばしが赤い!もしかして「バン」!
 その瞬間、そのバンがこちらの視線を察したのか、他のヒドリガモたちは動きもしないのに、慌てたように、下流へ逃げていきました。
 
 仕事へ行かないといけないので、歩いて仕事に行き、終わった夕方、まだ明るいので、急いで家に帰って、望遠性能のいいデジカメを持って、三浦橋に行きました。

 あれ?さっきの赤いくちばしの黒い水鳥より少し大きめの,白いくちばしの水鳥がいるではありませんか!
 これって「オオバン」だ!
 それも3羽も。
 感激です!
 というのは、ボクが高校生の頃(40年前です)に読んだ児童冒険小説で、イギリスの作家、アーサー・ランサムさんの著作『オオバンクラブの無法者』を読んだ記憶がずっとあったからです。
 イギリスの湖水地方で、鳥とヨットの好きな少年少女たちが、オオバンの卵を守る物語です。 
 いまこれを書きながら思ったのは、『オオバンクラブの無法者』の主人公の科学少年ディックは、科学少年のなれの果ての雨宮智彦の原形かもしれません。
 
 「三つ子の魂、百までも」というけど、幼子の魂、純粋だった(?かな?ぼくはかなり不純でした)思春期の魂を、何十年たっても、保持できていれば、幸せなんじゃないでしょうか。

 ぼくは、思春期の透明な純粋な、魂を保持している?
 N子さん、どう?

 えっと、かなり、汚れているかもしれませんが。ぼくの部屋の汚れと、魂の汚れは、N子さん、ちゃんと区別して欲しいなと、思います。

 オオバン・小判、じゃない、オオバンとバンの話から離れました。

 写真は白いくちばしのオオバン2羽です。
 めおとのつがいかな?

 



雨宮日記 4月12日(月) 「織部」のお店でお茶碗・湯飲みを

2010年04月13日 06時25分45秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 4月12日(月) 「織部」のお店でお茶碗・湯飲みを買いました

 イオン市野に行ったら、ボクの大好きな茶の湯武将「古田織部」の名前のついた、おしゃれなお店「織部」がありました。

 古田織部さんは、マンガ「へうげもの」の主人公で、織田信長さん、豊臣秀吉さん、徳川家康さんにそれぞれ仕えて、最後に家康さんに反抗して死を選んだ茶道武将です。

 織部さんは、美濃焼を考案し、へしゃげた陶器や、陶器に花や模様を描いた、クロスオーバーな武将芸術家です。
 詳しくは、マンガ「へうげもの(発音・ひょうげもの)」を読んでください。
 おもろいです!
 
 自分が日常的に使う、お茶碗や湯飲みは,自分の趣味の範囲内でしたいなあと思って、横で、妻のN子さんが、あきれ顔で見ているのを、横目でみながら、お茶碗と、湯飲みと、急須を買ってしまいました。
 というより、いまの自分用のお茶碗・湯飲みが、自分で選んだのではないので、ださいので、湯飲みなんかはなんとお寿司屋の湯飲みで、毎日、毎食のお茶碗や湯飲みくらいは、自分で決めたいんですね。
 「自己決定権」は一部では不評ですが、(ぼくも万能とは思いません、許容範囲があると思いますが)、それでいい範囲もあると思います。

 この前の「里山喫茶」でフルートの中村泉さんが「どんな服装で演奏するか、ネットで服を探して、まず形から入ります」と言っていたのが心に残っていて、つまり、イメージから入るということだろうなと、思いました。
 
 家に帰って、自分で選んだ「花の急須」でお茶を入れ、「花の湯飲み」で飲んでいると、なんとなく「おいしい」気がしました。

 

 
 

本と映像の森29 奥野正男さん著『鉄の古代史3』白水社

2010年04月13日 05時57分06秒 | 本と映像の森
本と映像の森29 奥野正男さん著『鉄の古代史3 騎馬文化』白水社、2000年1月20日発行、231ページ、定価2800円+消費税

 奥野さんが批判する、日本古代史の「定説」は以下の通りです。

 ① 戦後の日本古代史の通説は、戦前の「皇国史観」と古代天皇家が朝鮮南部を支配したという「任那日本府」説を表面的には避けて否定するように見えながら,実は、それを受け継いでいる。

 ② 3世紀の卑弥呼は大和(現在の奈良県)にいて、3世紀から南朝鮮を支配する日本統一国家が成立していた。

 ③ 高句麗の「広開土王」碑文の「倭」は、近畿天皇家・大和政権の派遣軍である

 ④ 倭国の鉄は、5世紀まですべて輸入にたよっていて鉄の獲得が、近畿天皇家の南朝鮮への軍事的遠征と支配の理由である

 ⑤ 5世紀の『宋書』に出てくる「倭の五王」は、近畿の天皇のことである。

 ⑥ 前方後円墳は、近畿天皇家が、日本列島の地域豪族に、設計を配布し、その造作を許可したものである。

 このような問題について、奥野さんは、考古学の解明した事実に基づいて、この当時の流れは、南朝鮮から日本列島へ流れていくのであって、その逆ではないことを明らかにします。

 3世紀からの近畿天皇家による南朝鮮の軍事的支配という虚構は、2010年の今は、崩れ去る寸前です。

 このことを雨宮智彦は、解明して、通説に反論していきたいと思います。

 

遠州の遺跡・寺社7 引佐町の龍潭寺の石庭(せきてい)

2010年04月13日 05時19分57秒 | 遠州古代史
遠州の遺跡・寺社7 引佐町の龍潭寺の石庭(せきてい)

 4月11日(日)に、龍潭寺にも行きました。ここは、「井の国」=今の「引佐町」をすくなくとも平安時代(あるいはもっと前から)から江戸時代までの地域豪族「井伊氏」の菩提寺です。
 井伊氏の元祖・共保さんから40代の祖先をまつっています。

 ちょうど本堂の工事中でしたが、有名な、小堀遠州さんが設計した「石庭」は見ることができました。
 小堀遠州(こぼりえんしゅう)さんは、父親が豊臣秀吉の弟・豊臣秀長に仕え、遠州さんは茶の湯では、千利休さん→古田織部さん→小堀遠州さんという流れの宗匠です。
 さらに、建築や庭造りにも才能を発揮したマルチタレントです。

 この小堀遠州さんが企画・設計・監督した「石庭」は、龍潭寺へ来る前に見た「天白磐座遺跡」と多くの共通点があります。

 ① 自然の中に、たくさんの石が散在していること。
 ② 中心的な巨石がいくつかあること(天白磐座遺跡では、山頂の3つの石と西南の2つの石、龍潭寺石庭では両脇と中心の3つの石)
 ③ 周囲に緑の森が茂っていて、鳥の声が聞こえること
 ④ どちらも周囲に水が流れていること(天白磐座遺跡は神宮司川が、龍潭寺石庭は人工的な水の流れが)

 ここからは推理なのですが、天白磐座遺跡では、小堀遠州さんの生きていた江戸時代まで、祭祀が続いています。
 
 小堀遠州さんが、井伊家の当主の依頼を受けて、この「龍潭寺石庭」を設計したときに、地元の人あるいは井伊家当主さん自身から天白磐座遺跡のことを聞き、実際に、この天白磐座遺跡を見にいった可能性は大きいのではないでしょうか。
 あまりにも類似点が多すぎます。

 これ以上のことは、もっと小堀遠州さんのことを調べて書きたいと思います。





雨宮日記 4月11日(日) 引佐町の竜ケ岩洞(りゅうがしどう)

2010年04月11日 22時45分23秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 4月11日(日) 引佐町の竜ケ岩洞(りゅうがしどう)

 定年退職して、しばらく時間のある(お金はない)妻のN子さんとたどる地域発見の旅です。
 今日は、車でわが家を出発して約30分くらい、浜松市北区の引佐町へ来ました。(「遠州古代史」で紹介する部分はカットしますので。)

 天白岩座遺跡ー龍湛寺ー井伊家発祥の井戸、はそちらに回して、いきなり竜ケ岩洞(りゅうがしどう)へ来ました。

 竜ケ岩洞(りゅうがいわどう)なのに、なんで「りゅうがしどう」なんだと思うでしょうが、元々、竜ケ岩洞は,標高359.1mの「竜ケ岩(りゅうがし)山」の中の石灰岩を雨水が溶かしてつくられた鍾乳洞で、山の名前が「りゅうがし」なので、仕方ありません。

 回りが緑の山の引佐盆地を車でドライブして、だんだんと里山の感じの家や畑が点在する中に入っていき、だんだんと登っていくと、突然、回りに売店や駐車場がいっぱいあるところに出ました。
 車を誘導するおじさんたちが何人もいて、無料駐車場のひとつに入れました。

 観光地化しているので、マイカーの家族連れも多くて、豊橋・三河ナンバーも多いです。

 ちょうどお昼だったので、N子さんと2人で(久しぶりだね、2人でお弁当を持って、」何年ぶりだろ)お昼を食べるベンチを探しました。 
 ベンチでN子さんの手で握ったおにぎりを食べながら(えっと、おかかと昆布の2種類でした)、桜の木がたくさんあって、桜のピンクと白の花びらが、風でいっぱい舞い落ちて、なんだか、すごく幸せな気分になりました。
 
 お腹をいっぱいにして、戦闘準備終わり!
 アドレナリンを発生させて、地底探検に向かいました。

 大人1人650円の入場券を買って、洞窟へ。

 この竜ケ岩洞は、全長1000m、歩ける部分だけでも400m、古生代の2億5千年前の石灰岩を雨水が長年かけて洞窟をうがったのを歩きます。

 むかし子どもの頃に、親といっしょに旅して入った、山口県の秋芳洞ほど、天井など大規模ではないけど、地底の驚異、楽しみました。

 入り口から折り返し地点まで、だんだん上へ登りながら、たぶん200m、折り返し地点から出口まで,少しづつ下りながら、たぶん200m、すごく「地底の異界」を楽しめた時間でした。

 出口に設置された、無料の,日本で初めての「洞窟資料館」は、よかったです。単なる「観光地」ではないということかな。
 N子さんといっしょに、石灰岩や秩父古生層や洞窟生物やアンモナイトや三葉虫や・・・いろいろ学びました

 「洞窟資料館」に写真パネルで展示していた、小さな入り口から探検して泥まみれになって、この竜ケ岩洞を見つけて、広げて、観光洞にした話は、2人で、すごく感動しました。
 ちゃんと、物語や本にして欲しいです。 

 洞窟を出て食べた「わさびアイスクリーム」おいしかったです。
 N子さんにも、すこし、なめてもらいました。

 
  

 

遠州の遺跡・寺社6 天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡

2010年04月11日 21時32分18秒 | 遠州古代史
遠州の遺跡・寺社 天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡

 今日4月11日(日)は暖かくて、N子さんと2人で、お弁当(おにぎり)を持って北区引佐町まで出かけました。
 
 今日の一番の目的地は「天白磐座遺跡」です。数年前に初めて行ったことがあり、今回が2回目です。

 渭伊神社の駐車場に車を止めて、「むささびがいます」という看板を見て、ゲートボールをしているおじいさん・おばあさんたちの横を通り、渭伊(いい)神社の境内に入りました。
 N子さんは、ぼくの神社趣味を知っているので別に驚かないのですが、「ここが何か特別な神社?」と怪訝な顔でした。
 N子さんの前に立って、渭伊神社さんの前で(今日は裏を見せてもらいますよ、よろしくと)拝んでから、神社の横をすり抜けて裏山に登っていきました。
 
 急な山を登っていくと、現われました。
 山の途中に、いくつもの大きな石が土の中から露出していて、山頂(標高は約42m)にはひときわ巨大な岩が3つ、とくに2つの石が大きく、その真ん中が空間になっていて、異様な空間です。
 「すごい、なにこれ」とN子さんも感嘆し「誰かがこれ運んできたの?」と言います。確かに、まるでダイダラボッチか誰かが、大きな磐を3つここに運んできて置いたみたいな状況ですが、それはないだろう、むしろ、逆に、誰かがこの位置に埋まっていた巨石を土の中から掘り出したのではないか、と思います。

 辰巳和弘さんなどが、この遺跡を発見し発掘調査をした結果、周囲の土の中から、古墳時代を中心に、縄文時代から江戸時代までの祭祀遺物が発見され、縄文時代から江戸時代まで続く祭祀遺跡であることが明らかになりました。

 おもしろいのは、3つの巨磐に囲まれた山頂部分には、古墳時代の遺物は見つからないことです。つまり、最盛期の古墳時代には、この3つの磐に囲まれた地は、立ち入ってはならない神聖な空間だったということになります。

 全国でも数少ない、遠州地方でも画期的な遺跡です。
 何よりも、この大きな磐やたくさんの岩と、森と山がつくりだす異様な、結界のような空間は、まさに神が降りてくるにふさわしい、一人きりではこわくなるような「異界」です。

 それにしても、これほど重要な遺跡なのに、ほとんど人は来ません。僕たちがいた時間帯も、中年の男性が1人来ていただけでした。まあ観光地化して、人がこの神聖な結界をけがしても困りますが。
 
 山頂から南西部の山裾のぎりぎり、もう向こうは神宮司川という地点にも大きな岩とそれに重なって少し小さい岩があって、「鳴岩」というそうです。
 これは山頂の磐とは違って、磐と磐のあいだがほとんどありません。
 こちらは、小さめの厚みの薄い磐は、もしかしたら、運べた可能性もあるのではないでしょうか。
 2つか3つの磐またはその磐と磐のあいだの空間を神聖視するという基本点は変わらないとすれば、そういう空間を作り出すために、小さめの磐を運んだという可能性も考えていいのではないかと、思います。

 もちろん、事実に基づく考察の範囲内である考古学では、そういう空想や推理は範囲外ですが、僕たちがそれに縛られる必要はもうとうないので、思いきり空想の翼を羽ばたかせたいと思います。

 この山のすぐ北と西を青い水の神宮司川(じんぐうじがわ)が流れていて、まさに「引佐」町は、土着豪族の「井伊(いい)氏」が支配してきた「井(い)」の町であり、同時に「石(いし)」の町であることを痛感します。

 参考文献としては、辰巳和弘さん著『聖なる水の祀りと古代王権・天白磐座遺跡』<シリーズ「遺跡を学ぶ」033>、新泉社、2006年12月2日発行、定価1575円が一番でしょうか。

 もちろん、正式の発掘報告書も出ています。辰巳和弘さん編で『天白磐座遺跡』引佐町教育委員会発行、1992年刊、です。
 浜松市に問い合わせれば、まだ在庫があるかもしれません。私は数年前に旧引佐町役場で買いました。

 なお「磐座」という言葉がここで使われたかどうか明確でないことから、「渭伊神社境内遺跡(いいじんじゃ けいだいいせき)」と呼ぶ人もいます。

 蛇足ですが、木谷恭介さんが『遠州姫街道殺人事件』というのを祥伝社から出しています。まだ読んでいませんが、手に入れて読んだら「本と映像の森」にアップします。

 さて、まだ問題があります。それは「天白(てんぱく)」という地名です。この「天白」とは、静岡県から三重県にかけて「天白神社」という神社が分布していて、その関係かとも思います。
 中区十軒町のわが家のそばの上島5丁目にも「天白神社」があります。この「天白神社」について調べると、何か「天白磐座遺跡」の謎に一歩近づけるかもしれません。

 それと、やはり日本全体での、磐座信仰・岩信仰を調べないといけないということでしょうか。

 さっき書いた「井の国」と「石信仰」の結びつきという点では、やはり注目すべきは、あの有名な北九州の「磐井の乱」(乱なのかどうかは異説が出ていますが)の「磐井(いわい)」でしょう。
 記紀では、近畿天皇家に反抗した地方勢力で北九州の王、ということになっていますが。
 まさしく、水と石の信仰を体現した名前です。
 これ、どういうことなんでしょうか。

 半日の歴史ツアーから帰ってきて、上島の行きつけのコーヒ-(雨宮は)や紅茶(N子さんは)のおいしい喫茶店「シーン」で、N子さんいわく「自分の地域にいろんな,おもしろいものがあるのね。」
 これから暇を創って、いっしょに地域の歴史を回ろうという話になりました。

 今日の話の続き、まだアップします。
 次は「石庭」です。

雨宮日記 4月10日(土) フルートの演奏会

2010年04月10日 19時39分17秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 4月10日(土) フルートの演奏会

 浜北駅前のなゆたホールで、午後、「浜松フルートクラブ第45回定期演奏会」にN子さんと聞きに行ってきました。
 遠鉄電車で曳馬駅から浜北駅へ降りると、ちょうど開場時間の午後1時でした。
 暖かい日です。

 なゆたの3階の、手頃な小さなホールです。
 2人で、こういうコンサートに行くのも、久しぶり、とても心地よい、気持ちのいい時間を過ごせました。
 
 第1部は「中村泉&続真樹ジョイントリサイタル」で、フルート・デュオで日本の春のうたメドレーやフォーレのシチリアーナを楽しみました。
 フルートやピアノが「歌っている」んですね。
 
 目を開けて衣装の「彩り(いろどり)」を楽しみながら、ときどき、目を閉じて、フルートやピアノの音の「彩り(いろどり)」を楽しみながら聞きました。

 フルートやピアノの音に彩り(色取り)があって、緑になったり、黄色になったり、青くなったり、そういう感じがしました。

 クラシックだけではなく、第1部の最後は「トトロのマーチ(歩こう、歩こう・・・)」や第2部の最初とアンコールに「崖っぷちのポニョ」じゃない「崖の上のポニョ」やカーペンターさんの「シング」など、広い選曲もよかったです。

 第2部は、「フルートオーケストラ」でフルートやピッコロなど多種類の管楽器を駆使して、リムスキー・コルサコフのシエラザードやロッシーニさんの「ウイリアム・テル」序曲など、すてきな演奏でした。

 フルートの音色に全身を浸して、自分の体に深く,深く、染みこませてきました。
 これを書いているのは今、午後8時ですが、体のなかを、まだフルートの音が循環しているような気分がします。

 なによりも、中村泉先生はじめ、みんなの、音楽を楽しく,心地よく演奏している表情が、すごく心地よかったです。
 演奏会を紹介していただいた中村泉先生、ありがとうございました。

 なゆたの1階の喫茶店「おとぎぞうし」で、里山の同僚ヤマビコさんと、N子さんと私の3人で、ケーキを食べながら感動を共有し合い、「もっと、こういう心地よい空間と時間を地域にどうやってつくろうか!」という未来企画をしました。

 帰り、曳馬駅から歩いて馬込川の三浦橋に来ると、春の暖かさで小さな羽虫がいっぱい発生していて、小さな虫をごちそうにしているコウモリたちが数十匹、夕食の真っ最中でした。
 春ですね!
 コウモリさんたちも満腹して、ねぐらに帰ったのではと思います。

 アップした写真は、なゆたの喫茶店「おとぎ草子」で食べた、おいしいショコラケーキです。
 ごちそうさまでした。



 
 

雨宮日記 4月7日(水) 記録媒体の進歩はすごいな

2010年04月09日 05時06分43秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 4月7日(水) 記録媒体の進歩はすごいな

 「本と映像の森」で書いたアーサー・クラークさんの「スペースオディッセイ」シリーズの第2作『2010年宇宙の旅』は、1981年に執筆されました。
 本の後書きに、クラークさんが、パソコンで書いた原稿を「5インチのディスケット」に記録して出版社に送った、と書いてありました。
 わずか28年前です。
 私も、知り合いにパソコンおたくがいるので、その人に教えてもらって、NECの9800シリーズを買いました。
 その当時は、まさに、その「5インチのフロッピーディスク」でした。
 そのあと、今はもう「絶滅危惧種」となりつつある「3.5インチのフロッピーディスク」になり、今はもう普通のパソコンには「3.5インチ」を差し込めるディスクはついていません。
 「3.5インチ」のフロッピーは、通常1メガですから、今のデジカメで2メガの容量のある写真1枚すら入りません。

 パソコンに接続するのはUSBメモリーが当たり前になり、いまや1ギガ、2ギガがあたりまえになりました。 
 つまり、1メガの1000倍ですね。
 2メガのデジカメ写真でも500枚入ります。

 「おまえは、資本主義の悲惨を見ずに、進歩だけを絶賛するのか!」と言われそうですが、いちおうそういう資本主義の悲惨を直視し、改革していこうとする組織の一員ですので、事実として、プラスもマイナスも直視しようよということです。

 で、今日の主題ですが、音楽が大好きで、大学時代も、浜松に戻ってからも、合唱団で歌っていた雨宮は、音楽、とくにクラシック音楽を聴くのが大好きです。

 以前は、当然、レコードですが、カセットテープという媒体ができて、さらに、レコードからCDになったけど、小さなCDでも、やっぱり1枚なんですね。
 数年前に「CDウォークマン」というのを買って、電車の中や、車を運転しながら、音楽を聴いてたのですが、やっぱりそのときにセットできるのは1枚。

 今年になって、高林の「コジマ電器」に行ったら、オーディオ・コーナーに、ソニーの「ウォークマン」という小さな器械があって、これがよさそうなので衝動買いして,正解でした。
 ソニーから宣伝費をもらっているわけではないので、たぶん「iPod」とかいうのと同じ感じの製品だと思います。
 要するに「携帯型デジタル音楽プレイヤー」です。

 たとえばAシリーズでは、64ギガから16ギガまで、記憶容量があります。
 宮沢賢治さんのいう「ススキのしたの ぎんがぎが」です(なんのこっちゃ)。
 
 私は、いま「ショパン全集」の全曲や、ベートーベン・ピアノソナタの全曲や、もっといろんな合唱曲を入れて、その時の気分で、好きな曲を聴いています。

 アーサー・クラークさんがいう、技術進歩は、一人ひとりの人間には、まるで魔法のように感じられるだろうということは実感します。


本と映像の森28 谷川俊太郎さん著『生きる』角川SSC

2010年04月08日 06時04分55秒 | 本と映像の森
本と映像の森28 谷川俊太郎さん著『生きる』角川SSC

 数日前に、妻のN子さん(と長女のTさん)の部屋のN子さんの机の上に乗っていたのを、なにげなしに手にとって、ページを開きました。

 谷川俊太郎さんは、前から「詩人」として名前は知っていましたが、この瞬間まで、まじめに谷川さんの詩を読んだことがありませんでした。

 谷川さんの詩「生きる」は、次のような言葉から始まります。

 「生きているということ
  いま生きているということ
  それはのどがかわくということ
  木もれ陽がまぶしいということ
  ふっと或るメロディを思い出すということ
  くしゃみすること
  あなたと手をつなぐこと」

 これがだい1連目です。
 そして、こんな感じの5連の言葉の塊りがあって、
 その最後に、こう結びます。

 「人は愛するということ
  あなたの手のぬくみ
  いのちということ」

 「生きる」「生きている」ということは、
 「あなたと手をつなぐこと」で「あなたの手のぬくみ」を感じることです。
 それが「いのちということ」です。

 「いのち」は、つながりです。
 あなたの、ぼくの両親が、つながって,あなたやぼくが生まれました。
 
 そういう肉体的なつながり、
 精神的な,心のつながり、
 職場や社会での生産・交換・消費でのつながり、

 「生きる」「生きている」「いのち」を、もっと考えていきたいと思います。

 

雨宮日記 4月6日(火) 演奏は歌うように,歌は語るように・・

2010年04月08日 05時48分02秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 4月6日(火) 楽器の演奏は歌うように、歌は語るように・・

 名古屋に住む,私の兄夫妻は、今年定年退職で(つまり私の妻のN子さんと同年齢ということで)、4月半ばから7月半ばまで、約100日間、夫婦で世界1周の船旅を楽しむそうです。
 それで、出発前に、実家の我が家へ泊まって、「別れの宴」をしました。うわ、大げさな。ほぼ99.99%、確実に帰ってくるんですからね。
 
 妹一家も含めて、3家族で、高林の「天竜そば」で会食をしてから、家に帰り、おじいちゃんは寝て、仕事で疲れた長女も寝て、僕たちと、兄夫妻と次女の5人で飲み、語りました。
 
 その時に、僕が里山喫茶でフルートの先生が強調していた「楽器演奏は歌うように」という話をしたら、演劇を永年やっている兄が「歌は語るように、と言うね」と言いました。
 それは共感しますね。
 日本語になっていない日本語の「歌」もあり、とくにクラシック系統であるのが「セリフとして聞き取れない歌」です。

 そのときに思ったのは、じゃあ、演劇や朗読など「語る」のは「○○のように」なんだろう、ということです。
 やはり「語るのは楽器を演奏するように」あるいは「語るのは歌うように」ですか。どっちかな。

 「語るのは楽器を演奏するように」ならば、楽器演奏 → 歌う → 語る → 楽器演奏、と循環して、なんとなく形式的には、いい感じなのですが。

 いま仕事を退職して、精神的に余裕のできたN子さんと、詩や体験の朗読チームを作ろうよと話をしているので、いろいろ考えます。

 (時間的には、仕事をしている時より余裕はなかったりします。すみません、この時とばかりに、僕がいろいろ、あれやろう、これやろうと、企画を出すので)

 
 

雨宮日記 4月5日(月) 春が始まる「清明」節でした

2010年04月07日 06時08分47秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 4月5日(月) 春が始まる「清明」節でした

雨宮日記 4月5日(月) 命萌える「清明」節

 4月5日は24節気の「清明(せいめい)」節です。
 馬込川も土手の緑と空の青を映して、微妙な階調が、とてもきれいです。
 今日から学校も新学期、会社も新年度の仕事始めかな?

 数日前から、コウモリ類が、馬込川の上を飛び始めました。
 コウモリさんたちが食べている虫たちが、やっと出てきたんですね。
 コウモリさんたち、今年もよろしくね。

 馬込川では、なぜかまだヒロリガモなどが渡らずに居残っています。三浦橋の横でみんなが善意でしょうが、パンくずをやったりして、餌付けしているからかもしれません。
 春にシベリアに帰るべきカモが渡りの時期を遅くすると、そのカモたちは、繁殖のためのなわばり取りの時期を逃してしまい、いい場所は取れなくなるかもしれません。
 野生動物のペット化・善意の餌付けは、やめたほうがいいと思います。


本と映像の森27 クラークさん他映画『2001年宇宙の旅』

2010年04月07日 05時37分07秒 | 本と映像の森
本と映像の森27 クラークさん他映画『2001年宇宙の旅』

 「本と映像の森13 A・C・クラークさん『2010年宇宙の旅』ハヤカワ文庫、早川書房」の続きです。

 クラークさんの『2010年宇宙の旅』を娘のIさんに「読む?」と聞いたら「読む」と言うので貸したら、「お父さん、この前編の「2001年宇宙の旅」というのを読まないと、わかりにくいので、ない?」と言われました。
 「本はどっかにあるけど(たぶん,押し入れの中かどこか)、てっとり早いのは、たぶん映画のDVDが出ているので、借りてきて観るのがいちばん早いと思う」と答えました。

 Iさんは、さっそく高林のゲオで映画「2001年宇宙の旅」を借りてきて見たようです。
 Iさんが言うには「セリフが少なくて、説明不足でわかりにくい!」と。
 それはまあ、1968年に映画が完成したときに、言われたことですけどね。

 「本と映像の森13」には書きませんでしたが、1968年の当時、浜松ではすぐ見れそうにないので、ぼくは当時、高校生でしたが、親に交通費をねだって(たぶん)、東京まで見に行って、たぶん東京の叔父さんの家に泊まったことを思い出しました。

 なぜ、わざわざ見に行ったかというと、当時、宇宙や天文学が大好きな「天文少年」だったので、たぶん、今も発行されている月刊雑誌『天文ガイド』か何かで見たのかもしれません。

 Iさんから借りて、何年ぶりでしょうか、41年ぶりではないと思いますが(たぶんどこかで、再視聴しています)、明日までにどうしても書かないといけない原稿を、パソコンの左半分で「一太郎」で打ちながら、右半分で「2001年宇宙の旅」をみました。
 
 やはり「映像詩」なんですね。
 人類が月へ実際に行ったのは、映画公開の翌年の1969年で、よくこれだけの映像を特撮でつくりあげたものだと思います。
  
 ここで論じるより「論より証拠」で、もし、この映画を見ていない「人類」の方がいたら、まず見て下さい。

 高校生の時に、この映画を見たので,あれ以来、ヨハン・シュトラウスのワルツ「美しき青きドナウ」を聞くと、絶対に、頭のなかに、たくさんの星がまたたく宇宙に、白いすてきな宇宙船が、地球衛星軌道のステーションに接近して、ドッキングするシーンが浮かんでしまいます。

 監督は、スタンリー・キューブリックさんで、原作小説を書いたアーサー・C・クラークさんとは、もしかして異質の人間なのかな?
 クラークさんは、たいへんだったみたいですね。

 「2001年宇宙の旅」のラストシーンの印象的な、地球を宇宙空間から見下ろしている「スターチャイルド」(映画ではたぶん、モノリスに吸い込まれて宇宙旅行をさせられたデビッド・ボーマン船長の生まれ変わり)は、「2010年」では、影も形もありません。
 
 もう一つ、モノリスに吸い込まれたボーマンさんの幻想的な旅で、一度、「高速回路」から出たような印象のシーンで、球状星団のような映像の後に、絵の具を流したような幻想的な映像が出てきます。
 そのあと、惑星の上を高速で動くような映像の前です。

 これは、クラークさんの傑作「地球幼年期の終わり」に出てくるような、肉体をもった生命体が進化して、物質から解放された純粋の精神体を描いているのではないかと思います。
 「幼年期の終わり」を参照してください。
 同じような考え・表現が、マンガ「日本沈没」全15巻の最終部分に出てきます。

 それの現実性はともかく、ポーランドのSF作家、スタニスワフ・レムさん著『ソラリス』の映画化「そらりす」とともに、SF映画の代表作といっても異論は、わたしはありません。